樋口有介 魔女   Prologue  ずいぶんヒマワリが咲いているから、季節は夏だろう。  千秋《ちあき》は灼けた砂浜に身を横たえている。周囲を太陽ほどもあるヒマワリがとり囲む。視線のはるか先には本物の太陽が燃え、皮膚を無遠慮に焙《あぶ》ってくる。その熱に実感はなく、千秋は夢うつつに日灼けあとの肌荒れを嫌悪する。  こんなに灼いてしまって、いいのかな。来月はもう二十三歳だから、肌も若くない。徹夜明けは目の下に隈ができるし、枝毛も多くなった。こんな歳になって日灼けなんかと、千秋はまた太陽を嫌悪する。中学生のころから陽射しには気をつけ、皮膚を白く保ってきた。それなのに今は黒いビキニで砂浜に横たわり、防御もせず光に身を晒《さら》している。  いったい私、ここで何をしているのだろう。太陽の下には海が青く広がっている。すぐ近くにはカモメも飛んでいる。まわりのヒマワリは風も受けず、まるで視力のある生き物のように、じわりと千秋の裸身に迫ってくる。  私、日灼けなんかしたくないのに、太陽なんか嫌いなのに、いったいこんなところで、こんな黒い水着で、何をしているのだろう。早く家へ帰らなければ、早く日陰に逃げ込まなければ……と思ったときには、ヒマワリが間近に迫り、ピラニアのように太ももへ噛みついてくる。千秋の神経に苦痛が這いあがる。ただのヒマワリが、なぜこれほど痛いのか、なぜこれほど熱いのか。  朦朧とした意識に、現実が突如、正体を暴露する。横たわっている場所は海辺や砂浜ではない。横たわっている場所は、アパートのベッドなのだ。服装も黒いビキニではなく、普段着のワンピース。太ももに噛みついているヒマワリはワンピースの裾を燃やしている炎で、遠くに見えていた太陽は火のついたカーテンなのだ。すでにベッド自体が炎を吹きあげ、床のカーペットも不快な焦臭を発している。四角いワンルームアパートの空間を、猛り狂った炎が円形に乱舞する。炎は千秋の髪の毛までを、圧倒的なスピードでなめあげる。  これは夢だ、見るはずのない悪夢なのだ。必死に現実を打ち消そうとする千秋の肺で、熱と新建材の煙が爆発する。夢なのに、なぜこれほど息が苦しいのか。夢なのに、なぜワンピースや髪の毛が燃えているのか。夢なのに、なぜ壁が燃え、なぜ黒い煙と炎がベッドを襲うのか。そしてなぜ、自分の躰が動かないのか。  夢でも幻覚でも、なんでもいい。とにかく躰を動かさなくては、とにかくこの部屋から逃げ出さなくては……千秋は必死に寝返りをうち、ベッドからころげ落ちる。同時にカーペットが炎を吹きあげ、全身が炎に包まれる。髪が燃え、肉が焼け、口と鼻腔に炎や煙が自由に出入りする。それでもまだ辛うじて意識はあり、これは夢なのだと思いながら、千秋は燃える手足をドアへもがかせる。すでに皮膚は火の熱を感知せず、煙は嗅覚を刺激せず、ただ手足の筋肉が、十センチ二十センチと、わずかずつ千秋の躰をドアへひきずっていく。  なぜこんな悪い夢を見るのだろう、誰が私にこんな悪夢を見させるのだろう。私がいったい、どんな悪いことをしたのだろう。なぜ私が、こんな罰をうけるのだろう。  最後の意識がとぎれ、炎が手足の骨にまで食い込んできたとき、千秋の躰は、ドアからまだ二メートルも手前だった。   A  北に向かった窓から新宿の高層ビルが見渡せる。樹海のような夜に無数の照明が氾濫する。光はうねったり凝縮し、東京の夜を銀河状に圧迫する。手前の不夜城は渋谷の繁華街で、その向こうに新都心のビル照明が林立する。首都高速はオレンジ色の河となって樹海をつらぬき、光は白く青く赤く、途方もない密度で夜景を装飾する。SF映画に似た夜景の無機質さが不安なのか、ぼく自身が不安なのか、ぼくは思考に蓋《ふた》をする。  ベッドに美波《みなみ》の寝息を確認し、裸でバスルームへ歩く。シャワーを温くしてセックスの汗を流す。日向での作業が腕と首筋に日灼けを残している。季節は九月、東京は真夏のような暑さがつづき、そういえば一週間も雨が降っていないなと、シャワーを浴びながら考える。  今日の現場は川崎市の新築住宅だった。早川美波はフリーのガーデニングプランナーで、北欧風ガーデニングではすでにオーソリティーだという。設計図をひき、絵コンテや模型でイメージを完成させ、土、石、花木等の現場作業は一日で終わらせる。庭全面のガーデニングからマンションのベランダまで理屈は同じこと、ぼくはその現場作業の日だけ雇われる、雑用のアルバイトだった。  このまま雨が降らないと今日の庭も水の管理が大変だなと、アルバイトながら美波の仕事を心配する。美波はぼくの姉貴と高校が同級で、ガーデニングプランナーとして独立してからは雇い主、セックスをする関係になってからは一年がたつ。  日灼けの首筋と腕を水で冷やし、腰にバスタオルを巻きながらベッドルームへ戻る。美波が目覚めていなければこのまま服を着て、部屋を出ればいい。美波は昨日も徹夜だったというし、今日も植木屋や庭師、臨時の作業員を相手に声を嗄《か》らしていた。色白で痩せ型の美波にそんな体力があることを、一緒に仕事をする日、いつもぼくは感嘆する。 「広也《こうや》くん、お水をお願い」  美波は目覚めていて、ベッドの頭板に背中をあずけている。髪は肩までのセミロング、屋外作業が多いわりに、肩も腕も蝋細工のような白さを保っている。 「起こしてしまったな」 「眠ってはいないわ。疲れて、ぼーっとしてただけ」  さっきは寝息が聞こえていたから、眠っていたはずなのに、そんなつまらないことでも美波は意地を張る。五歳年上であることの見栄なのか、ただの性格なのか、ぼくはいぶかりながらも苦笑する。 「疲れたら寝ればいいさ」  キッチンへ歩いて、ぼくは冷蔵庫からミネラルウォーターと缶ビールを抜いてくる。 「ありがとう」  美波がペットボトルに腕をのばす。  美波にペットボトルを渡し、ぼくはベッドの端に腰をおろす。美波の体臭が日向芝のように鼻腔をくすぐり、ぼくは勃起の予感にあわててビールを咽に流す。美波は徹夜明けで一日中現場作業に活躍し、部屋へ戻ってからはデリバリーのピザとビールを腹に入れただけ。いくらぼくが若くても、美波にこれ以上の労働はさせられない。  ベランダの方向からクーラーの冷気がとどく。ぼくは床から汗くさいTシャツを拾いあげる。Tシャツを頭にかぶり、バスタオルをむしってトランクスをはく。アルバイトの日は着替えを用意するべきだと思いながら、当日になるとつい忘れてしまう。 「広也くん、やっぱり帰るの?」 「泊まったら島田さんに悪いさ」 「今夜は来ないわよ」 「そういう問題じゃないんだ」 「向こうは気にしないけどね」 「それでもさ、一応は礼儀だってある」  島田という広告会社の営業マンは、美波とはもう五年のつきあいだという。結婚するとかしないとか、以前はよく聞かされたが、ここ二、三ヵ月、美波は島田の名前を口にしていない。 「さっきの話、広也くん、考えた?」  白く咽をさらして、美波がペットボトルをあおる。 「なんだっけ」 「薄情なやつねえ、有限会社の話よ」 「ああ、そうか」 「私は本気。広也くんもこの仕事に向いてるし、私たちも気が合うでしょう」 「すぐ決めろと言われても、な」  夕方ピザを食べながら話していたのは、美波の個人事務所を有限会社にすることで、ぼくに役員になれという。大学を卒業して半年、ぼくは定職もなく就職活動もしていない。美波に言わせるとガーデニングのセンスがあるそうで、どうせなら雑用のアルバイトではなく、共同経営にして仕事の範囲を広げようという。それもいいかな、とは思うものの、自分にガーデニングのセンスがあるとは思えず、一生の仕事にする熱意もない。美波と島田だって別れてはいないはずで、だから、このままでいいけどな……というのが現状での、ぼくの正直な感想だった。  ペットボトルを床におき、美波が乳房に毛布をひきあげる。美波の躰は肉も乳房もうすく、きれいな色の乳輪に小さい乳首がのっている。ぼくは素敵なプロポーションだと思うのに、美波は胸の貧弱さが不満だという。 「なーんだ、まだ十時なのね。どこかへ飲みに出ようか」 「休んだほうがいいさ」 「だって、広也くんが帰ってしまったら、つまらない」 「呼べば島田さんが来る」 「それ、皮肉?」 「社長に皮肉は言わない」 「それが皮肉なのよ。あなたは呑気な顔してて、心が冷たいんだから」 「寝不足の子供みたいだな」 「生意気を言うんじゃないの。そのビール、私にちょうだい」  尻をずらしてきて、美波が缶ビールを取りあげ、飲み残しを咽へ流す。美波の肩がぼくの胸に触れ、美波の白い背中がぼくに目眩《めまい》をおこさせる。 「とにかく会社のことは考えてね。広也くんも就職浪人では世間体が悪いでしょう」 「姉貴も同じことを言う」 「あなたは水穂《みずほ》の弟だもの、仕方ないわ」 「君の弟ではないさ」 「あら、私だって、弟とセックスはしないわよ」  吹き出すように笑い、美波がぼくの背中に腕をまわす。美波のぼってりした唇は少し乾いていて、粘膜のざらつきがぼくの日灼けに甘く染みわたる。ベッドに倒れればもう一度セックスをすることになるのだろうが、姉貴の名前や中学時代の記憶が性欲をしぼませる。中学一年のとき、水穂の同級生として美波に出会い、それから十年の時間がすぎて、今は裸の美波がとなりにいる。 「ねえ、広也くん」 「うん?」 「帰るなら仕方ないけど、私がシャワーを出るまで、待っていてね」 「どうして」 「シャワーから出たあと、あなたの顔が見えないと淋しいの」  ぼくの返事は聞かず、美波がバスルームへ歩く。腰高の尻は横幅の細い洋梨形で、脂肪のうすい太ももに皮膚のたるみは見られない。ダイエットはしていないと言うから、脂肪のつきにくい体質なのだろう。  美波がバスルームへ消えたあと、ぼくは床にころがってピザの残りを頬張る。居間兼用のベッドルームは十畳の洋室、となりの仕事部屋が八畳のフローリング。仕事部屋は壁全体が書架になっていて、ガーデニングの専門書と資料と、それに美波が自分で撮影したヨーロッパの庭園写真が一万枚以上も納まっている。南側の窓は目黒通りに面し、部屋自体は高層マンションの八階にある。通常なら途方もない家賃らしいが、マンションの所有者は美波の実家だという。  美波がガーデニングに興味をもったのは、イギリスへ留学した大学時代だった。以来ギリシャの裏町からスカンジナビア半島の北端まで、ヨーロッパ中を歩きまわった。仕事部屋は庭の設計図やスケッチばかり、高級ブランドやトレンディードラマには興味を示さず、髪なんかも自分で切ってしまう。人生をガーデニングと一体化させている美波の生き方に羨望は感じても、ぼくの生活観とは異質なものがある。  美波の仕事部屋を眺め、シャワーの音を耳に入れながら、床に寝返りをうつ。乾いた木の床が火照った背中を冷やし、『今夜は帰る』と決めているはずの意地が、とろとろと弛《ゆる》んでいく。家へ帰ってもすることはないし、明日の予定もない。それでも泊まらないのはささやかな抵抗で、どこかに島田への嫉妬がある。ぼくと会わない日に美波がどこで何をしているのか、ぼくは訊いたことがない。かりに訊いたとして、美波が正直に答えたら、どうせぼくのほうが困ってしまう。  躰を起こして、ぼくは腰にジーパンを引きあげる。美波が鼻唄を歌いながら部屋へ戻ってくる。胸には植物柄のバスタオルを巻き、頭には紺色のフェイスタオルを被せている。 「広也くん、本当に帰るの」 「お袋が心配するから」 「中学生みたいね」 「朝になって追い出されても辛いしさ」 「私がいつあなたを追い出した?」 「朝になれば追い出されるさ」 「そうやって拗《す》ねるところ、本当に中学生みたい」  あれから十年もたって、背も伸びて髭も濃くなって、ぼくだって大人になっている。ただ美波は姉貴の同級生ではあるし、ぼくの気分にも甘えはある。  美波が鏡台の前に座り、髪にドライヤーをかけ始める。鼻梁のうすい美波の横顔は端整すぎて、ぼくの愛着を素っ気なくはね返す。  ぼくは腰をあげて、きつくベルトをしめる。ドライヤーが美波の髪からシャンプーの匂いを飛ばしてくる。ぼくの未練が少しふくらむ。未練と意地が、頭のなかで三秒ほど葛藤する。 「それじゃ、おやすみ」  ドライヤーを切って、美波がふり返る。 「広也くん、十月は躰をあけておいてね」 「いつでもあいてるさ」 「そうだろうけど、来月は仕事がつまってるの。あなたのことを当てにしてるわ」  ぼくがうなずき、美波がドライヤーのスイッチを入れ、ぼくの足が二人の距離を引き離す。恋人同士の別れにしては空気が乾いていて、友達では重すぎる。このままの関係でいいと思いながら、このままの関係であることに自信はない。先のことなんか考えても仕方ないよなと、スニーカーに足を入れながら、ぼくは自答する。   B  三十分も歩けば家へ帰れるが、都立大学の駅から東横線に乗り、大井町線と池上線を乗りついで洗足池の駅に出る。時間は十一時少し前、中原街道もクルマの渋滞が解消し、タクシーや長距離トラックがエンジン音を飛ばしていく。ぼくの家は池畔を半周ほど北へ巡った南千束にあって、昼間なら散歩の年寄りで賑わう一角が、今は貸しボート屋も店を閉めている。  駅前の歩道橋を池側へ渡り、街灯の下を家へ向かう。お袋は寝ているはずだし、姉の水穂も帰っていないだろう。親父は環境生物学の専門家で、もう半年もニジェールへ行っている。中央アフリカの砂漠化阻止が研究テーマだというが、フィールドワークの適性がすぎて日本には住みにくい体質らしい。ぼくが子供のころから家にいたことはなく、一年に一度か二度、珍しいお土産をもって家にやって来る、陽気で日灼けして話の面白いオジサン、という程度の存在だった。  歩道から池畔への道へ曲がろうとしたとき、品川方向から走ってきたタクシーが急ブレーキをかける。止まったクルマの後部座席から女がけたたましく呼びかける。中原街道で急停車を命ぜられる運転手も迷惑、こんな夜中に道の向こうから大声で名前を呼ばれるぼくも、非常に迷惑だった。 「広也、待ちなさいよ、ちょうどよかった、あんたに用があったの。ほら、どうしたのよ、ぼんやりしてないで、早くこっちへ戻りなさいよ」  もう夜の十一時、昼間だって恥ずかしいのに、ぼくはうんざりと赤面する。家まで歩いても十分、クルマならほんの一、二分、用があるなら家へ帰ってから話せばいいものを、相変わらず水穂の性格は忙しい。  渡ったばかりの歩道橋を駅側へ戻り、タクシーへ向かう。水穂はもうクルマを降りて、ショルダーバッグを肩に颯爽と歩いてくる。タクシーで送る、という意図はなく、用事とやらは歩きながら済ませるつもりらしい。膝丈のタイトスカートに黒いパンプス、ジャケットはセリーヌでバッグはエルメス、靴と時計もなんとかと言っていたが、ぼくには分からない。時間があればエステにかよい、青山の美容院では女優やタレントと対等《タメ》なのだという。他人は美人だというが、水穂の容姿をもっとも称賛しているのは、水穂本人だった。 「あんた、相変わらずむさ苦しいわねえ。知らなければ近所のホームレスかと思うわよ」  一メートルほど手前で立ち止まり、水穂が眉をゆがめる。Tシャツにジーパンにスニーカーで、それでむさ苦しいと言われても困ってしまう。ガーデニングのアルバイトに、誰がアルマーニのスーツなんか着ていくか。 「姉さん、今夜は早いな」 「なに言ってるの。昼間からずっと広也を探してたんじゃない。あんた、どうしてケイタイを持たないのよ」 「姉さんに探されたら面倒だもの」 「一人前の口きくんじゃないの。その恰好だと、どうせ道路工事のバイトでしょう」 「似たようなもんだけどさ」 「トンネル工事?」 「ガーデニング」 「あら、また美波のところ」 「早川さんに言わせると、おれ、ガーデニングの才能があるらしい」 「冗談じゃないわ。あんたの才能は昼寝と無駄飯でしょう。まともな才能があれば、とっくに就職してるわよ」 「姉さんはいつも正しい」 「だからね、どこへバイトに行ってもいいけど、行き先はお袋に伝えておいてよ。昼間から私、本気であんたを探してたんだから」 「だけど……」 「立ち話もできないわ。本当に大事な話なの。今夜はおごるから、ちょっとつきあいなさい」  水穂が歩きだし、家への方向ではなく、池上線のガードへ向かう。金にシビアな姉貴が弟に「おごる」とか言いだしたのは、一年半ぶりのことだ。まさかぼくと酒を飲むために昼間から探していたはずもないから、緊急の用件ではあるのだろう。ぼくはいやな予感を感じながら、それでも仕方なく水穂についていく。  このあたりは町名が上池台となり、横須賀線の近くまでまばらな商店街がつづいている。今は花屋も雑貨屋もシャッターをおろし、道にコンビニの照明だけが流れ出す。  商店街から路地へ曲がり、その先の〔ピエロ〕というスナックへ入る。店にはぼくも二、三度は来た覚えがある。マスターの自慢は鹿児島の地鳥をつかった自家製の焼き鳥で、名前の〔ピエロ〕も本来はピエトロの予定だったものが、看板屋の間違いでピエロになったらしい。このマスターは大学でフランス文学を専攻し、大学院まで行ったという。  狭いカウンターには男の客が二人、焼き鳥で薩摩焼酎を飲んでいる。客たちは水穂の化粧と色香に恐縮し、奥の席をすすめてくれる。どこへ行っても人目をひく水穂の容姿は、ぼくにとって気恥ずかしくもあり、自慢でもある。 「やあ水穂さん、こっちの彼氏、弟さんだっけ」 「大学を出て就職浪人なの、だらしないったらありゃしない」 「姉さんが偉いと弟さんも大変だね」 「朝から晩まで家でごろごろ、近所の猫より始末が悪いわ。母親が甘やかしすぎなのよ」 「就職浪人なんて人生最高の贅沢だぜ。俺も若いころはヨーロッパを放浪したけど、今じゃ焼き鳥屋のおやじだ」 「マスターには『焼き鳥は文学だ』という哲学があるじゃない」 「あんなのは負け惜しみさ。サルトルやカミュじゃ食えないから、鳥と町内会の世話を焼いて暮らしてるわけだよ」  マスターが焼酎のボトルとアイスピッチャーを差し出し、水穂が二つのグラスにウーロン茶割りをつくる。グラスが一つ、ぼくに渡される。クーラーがきいて焼き鳥の煙は苦にならないものの、水穂とマスターの軽口も、薩摩焼酎の匂いも、ぼくにはちょっと煩わしい。 「だけどあんた……」  グラスに口をつけ、サイドの髪を左手でかきあげながら、水穂がぼくの顔を覗く。 「美波のバイト、給料はもらってるの。いくら私の友達でもただ働きはダメよ」 「それほど暇じゃないさ」 「暇だから心配してるんじゃない。あんたは父親に似て人がよすぎるの。美波ってお嬢様育ちだから、お金に無頓着だしね」 「姉さんが思うほどじゃない」 「私に遠慮することないのよ」 「分かってる」 「頼りないわねえ。あんたがしっかりしてくれないと、心配で私、結婚もできないわ」 「例の人、離婚が決まったの」 「なんのことよ」 「サッカー選手の……」 「田辺清幸?」 「うん」 「あんなやつ、とっくに別れたわ」 「知らなかった」 「そんなことはどうでもいいの。結婚というのはたとえ話よ。私はキャリアをかさねて、そのうち関東テレビを支配してやるの」 「すごい野望だな」 「広也は知らないだろうけど、私がテレビに顔を出すだけで、ファンレターが何千通も来るんだから」  水穂がまた髪をかきあげ、舌の先で上唇をなめながら、鼻の先をふんと笑わせる。ファンレターがどれほど来るかは別にして、たしかに水穂はテレビに顔を出す。この前見かけたのは去年の台風のときだ。房総半島に大型台風が上陸し、その模様を現地からライブレポートをしてた。レインコートを着て傘をさし、荒れ狂う暴風雨を背景に絶叫する水穂の勇姿は、かなり壮絶で、迫真の緊迫感も伝わってきた。ふーん、姉さんも大変だな、と思ったその瞬間、テレビの画面から水穂の姿がすぽっと消え失せた。あとで聞いたところによると、水穂は傘と一緒に突風に吹き飛ばされ、十メートルも離れたワゴン車の屋根に叩きつけられたという。手首の捻挫に膝と腰の打撲、その怪我自体がニュースになって水穂の名前はワイドショーでもとりあげられた。しかしそれはもう一年も前の話で、以降は派手な活躍も聞いていない。報道部勤務は相変わらずらしいから、たまにはニュース番組にも出るのだろうが、そんなこと、ぼくには興味のないことだ。 「ここだけの話だけどね、いま局内で、私をキャスターに推す動きがあるのよ」 「ああ、そう」 「編成局長と営業部長が私の味方なの。取締役にも二人ほど粉をかけてあるわ」 「姉さん、報道部だろう」 「だからなによ」 「ニュースのキャスターって、アナウンサーがやるんじゃないのか」 「あんたも素人ねえ。今は可愛い顔で原稿を読むだけの時代じゃないの。キャスターには美貌と知性とキャリアが求められるの。報道部で現場を知ってる私は、すべての条件を満たしてるわけよ」 「すべての条件、な」 「顔のことは今さら言わないけど、知性、教養、行動力に視聴者の心をつかむカリスマ性、何をとっても遠藤京子より上だと思うわ」 「遠藤京子って」 「あんた、遠藤京子を知らないの」 「うん」 「十一時のニュースはどこのチャンネルを見るのよ」 「どこも見ない」 「夜のニュースを見ないの? それでよく私の弟がやってられるわね」  呆れたような怒ったような顔で、水穂がルージュの濃い唇をねじ曲げる。知性と教養はともかく、行動力は子供のころから証明されている。池が狭くて鯉が可哀そう、という名目で、子供のころの水穂はよく洗足池から鯉を盗んできた。その鯉で|あらい《ヽヽヽ》や鯉こくをつくり、アフリカ帰りの親父をもてなしたのだ。他人の歓心を買うこと、男を手玉にとることには天賦の才能があって、関東テレビの編成局長や営業部長が「私の味方」と言い切るからには、どこかでその才能を行使したのだろう。 「遠藤京子というのはね……」  唇をねじ曲げたまま、グラスをあおって、水穂が肩をそびやかす。 「今はうちの局でメインキャスターをやってるけど、もともとはNHKからの都落ちなのよ。あんな猫なで声で、歳だってもう三十六なんだから。目尻も口のまわりも皺だらけ、メイクを落とした顔なんか売れ残りの干し柿みたい、それがね……」 「おれ、遠藤京子を知らないもの」 「いいから聞きなさいよ。とにかく遠藤京子なんて、寝技がうまいだけの大年増なのよ。都知事の青田伸一郎と関係があるからのさばってるの。局内ではもう誰も相手にしないわ」 「それなら、放っておいても姉さんの勝ちだ」 「そこがまた人事の難しいところなのよ。世論とか大衆の動向とかスポンサーとの兼ね合いとか、素人の広也に言っても分からないわ」  ぼくには最初から分からない問題で、興味のない話題なのに、勝手な解説をつづけているのは、水穂のほうなのだ。  ぼくはがぶりとウーロン茶割りを飲み、額に張りついた前髪をかきあげて、カウンターに肘をかける。 「なあ姉さん、姉さんがキャスターになったらおれも嬉しいけど、テレビ局のことなんか分からないよ」 「あんたに分かれなんて言ってないわ」 「だから……」 「だからね、私にとってもチャンスだし、これは関東テレビの将来にとっても重大な問題なの」 「おれに遠藤京子を殺せとか?」 「あんたにそんな度胸があれば政治家になれるわ」 「要するに、なんだよ」 「まったく、それをさっきから言ってるんじゃないの」  ぼくの顔に色っぽく流し目を送り、何かを思い出したように、水穂がほっと息をつく。目つきの色っぽさは酔いや化粧のせいではなく、生まれつきの、そういう才能だった。 「マスター、|おまかせ《ヽヽヽヽ》で何本か焼いてちょうだい」 「水穂さんは塩だっけね」 「うす味で頼むわ」 「弟さんも同じでいいのかな」 「この子は味なんか分からないの。就職もしてないくせに大食いだから、好きなだけ焼いてあげて」 「姉さん、おれ、今夜は疲れてるんだ」 「いいじゃない、どうせ明日は昼まで寝てるんでしょう」 「明日は庭の草むしりをする」 「そんなことはどうでもいいの。問題はね……」  膝にエルメスのバーキンとやらをひき寄せて、水穂が一枚のコピーを取り出す。水穂のプアゾンがねっとりとぼくの鼻腔に充満する。 「あんた、このこと、知っていた?」 「なにを」 「この新聞の記事……いいから、読んでみなさいよ」  渡された紙は新聞の記事を拡大コピーしたもので、それは行数にして二十行ほどの、見出しも小さいベタ記事だった。新宿区の落合にあるアパートの一室から出火し、若い女性が焼死したという。記事には解説も顔写真もなく、指摘されなければ読み落としてしまう。ただ被害者の名前が安彦千秋《あびこちあき》で年齢が二十二、アパート名が欅《けやき》ハイツという部分が、一瞬ぼくの息を詰まらせる。記事の最後は『現在警察と消防で出火の原因を調査中』と結ばれている。 「どうなの、あんた、知っていた?」 「まったく……」 「私ね、いま警視庁担当の遊軍なのよ。一週間前にこの焼死事件があったことは知っていた。でも火事なんていつでもあるし、気にもしなかった。それが二日ぐらい前から警察の動きが不審《おか》しくなって、記事を読み直してみたら、被害者が安彦千秋でしょう。アビコなんてよくある名前だけど、ふつうは千葉県の我孫子と書くじゃない。この字の安彦は珍しいから、それで思い出したの。この子、たしか、広也の彼女だった子よねえ」  名前が安彦千秋で、アパート名が落合の欅ハイツなら、あの千秋に間違いはない。大学三年の秋から冬へかけて、ぼくは千秋とつきあった。サッカーを観に行き、大学の公開講座に参加し、千秋のアパートへ泊まって、千秋もぼくの家へ遊びにきた。居合わせた水穂に千秋がテレビ局の仕事について尋ねたこともあるから、水穂も千秋の名前を覚えていた。そこまでは理解できても、焼死だの警察の動きだの、これは、どういうことか。 「姉さん、この記事、……なんだか分からないな。千秋は、本当に死んだのか」 「新聞が嘘は書かないわ」 「そういう意味じゃない」 「テレビのニュースでもちょっとは取りあげたの。でも火事なんて年間に六万件も発生する。関係者以外は誰も気にしないし、ワイドショーも扱わなかった。ただここへきて、どうやらその火事、放火の疑いが出てきたの。火事が放火なら殺人事件でしょう、警察もまだ捜査本部は組んでないけど、内偵は開始したらしいわ」 「つまり……」 「新聞も他のテレビ局も動いていないの。これは関東テレビの、私だけのスクープなのよ。ここで一発大スクープを飛ばして、遠藤京子を出し抜いてやる。そうなったら社長にも専務にも文句は言わせない。私は花形記者から美人ニュースキャスターへ転身、見事ファンの期待に応えられるわけよ」 「それは、いいけどさ」 「警察もね、最初は事故か自殺を考えてたらしいの。でも被害者の身辺を調査して、自殺の可能性はなくなった。彼女、今年の春からソーシャルワーカーになって、仕事も張り切ってたという」 「ソーシャルワーカー?」 「老人の介護とか、病人の精神ケアとか、そんなような仕事らしいわ」  一昨年のクリスマス前には別れてしまったから、千秋の就職先は分からない。千秋は女子大の教育学部へかよっていて、あのころは教員を目指していた。ソーシャルワーカーの仕事が老人や病人のケアというなら、教員と似たようなものなのか。  二年近く忘れていた安彦千秋の白い顔が、焙《あぶ》り出しの絵のように、ぼんやりとぼくの記憶に輪郭をつくる。 「姉さん、事件のこと、どれぐらい分かってるの」 「概略だけよ。警察もまだ手をつけたばっかり」 「放火というのは確実なのか」 「捜査一課に手なずけてる若い刑事がいるの。そいつから聞き出した情報だから、間違いないわ」 「放火だと、やっぱり、殺人なのかな」 「当然じゃない。通常の失火だと火元が特に燃えるものなの。台所からの出火ならガス台のまわり、寝タバコの不始末なら布団のまわり、冬ならコタツとかストーブの近く。でも事件は一週間前だから暖房器具は使ってない。警察と消防が詳しく調べたら、ベッドや床や壁や、いろんなところから同時に出火していたという。灯油でもまいて、火をつけたんだろうって」 「それも千秋本人が、ではなく?」 「もともと女の子に焼身自殺は似合わないのよ。手首を切るとか、高いところから飛びおりるとか、普通はそんなところだわ」 「………」 「広也、あんたたち、別れてからどれぐらいだっけ」 「二年近くかな」 「それ以来、会ってないの」 「電話もしなかった」 「連絡しても向こうに断られたとか」 「姉さんが思うほど、おれ、未練がましくない」 「あんたは無気力なだけでしょう」 「姉さんが思うほど……」 「そんなことはどうでもいいの、今の問題は放火殺人なんだから」  カウンターに焼き鳥が並び始め、水穂がしゃきっと、レバーを歯でしごく。目尻は皮肉っぽく笑い、鼻の先も上を向く。「私は鼻の穴の形まで美しい」というのが、つねづね聞かされる水穂の自慢だった。  レバーを一本食べ終えてから、つづけて軟骨に手をのばし、白い歯でしごいて水穂が言う。 「ねえ広也、つきあってたころ、千秋さんは睡眠薬を飲んでいた?」 「どうだかな」 「セックスはしたでしょう」 「姉さんに関係ない」 「彼女ね、焼死したとき、トリアゾラム系の睡眠薬を飲んでいたの。いわゆるハルシオンってやつだろうけど、それを通常の十倍は飲んでいたらしい。慣れない子がそれだけの睡眠薬を飲めば、意識があっても躰は動かないわ」 「千秋が睡眠薬、か」 「だから訊いたのよ」 「あのころは飲んでいなかったと思う」 「警察が彼女の勤めていた病院を調べても、睡眠薬の処方は受けていない」 「千秋が病院に?」 「ソーシャルワーカーだもの」 「そうか、病院か」 「司法解剖で肺から大量の煤《すす》が検出されたの。つまり彼女は睡眠薬で意識は朦朧としていたけど、出火したときには生きていた。犯人は犯行の痕跡を隠すために放火したのではなく、生かしたまま、わざと彼女を焼き殺したの。この事件をスクープすれば世間は大パニックだわ」 「睡眠薬が関係してるなら、犯人は病院の関係者だ」 「あんたも世間知らずねえ。ハルシオンぐらい今はどこでも売ってるわ。私だって病院からもらってるもの」 「姉さんが?」 「神経が繊細な人間には、ああいう薬が必要なのよ」 「ふーん、そう」 「だからね、要するにこういうことよ。安彦千秋は誰かに睡眠薬を飲まされて、意識が朦朧となったところを部屋に放火された。犯人は強盗とか暴行魔ではなく、彼女がよく知っていて、ある程度親しくて、それで彼女を憎んでいた人間……たとえば、要するに、広也みたいな人間よ」  ちょうど咽を通っていた焼酎が、一瞬逆上し、ぼくの鼻と目にも困惑が逆上する。いくらキャスターを目指す報道部記者でも、弟を殺人犯にしてまで、スクープを飛ばしたいのか。 「姉さん、おれ、千秋を憎んではいなかった」 「ふられたくせに」 「ふつうに別れたんだ」 「信じられないわね」 「信じてくれなくても、いい」 「そりゃあんたは私の弟だから、顔はいいわよ。でも性格が女々しいじゃない。それで彼女にふられたんでしょう」 「姉さんには分からないさ」 「どこがよ」 「もっと、なんていうか、微妙な問題さ」 「気取るんじゃないわ。あんたは小学校のときから好きな子にふられてた。性格がグズで、態度が煮え切らないからよ。彼女とのときだって、どうせそうに決まってるわ」  ぼくと千秋がなぜ別れたのか、言ったところで、水穂には分からない。千秋の死に衝撃は感じても、ぼくにとってはどこか遠い、実感のない出来事なのだ。  ウーロン茶割りをつくり直し、焼き鳥を一本片づけて、ぼくは気分を鎮める。 「姉さん、スクープは残念だけど、おれ、犯人じゃないよ」 「そんなこと知ってるわ」 「知ってるならいいじゃないか」 「彼女を憎んでた人間に心当たりは?」 「ない」 「男とのトラブルは?」 「姉さんとはちがうさ」 「あら、私がいつ男とトラブったのよ」 「サッカー選手に東大出の医者に、グラフィックデザイナーに青年実業家に、その気になればあと五人は思い出せる」 「みんなただのつまみ食いよ。今の本命は俳優の香坂司郎なんだから」 「本当かよ」 「そのうち広也にも紹介してあげる。でも今の問題は安彦千秋を殺したいほど憎んでいた人間のこと」 「まるで、思い当たらない」 「ストーカーに狙われてたとか」 「なにしろ、二年も前のことだ」 「二年前でもあんたは彼女とつきあったことがある。ちゃんとセックスもしている。この事件に関しては、あんたの立場は絶対的に有利なの。あんたの立場が有利なら、私にも有利なわけよ」 「話が見えない」 「最初から言ってるじゃない。あんた、私に、関東テレビのキャスターになって欲しくないの」 「なっては欲しいけどさ」 「だったら協力するのが当然でしょう。被害者はあんたの元恋人、ふられた相手とはいえ、あんただって犯人は憎いはずよ」 「要するに、なんだよ」 「にぶいやつねえ、私も|ただ《ヽヽ》でとは言わないわ。バイト料を出すから、しっかり仕事をしろと言ってるの」  膝にのせたバッグから、今度はヴィトンの財布を取り出し、水穂が五枚の一万円札を抜いて見せる。 「はい、これ、とりあえずの取材費」 「ええと、なに」 「取材費よ。広也だって人に話を聞くのに、軍資金は必要でしょう」 「おれが誰に、なんの話を聞くの」 「彼女の友達とか家族とか、事件の関係者よ。犯人までつきとめろとは言わない。でも重大な情報をさぐり出したら、金一封もはずんであげるわ」 「姉さん、本気かよ」 「冗談でバイト料は払わないわ」 「だけど……」 「広也には被害者の元恋人という、有利な立場があるの。二年前にはふられたけど、あんたは彼女に未練たっぷり。だからどうしても犯人を許せない。そういう名目があれば、家族でも友達でも、自由に話が聞ける」 「おれ、未練なんか、たっぷりじゃない」 「広也の気持ちは関係ないの。状況に不自然さがなければそれでいいの。事件の関係者には警察やマスコミを嫌う人間もいる。特に親や兄弟はマスコミとの接触をいやがる。でも元恋人の未練男になら、どこかできっと気をゆるす」 「ふられたんでもないし……」 「あんたも頑固ねえ、この際事実なんかどうでもいいのよ。要するにあんたは、この事件に関して誰よりも有利な立場にあるの。広也はその立場を利用して、姉である山口水穂をテレビのトップスターに推す義務がある。私がもっと有名になれば、あんたも心から嬉しいでしょう」  水穂がキャスターになって有名になろうと、サッカー選手と不倫をしようと、ぼくの知ったことではない。千秋の死に関しても気の毒だと思う以上の感情はない。今日まで顔を思い出すこともなく、消息も聞かなかった。千秋が殺されるほどのトラブルに巻き込まれたとすれば、ぼくと別れて以降の、一年九ヵ月間でのことだろう。  水穂が五枚の一万円札をひらつかせて、ぼくの尻ポケットに押し込む。それからウーロン茶割りを飲みほし、首筋の髪をうるさそうに払う。もうぼくを自分の助手と決めているらしく、目には尊大な威嚇がただよっている。ふだんは小遣いも貸さない水穂が五万円も出すあたり、事件に対する気合は相当なもの。それだけキャスターの座に賭けているのだろうが、報道部の記者からニュースキャスターへの転身など、本当に可能なものなのか。 「そうと決まったら、広也……」  二つのグラスにウーロン茶割りをつくり直して、水穂が勝手に乾杯をする。 「明日からさっそく働いてちょうだい。関係者のリストは朝までにつくっておく。まず彼女の実家あたりから聞き込んでみて」 「そうはいっても、突然……」 「どうせあんたは暇なのよ、就職活動をするわけでもなし」 「でも、山形は、遠すぎる」 「山形って」 「千秋の実家は山形だろう」 「なにを言ってるの、彼女の実家は千葉県の行徳じゃない。父親は死んでるらしいけど、実家には母親と妹が暮らしてるわ」 「千秋の実家が、行徳……」  焼き鳥を前歯でしごき、口の奥に押し込みながら、ぼくは記憶をたぐってみる。二年も前のことであいまいだが、千秋は自分の実家を『山形県の米沢市』と言わなかったか。安彦という姓についても織田信長の重臣の家系だとか、たしか、そんなことを言っていた。実家が千葉県の行徳なら東京へも通勤圏で、学生時代から落合にアパートを借りる必要はない。それともぼくと別れて以降、実家のほうが米沢から転居してきたのか。 「千秋の実家が行徳って、姉さん、間違いないのか」 「私が一課の刑事から聞き出したことよ。まさか広也、つきあってる子の出身地を、知らなかったわけ」 「記憶ちがいかな。なにしろ二年も前だから」 「とにかく家族も友達も、みんな東京の近くにいるはず。あんたが聞き出すことは被害者の交遊関係、彼女が悩んでいたことや困っていたこと、男とのトラブルとか職場での人間関係、風俗や水商売に縁はなかったか……聞き出せることならなんでもいいわ。仕入れた情報はすべて私に報告すること。あんたは素人なんだから、自分で考える必要はないの。元恋人という立場で情報を集めればいいの。こんな簡単なバイトで五万円も出すんだから、少しは感謝しなさいよね」  それほど簡単な仕事なら水穂が自分でやればいい。そうは思ったが、尻ポケットに納まった五万円には魅力がある。今のぼくは水穂の指摘どおり、暇といえば暇なのだ。千秋がぼくと別れて以降の時間をどう過ごしたのか、なぜ放火殺人の被害者になってしまったのか、そのあたりの事情にも興味はある。それに水穂が本気でキャスターを目指しているのなら、援護の義理もある。気が強くて喧嘩も強くて、子供のころ近所の悪ガキから、水穂はいつもぼくを庇《かば》ってくれたのだ。  焼き鳥がつづけてカウンターに並び、ぼくはマスターに停止の合図を送る。安彦千秋が殺されて、自分が明日から探偵のまね事を始める緊張が、実感もなくのしかかる。千秋の色素のうすいまっすぐな髪、弓形の眉、日灼けあとのない皮膚に小さくて色素のうすい乳首、セックスのときだけ匂う口臭や産毛の目立つ長い腕、そんなものが日めくりカレンダーのように、さらさらと記憶を通り過ぎる。 「さあ、そうと決まったら広也、今夜は好きなだけ飲んでいいわ。あんたも明日から忙しくなるわけだから」  水穂がぼくの肩をたたき、プアゾンの匂いを飛ばして白い歯を見せる。弟にでも色仕掛けが通じると、たぶんその目は、本心から信じている。  あの千秋が……と、ぼくは口のなかで一人ごとを言い、焼酎で舌と唇をしびれさせる。心までしびれるはずもないが、酔いが千秋の記憶を鮮明にし、電話をすれば今にも声が聞こえてきそうな錯覚が、一瞬焼酎の味を苦くする。  今夜は悪酔いするだろうなと、肩に触れる水穂の髪を払いながら、ぼくは短くため息をつく。   C  カーテンの色に陽射しの強さが感じられる。網戸の内側で空気は動いているはずなのに、部屋には義理ほどの風も入らない。洗足池の方向からカラスが間抜けな声で鳴き、かすかにボートの櫓音も聞こえてくる。ふだんならそれらの喧騒で始動する躰も、今日は二日酔いがベッドへひきとめる。カーテンの色はもう十時か十一時、日当たりのいい二階の部屋は気温も三十度をこえている。それでもぼくは地獄のような頭痛と吐き気に必死の冷や汗を流しつづける。水穂と酒を飲むだけで悪酔いする体質なのに、昨夜は千秋の記憶がぼくの酒量を多くした。二日酔いぐらい飽きるほど経験していても、今朝の気分はひどすぎる。人生なんかこのまま終わらせてもいいと思うほどの、絶対的な苦境だった。  シーツに冷や汗を吸わせたまま黄泉《よみ》の国へ向かうか、階下へおりてトイレに行くか。どちらも魅力的なイメージではなかったが、とりあえずぼくは目前の課題に対処する。ベッドから這い出て床をころがり、階下へおりる。このまま黄泉の国へ踏み込んだらトイレの場所が分からないし、地獄の苦しみに加えて小便まで我慢したら、地獄暮らしも楽ではないだろう。  膀胱が空になるまでトイレで放心しても、吐き気は治まらない。嘔吐感はあるのに胃はからっぽで、脳の中心部ではネズミ花火がはじけている。筋肉のすべてが運動の意思をなくし、二階からおりて来ただけでも奇跡だったのに、トイレから居間まで歩いたことはそれ以上の奇跡だった。 「あーら広也くん、よく起きられたわね」  となりの部屋から母親の暁子《あきこ》が顔を出し、居間と台所の中間に立ち止まる。派手な袖無しのワンピースに黄色いバンダナ、大きく開いた胸元にはアフリカ土産のネックレスがぶらさがり、パンクっぽいアフロヘアに濃い化粧が暑苦しい。人種も年齢も不詳で、自分の母親ながら、あまり町では会いたくないタイプだ。 「水穂なんかと飲むからいけないのよ。あなた、あの子と飲んだあと、いつも二、三日は寝込むじゃないの」 「姉弟《きようだい》の義理だよ」 「水穂は水とお酒の区別がつかない体質なの。いい加減にしないと躰をこわすわよ」 「姉さん、出掛けたの」 「八時前には飛び出していったわ」 「本当に同じ親から生まれたのかな」 「不思議なのよねえ。自分では二人とも私が産んだ気がするけど、もしかしたら病院で、取り替えられたのかも知れないわね」  アフロヘアをふって、お袋が台所へ入っていき、カウンターの向こうでのんびりと背伸びをする。 「広也くん、コーヒー?」 「お茶」 「梅干しとね」 「うん」 「お味噌汁もあるわよ」 「あとでいい……母さん、今なん時」 「もう十時半。私も出掛けるけど、広也くん、今日はお休みでしょう」  おれなんかいつだって休みさ、と言いかけ、ぼくは言葉を飲む。無職であることのひけめは自覚しているが、これ以上の自己嫌悪は二日酔いに辛すぎる。  カウンターの向こうで煎茶の湯気をたて、鼻唄を歌うように、お袋が言う。 「お午《ひる》をすぎたら、洗濯物、取り込んでちょうだいね」 「母さん、例のあれ、売れてるみたいだな」 「そうなのよ。世の中には物好きな人が多くて、私も驚いてるの」  お袋が盆で湯呑と梅干しの小鉢を運んでくる。盆をテーブルにおき、ふんわりとソファに腰をおろす。風貌はアフリカのマジナイ師のようだが、趣味で作っていた猫クッションがなぜかブームになり、最近のお袋は講習会やデモンストレーションで毎日のように外出する。二、三日前からは新宿のデパートで展示即売会とやらをやっているから、今日の外出もその関係だろう。 「広也くん、昨夜はどこで飲んだの」 「駅の向こうの焼き鳥屋」 「昼間から水穂が探してたのよ」 「電車を降りたら行き合った」 「危ない相談ではないでしょうね」 「そんな意気地はないさ」 「あの子の無茶につきあうと、ロクなことはないんだから」 「姉さんの迫力にはつきあえないよ」 「水穂がね、広也くんが起きたら、渡すようにって……」  お袋がワンピースの前ポケットから四つ折りにした白い紙を取り出して、盆のわきにすべらせる。頭痛が濃度を高くし、ぼくは指で強く首の後ろを押さえ込む。紙にはぼくが会うべき人間の名前が書いてあるはずで、ぼく以上に飲んでいながら、水穂は仕事を忘れなかったのだ。 「広也くん、お願いだから危ないことはしないでね」  口のなかだけで返事をし、しかしぼくはリストを見る気にはならず、湯呑をとって濃い煎茶をすする。開け放したガラス戸から夏と変わらない陽射しが覗き、ごていねいにアブラ蝉の声まで聞こえてくる。本来なら蝉もヒグラシに交代する季節なのに、今年は夏がしぶとく頑張っている。柿の木と無花果《いちじく》のあいだに渡した物干しには洗濯物が白く舞い、南側にひらけた空をカラスが飛んでいく。 「さてと、私、そろそろ出掛けるわ」  お袋が腰をあげ、目を京劇役者のように見開いてみせる。目尻には五十五歳の皺があり、二の腕の皮膚も若さとは無縁な色にくすんでいる。それでも最近、渋谷で若い男にナンパされたというから、人間の趣味は分からない。 「広也くん、二日酔いでも、お味噌汁はちゃんと飲むのよ」  言いおいて、お袋が居間を出る。しばらくとなりの部屋へ入ったあと、ビニールバッグを肩に玄関へ姿を消す。ドアを閉める前に、玄関から洗濯物について念を押してくる。その声をぼくは上の空で聞き流す。言われなくても洗濯物ぐらい、いつだって取り込んでいる。食料が乏しくなればスーパーへも買い出しに行く。姉の水穂は家事にノータッチ、母親も売れっ子の芸術家になってしまった現在、家事はぼくの負担になっている。となりの家へ回覧板をまわしたり、庭の草をむしったり、けれどぼくはそれらの雑用を、煩わしいとも思わない。  梅干しを一つ食べ、茶を飲みほし、ぼくはごろりとソファをころげ出る。梅干しぐらいで二日酔いが治まるはずもなく、薬箱に頭痛薬と消化剤を探す。台所で二種類の薬を胃に納め、マグカップに味噌汁の汁だけを入れて居間へ戻る。パジャマの下には汗が冷たく吹き出し、頭のなかでは相変わらずネズミ花火がはじけている。吐き気がして躰中の関節がだるくて、それでも庭に咲いたムクゲの淡い花を眺めると、ふと幸せな気分になったりする。  ぼくはマグカップを床において、パジャマをむしり取り、それから葡萄棚のつくるまだらな葉陰に身を投げる。クーラーをつけないのは山口家の家訓で、「アフリカで働いているお父様のご苦労を考えましょう」というのが、一貫して譲らないお袋の主張だった。  寝不足のせいか、頭痛薬の効果か、蝉の声がぼくの意識を遠くする。庭を徘徊するノラ猫や墨色のジャコウアゲハの影が、二日酔いの胸苦しさを倦怠に変えていく。テーブルには水穂のおいていったリストがあり、自分の仕事も心得ている。それでもぼくはしばし、怠惰を選択する。安彦千秋が落合のアパートで焼死したこと、それが殺人であるらしいこと、水穂がその殺人事件にぼくを巻き込んだこと、そういった一連の経緯がうとましく、四散する意識のなかで、ぼくは長く欠伸をする。  まどろんでいたのは一時間。躰に倦怠感は残っていても、気分は爽快。ぼくはいさぎよく洗濯物を始末し、シャワーを浴びて着替えをして、一時前には家を出た。夏休みの終わった洗足池にはボートがまばらに浮かび、岸辺寄りの浅瀬をカイツブリが群れて行く。日陰のベンチでは年寄りが団欒し、対岸の中学校から昼休みの喚声が聞こえてくる。緩慢で気だるい長閑《のどか》さのなか、安彦千秋の死はまだ実感のない絵空事だった。  JRと私鉄を乗りつぎ、西武新宿線の下落合駅についたのは、二時を少しすぎた時間だった。アパートが欅ハイツで被害者が安彦千秋なら、事実関係に狂いはないだろう。それでもぼくは現場を自分の目で確認したかった。新聞の片隅に二十行ほどの記事を見せられて、人間一人の死を実感しろと言われても無理がある。  閑散とした狭い改札を落合中通りに出て、下水処理場の向かいを傍道《わきみち》へ入る。一昨年の秋はなん度か通った道で、ぼくは現場へ向かう。付近はみな古い建売住宅か安直なプレハブハウス、高層ビルはなく、低い家並が路地沿いにかたまっている。ブロック塀を越えて鉢のオリヅル蘭がたれ下がり、二階家の物干しには申し合わせたように洗濯物がひるがえる。こんな路地でも営業用のクルマが疾走し、買い物カートを押した年寄りが頼りなく塀にへばりつく。風はなく、日は高く、どこかの電信柱でアブラ蝉が深々と鳴き騒ぐ。  クルマの通る路地からまた傍道へ入り、民家の塀を二軒ぶんほど通りすぎる。ブロック塀で区切られた敷地に〔欅ハイツ〕があらわれる。一階と二階がそれぞれ五部屋ずつ、木造モルタルに白いペンキ塗り、二階へはブロック塀の切れめから外階段がつづいている。どこにでもある小ぎれいなアパートだが、二階の一部屋は青いビニールシートで被われている。シートで被われた窓は西端から二つめ、二〇四号室だから、千秋の部屋に間違いない。両隣の部屋も消火時の被害か、割れた窓ガラスが幅広の段ボールで塞がれている。ブロック塀で階下の様子はうかがえず、白い外壁に煤や炎の痕跡はなく、知らなければ青いビニールシートも改装工事ぐらいにしか思えない。事件から一週間以上が過ぎたせいか、付近に警官の姿は見当たらない。  ぼくはアパートをななめに見あげる場所に立って、千秋の部屋を眺める。間取りは長方形のワンルーム、台所にユニットバスに、居室の部分は八畳ほどのフローリング。部屋の西隅にはロータイプのベッドがおかれ、他には小物机やオーディオセットが配置されただけの、簡素な内装だった。カーテンの色、壁に張ったモノクロームのポスター、化粧鏡やスチールのマガジンラック、そんなものが断片的には思い出せても、千秋がいつからこのアパートに暮らしていたのか、つきあっていたころも、そういえば聞いていなかった。  部屋への記憶に輪郭をあたえながら、ぼくは千秋と知り合った日のことを思い出す。安易で日常的な出会いは渋谷の居酒屋だった。ぼくの仲間は三人、千秋は友達との二人連れ、席がとなりになり、気がついたときには五人で喋っていた。  そのときの千秋の印象を、正直に言って、ぼくは覚えていない。顔立ちは整っていたが、意識するほどの美人ではなかった。喋るのは友達のほうで、千秋はうなずくか微笑むか、ほとんどは黙ってサワーを飲んでいた。無口な優等生タイプにぼくの波長は合わなかった。  千秋は二時間で帰って行き、ぼくの友達と千秋の友達はカラオケボックスへくり出した。ぼくはカラオケの気分ではなく、一人で渋谷駅へ向かった。JRで五反田へ出るか、東横線で自由が丘まで行くか、迷っていたときにセンター街から千秋があらわれた。歩いてくる千秋は居酒屋での印象より、少し妖艶だった。足は意外なほど長く、ストレートヘアを風になびかせ、目には意味不明な笑いを浮かべていた。  まっすぐ歩いてきて、千秋がぼくの前で足を止めた。 「やあ」とぼくが声をかけた。 「風が気持ちいいわね」と千秋が言った。 「みんなはカラオケに行った」 「あなたは?」 「苦手さ」 「私も」 「君、酒が強いな」 「酔わない体質なの」 「それなら飲んでもつまらない」 「でもお酒は、好き」 「それなら……」  ぼくが千秋の目を覗き、千秋が唇で笑い、それだけでぼくらはスペイン坂のショットバーへ引き返した。  バーのカウンターについても千秋の口数は増えなかった。ほとんど会話はなく、あっても会話の内容に意味はなく、飲んでいる理由もお互いに詮索はしなかった。気づいたときには千秋と同じ量の酒が、ぼくだけを酔わせていた。ぼくは千秋のアパートへ運ばれ、鼾《いびき》をかいて眠ったという。  翌朝、ベッドのなかで、千秋は言った。 「あなたが無害そうな人に見えたから……」  記憶に冷や汗を感じながら、ぼくは青いビニールシートに眉をひそめる。それから二階へ向かう階段に足をかける。アパートのどの部屋にも人の気配はなく、ステップの鉄板が足音を大げさにまき散らす。北隣は古い二階建ての民家で、まだ花の開かない金モクセイが高く敷地からはみ出している。そういえば二年前、初めて千秋の部屋へ担ぎ込まれた夜も、空気に金モクセイが匂っていた。「無害そうな人に見えたから……」という千秋の声が、時間を越えてぼくの耳朶《じだ》をかすめ去る。  二階の外廊下に障害物はなく、日陰の部分にベージュ色のドアが並んでいる。ドアのすぐ横にキッチンの窓があり、窓には鉄格子、壁には換気扇の排気口と、独身アパートには定番の外装だ。一つだけ秩序を乱しているのは、ドアと窓を青いビニールシートで被われた二〇四号室だった。シートの端はガムテープで止められ、まん中には〔立入禁止・警視庁〕と書かれた黄色いテープが渡されている。両隣の部屋に被害はみられないから、千秋の部屋だけ一瞬に燃えたらしい。出火が午前二時前後なら北隣の二階家は寝入っている。両隣の住人も同じことだろうし、誰が火事を発見したにせよ、その時点でもう千秋は死んでいる。  シートの塞《ふさ》ぎ目からかすかに煤の臭気がもれ、その臭気がぼくに千秋の死を実感させる。電話をかけても千秋が受話器を取ることはなく、渋谷あたりで偶然に出会うこともない。結婚したとか子供が生まれたとか、友達の噂に聞くこともない。青いビニールシートは千秋の存在を記憶に隔離し、匂うはずもない金モクセイが、ほんの一瞬、ぼくを辛くする。  ぼくは深く息を吸って呼吸を整え、緊張に押されて踵《きびす》を返す。足音を殺して階段を途中までおりたとき、ぼくの爪先が宙に浮く。階段の真下に女の子が立っていたのだ。  女の子はさっきぼくが向けていたのと同じ角度に、じっと視線を向けている。カーキ色のカーゴパンツにピンク色の長袖シャツ、赤いキャップを目深にかぶり、背中には黒いデイパックを背負っている。ぼくに気づく様子もなく、腕を胸の前に組んで怒ったようにアパートを睨んでいる。下唇を噛んだ尖った顎、白い頬と華奢《きやしや》な首、最近では珍しいポニーテールを帽子のうしろに撥ねあげ、足を頑固そうに踏ん張らせる。  ぼくが一歩階段をおり、同時に女の子が顔をあげる。空中で二人の視線が喧嘩をする。女の子の目はきっぱりとした一重で、帽子の下から強情な光を放ってくる。素直な輪郭に鼻も口も小作りなのに、視線の色には断固とした敵意が感じられる。ぼくはいわれのない敵意に混乱し、恐縮し、憮然と足をおろす。静かに階段をおりて来ただけなのに、なぜぼくが睨まれるのだ。  女の子が突然顔をそむけ、アパート前の道を走り出す。女の子は傍道からクルマの通る路地へ駆け出し、どちらへ曲がったのか、気づいたときには、もう姿を消していた。ぼくがおっとり刀で路地口まで追ったときには、駅のほうから郵便配達のバイクが走ってくるだけだった。  あの女の子が何を怒っていたのか、ぼくの顔を見てなぜ逃げ出したのか。水穂の命令は千秋の元恋人の立場で関係者から話を聞くこと、それ以上でも以下でもない。そうは思っても女の子の怒った目やバランスの危うい表情が、小癪な印象を残している。まだ二日酔いの残る頭に、こつんと拳固を打ちつける。近くに下水処理場の森があるせいか、二匹の黄アゲハがブロック塀の上を飛んでいく。  欠伸をかみ殺し、路地傍の電柱に肩を寄せて、ぼくは腰のサブバッグから水穂の白い社用便箋を取り出してみる。便箋には三人の氏名と住所や覚書などのメモがあり、千秋の実家があるという行徳の住所も書かれている。これまで関心を持ったこともなく、縁もなかったが、地図を見れば行徳という町は不思議な場所にある。区分上は千葉県市川市ではあっても、西隣は東京の江戸川区、高田馬場と行徳までは地下鉄の東西線がつないでいる。高田馬場までは、この下落合の駅から、西武新宿線でたったの一駅なのだ。千秋は出身を山形県の米沢市と言ったはずで、記憶ちがいでないことには自信がある。「安彦氏って忍者の末裔なの……」と、珍しく千秋は、白い歯を見せて笑ったものだった。  織田信長の家臣で忍者の末裔で、出身は米沢市で実家は千葉県の行徳、学生時代から落合のアパートに一人で暮らし、ソーシャルワーカーになって半年後には自室で焼き殺された。そういう安彦千秋とは、誰だったのか。二年前に短期間の交際があったとはいえ、千秋について、ぼくは何も知らなかった。  行徳かと、口のなかで一人ごとを言って、ぼくはリストの文字を目でなぞる。最初にある〔牧瀬|杳子《ようこ》〕という名前に目がとまる。水穂のメモでは〔職場での友人〕となっている。千秋が勤めていた〔敬愛会病院〕や中野区中央という所在地も書いてある。無理をすれば歩いてでも行ける場所で、タクシーでもそれほどの距離はない。この半年間、千秋がどんな職場で働いていたのか、ソーシャルワーカーがどんな仕事なのかも気にはなる。  リストをサブバッグにしまい、携帯地図を取り出しながら、ぼくは唇をすぼめて息を吐く。牧瀬杳子、尾崎|喬夫《たかお》、大沢|佳美《よしみ》、それに行徳の千秋の実家も、いずれは訪ねていく。水穂に無理強いされたバイトではあっても、仕事は仕事、それなら近いところから始めればいい。地図のなかで〔敬愛会病院〕の場所をたしかめ、落合中通りの方向へ、ぼくはぶらっと歩きだす。二時をすぎたのに陽射しは陰る気配もなく、蝉は相変わらず無遠慮だった。   D  交通量の多い環六通りを避けたせいか、落合から中野区の中央まで、一時間も歩かされた。途中で地下鉄大江戸線に乗ればいいことに気づいたが、中央線の高架を過ぎたころには意地になっていた。汗ばんだ皮膚の内側で細胞が活性化され、おかげで二日酔いの悪意は退去した。道路工事やガーデニングのアルバイトの経験が、思わぬところで役に立つ。  大久保通りを越えた南側に見つけた敬愛会病院は、コンクリート塀に囲まれた広い敷地に二棟の四階建て病棟を渡り廊下でつないだ、真新しい建物だった。門からのアプローチには煉瓦積みの花壇がつづき、赤と黄色のカンナが眩しい色に咲きほこる。クルマ寄せの植え込みは背の高いシュロの木、東側の駐車場には五、六十台のクルマが並んで、敷地の西側には樅《もみ》や槙《まき》が植えてある。建物の周囲にも百日草やデイジーなどの草花が並び、ガーデニングプランナー風に言うなら、清潔感とヒーリングをお洒落に配置した庭作り、といったところか。正面玄関の診療案内には〔外科、内科、整形外科、精神・神経科、老人医療、各種リハビリテーション〕と総花的な科目が書いてある。駐車場の広さや建物の構造からして、相当規模の総合病院らしい。  ガラスの自動ドアから玄関を入ると、待合室には公園風に木のベンチが並び、カポックや芭蕉などの観葉植物が病院臭を和らげていた。受付も一見ホテルのカウンターを思わせ、看護婦の制服もうすいピンク色、待合室のテレビでは雪山のイメージビデオを流している。  ぼくは面倒なためらいを放棄し、受付で牧瀬杳子に面会を申し入れる。名刺を渡して安彦千秋の友人と名のり、私用であることも付け加える。受付のおばさんが内線電話で連絡を取る。牧瀬杳子は二十分ほどで休憩時間になるといわれ、ぼくは待合室で待つことにする。  入り口に近いベンチに腰をおろし、松葉杖にギプスの患者やクルマ椅子の年寄りを観察して暇をつぶす。時間がすぎ、髪をショートカットにした小柄な女が固い表情であらわれる。ベージュ色のチノパンツにブレザー仕立ての白衣、ズックのデッキシューズをはいて、小作りな丸顔に二重の目が清々しい。ファンデーションも口紅の色もうすく、歳はぼくと同じぐらいか。指先にはぼくが受付で渡したグレーの名刺が挟まれている。 「私が牧瀬ですけど……」  声につられて、腰をあげ、ぼくは自己紹介をする。 「安彦さんのお友達というと、例のことで……」 「話をうかがえますか」  牧瀬杳子が軽く腕を組んで、二、三秒ぼくの顔を見つめる。それから肩の力を抜き、受付に視線を走らせる。 「外にもベンチがありますから、そちらで話しましょうか」  返事を待たず、杳子が玄関へ歩く。ぼくはその小柄な背中に従う。愛想笑いが功を奏したのか、杳子のほうにも話したいことがあったのか、いずれにしても第一関門は突破した。ぼくは玄関わきの自動販売機で自分にウーロン茶、杳子にはアイスミルクティーをサービスする。  杳子がぼくを連れていったのは、二棟をつなぐ渡り廊下前のベンチだった。カンナの咲く花壇が眺められ、芝生を散歩する入院患者たちの姿も見渡せる。 「突然にお邪魔をして、申し訳ありません」  杳子の横顔を観察しながら、礼儀正しく、ぼくが言う。 「知り合いにテレビ局の人間がいて、牧瀬さんが千秋と親しかったと聞きました」  ベンチの向こう側に座った杳子が、目を細めてぼくの顔を見返してくる。美人ではないが表情に癖がなく、二重の目にも善良な活発さが感じられる。  アイスティーのプルトップを引き、杳子が缶の底をゆする。膝においたぼくの名刺を確認するように、しばらく杳子が黙り込む。名刺は学生時代に使っていたもので、肩書に〔就職浪人〕とは書いてない。 「山口さんは……」  アイスティーに口をつけてから、杳子が名刺を白衣のポケットにしまう。 「安彦さんとは、どういう関係のお友達なのかしら」 「以前に交際がありました」 「以前?」 「学生時代に」 「元彼《モトカレ》ということ?」 「はい」 「その元彼が、なぜ……」 「未練です」 「今でも安彦さんが好き、とか?」 「はい」 「正直ね」 「そのせいで嫌われました、千秋はぼくより複雑な性格だったから」 「女性は男性より誰でも複雑だわ」 「そうですか」 「それで?」 「会わなくなってからも気にはしていたけど、そうしたら今度の事件が起きてしまった。焼死と聞いただけでもショックなのに、最近、ヘンな噂が耳に入ります」  半分は事実、半分は嘘っぱち、しかし元彼の未練男をよそおわなければ、話は聞き出せない。千秋の死だって殺人である可能性を告げなくては、話の糸口もつかめない。 「ヘンな噂って、もしかして……」 「牧瀬さんにも心当たりが?」 「いえ、でも、警察の人がよく病院へ来るし、私もいろいろ訊かれたから」 「千秋は殺されたという噂です」 「………」  ふっくらと丸い杳子の頬に、片側だけ浅い翳りが浮かぶ。顎の先端がくぼみ、弓形の眉が水平に引きしまる。呼吸の音もいくらか大きくなって、紅茶の缶がしつこいほどゆらゆらとゆれ動く。 「殺されたって、それ、事実なの」 「証拠もあるそうです」 「どんな」 「千秋は大量の睡眠薬を飲まされていました。ぼくがつきあっていたとき、彼女は睡眠薬なんか飲まなかった。最近飲むようになったとしても、通常量の十倍は多すぎます」 「導眠剤のことは警察も病院で訊いていったらしいけど」 「千秋は……」 「うちの病院では出していなかった、安彦さんが導眠剤を使っている話も聞いたことはない」 「自殺の可能性はないし、火事も放火でした」 「………」 「ぼくには千秋が殺される理由が思い当たらない。少し冷淡な印象だったけど、人に恨まれる性格でもなかった。だから、どうしてこんな事件が起きたのか、自分なりに理解したいと思います」 「今でも好きだから?」 「いけませんか」 「それは、もちろん……」  紅茶の缶に口をつけながら、杳子が下からぼくの顔を覗く。 「導眠剤の種類は分かるかしら」 「トリアゾラム系の薬と聞きました」 「それならハルシオンだろうな。ハルシオンだと一般的すぎて、入手経路は分からないわ」 「牧瀬さんは薬剤師ですか」 「ソーシャルワーカー」 「千秋もソーシャルワーカーだった」 「安彦さんは精神科、私は老人医療のほう。担当はちがっても歳は同じだし、ソーシャルワーカー同士で気が合ったの。私は短大の福祉科を出てこの病院に勤めたから、仕事では先輩だったけど」  杳子が肩をすくめて、顎の先を芝生に向ける。ぼくの質問を待つつもりか、杳子はそのまま姿勢を固定させる。素性を確認しあい、歳も同年《おないどし》と分かって、ぼくの気分にも余裕が生まれてくる。千秋にふられた未練男を演じることにも、もう罪の意識は感じない。 「おれ、正直に言うと……」  正門を出入りするクルマの流れを眺めながら、ぼくはウーロン茶で唇を湿らせる。 「千秋がこの病院に勤めたことも、ソーシャルワーカーになったことも知らなかった。それにソーシャルワーカーという仕事自体が、よく分からない」 「病人や老人の相談相手よ」 「看護婦さんとはちがうわけ」 「精神的なケアとか闘病生活全体への支援とか、看護婦よりも仕事の範囲は広いと思う。国家資格としては〔精神保健福祉士〕というのがあって、私も安彦さんもそれを目指していたの」 「老人の介護は分かるけど、精神科のほうは……」 「安彦さんは精神障害者の社会復帰プログラムを担当していた。精神に障害をもった人がこの病院で治療をして、ある程度よくなっても、すぐ普通の生活へは戻れない。その社会復帰の段階で患者さんを支援するのがソーシャルワーカーの仕事なの」 「カウンセラーみたいなものかな」 「カウンセラーと看護婦と人生の相談相手と、全部を兼ねたような仕事ね」 「そういえば、千秋は、大学で臨床心理学も勉強していた」 「彼女は優秀で仕事にも張り切っていたわ。〔精神保健福祉士〕の試験はけっこう難しいんだけど、安彦さんなら二、三年で受かったと思う。私も頑張るし、二人で試験に合格しようって、よく話し合ってたの」  杳子の短い前髪がゆれて、シューズの先端が反りあがる。穏やかだった二重の目に怒りの色が流れ去る。ベンチの近くをシジミ蝶が飛び、芝生には雀の集団がにわか雨のように舞いおりる。 「病院のなかでも、本当は、ただの火事ではないという噂はあった。でも誰も本当のことは知らないし、その話題は避けようとする。患者さんたちが動揺するのを心配しているの」 「千秋が誰かに恨まれていたとか、トラブルを起こしていたとか、牧瀬さん、知らないかな」 「他人と争う人ではなかったわ」 「他人に無関心だったから?」 「他人に無関心な人はソーシャルワーカーにならないでしょう」 「それもそうだ」 「仕事に熱心で、医師や看護婦の意見をよく聞く人だった。イギリスや北欧の福祉事情にも、驚くほど精通していたわ」 「それほど情熱的な性格とも思えなかったけどな」 「情熱を表面に出さない性格だったのよ。優等生タイプだったから、外見は冷たく見えることもあったかも知れない」 「水商売なんか、どうかな」 「え?」 「アルバイトで風俗をやってたとか」 「本気で言ってるの」 「念のためさ」 「安彦さんに限ってはありえないわ。看護婦のなかにはそういうバイトをやる人もいるけど、雰囲気で分かるし、昼間の仕事にも影響が出るもの」 「トラブルはまるでなし、か」 「私生活のすべてを知っていたわけでは、ないけれど……」 「病院のなかでは?」 「もてたか、という意味?」 「そう」 「デートに誘って断られた男性職員はいたらしい。でも私だって、デートぐらい断ることはあるわ」 「私生活のことは、本当に、知らない?」 「あなたのことも知らなかった」 「二年前の私生活ではなく、最近の私生活さ」 「それは……」 「尾崎喬夫という名前なんかは?」 「………」 「聞いていた?」 「化粧品メーカーの人よね」 「知ってたか」 「会ったことはないの。でもなにかの話のとき、名前を聞いた気はする……あなたのほうこそ、どうしてその人の名前を知ってるの」 「テレビ局の人間は無節操でさ。スクープのためなら兄弟でも警察へ売り渡すんだ」  水穂から渡されたメモには、尾崎喬夫の項に〔ファイン化粧品本社営業部勤務〕と書かれている。会社や自宅の連絡先も書いてあるが、年齢その他、千秋との関係は省略されている。関係は書いてはなくても水穂がわざわざリストに残すぐらいだから、見当はつく。この尾崎喬夫という男が、死の直前まで千秋の恋人だったのだろう。 「知り合いのテレビ局の人から、いろいろ聞いてるみたいね」 「君や尾崎さんのことだけさ」 「でも彼とはもう別れていたはず。具体的には聞いていないけど、なんとなくそんな感じだった」 「二人が別れたのは、いつごろ?」 「一ヵ月ぐらい前かな。私と安彦さんとで飲みに行って、そんなことを聞いた気がする」 「別れた理由は?」 「相手には家庭があったもの。でも安彦さんは、私生活のこと、ぐずぐず言う人ではなかったわ」  たしかにそのとおり、千秋は過去や私生活の話題は不思議なほど好まない性格だった。大学での友人関係にも無口で、家族の話すらしなかった。今から考えれば極端すぎた気もするが、子供のころから姉貴とお袋の多弁にうんざりしていたぼくには、そういう千秋の性格が好ましかった。  ウーロン茶で咽を潤し、集っては飛び立つ雀の群れに目をやりながら、ぼくは杳子の反応に耳を澄ます。 「なにも原因がなくて、千秋も、殺されないよな」  杳子が紅茶の缶をベンチにおいて、指の水滴を白衣の裾にこすりつける。杳子の口から、短くため息がこぼれ出る。 「病院って、けっこう人目を気にするのよね」 「うん」 「うちの病院はキリスト教系の慈善団体がバックなの。医療は患者本位が建前で、雰囲気もオープンにしている。でも病院であることには変わりないの。医療ミスや職員のトラブルには敏感だし、噂が広まることもいやがる。見かけよりはずっと保守的な体質よ」 「要するに……」 「安彦さんの事件について、私が山口くんと話をすることだって、みんなよくは思わないわ」 「ごめん」 「だから、私の口から言えないことも、あるわけなの」  杳子の視線が塀際の樅の木やアプローチの花壇へ、ゆっくりと一巡する。風景に目を休めるためではなく、庭を行き来する患者たちへの意識らしい。 「本当は、話してはいけないことなんだろうけど……」 「君に迷惑はかけない」 「安彦さんの元彼なら、いいわよね」 「いいと思うけどな。それに病院へは、もう来ないようにする」 「彼女は患者さんの一人に、困らされていたの」 「どういうこと」 「精神科の関係者ならみんな知ってる。警察も知っているはず」 「………」 「快復期の患者さんで、彼女を好きになってしまった人がいるの」 「当然、男だよな」 「元高校の体育教師で、躁病の患者さん。快復期で社会生活への復帰プログラムに入っているんだけど、その人が安彦さんを好きになってしまったの」 「どこかに問題が?」 「患者さんが医師やソーシャルワーカーに好意をもつことはよくある。好意を治療に利用するケースもある。でもその患者さんの場合は、躁病で、自分の好意に抑制がきかないの」 「………」 「好きになったら相手に抱きついてしまう。安彦さんの顔が見えればいつまでも追いかけまわす。快復期だから、外泊も許可されていて、そんな日は彼女のアパートまで押しかけていく」 「それは、ストーカーだ」 「ストーカーも一種の精神障害ではあるけれど、どちらかといえば人格障害の部類ね。躁病の場合は精神科の分野で、ストーカーのような陰湿さはないの。本当に心から安彦さんを好きで、その自分の感情が抑えられないだけ。病院では彼女を担当から外して、しばらく様子をみる方針だったらしい」 「そこへ今度の事件か」 「外部へもれては困るでしょう。もし犯人がその患者さんだったら、病院側の過失になる。マスコミに知れてもスキャンダル、院長の責任も問われる。だから今、うちの病院、針山の上で営業してるようなものなの」  さっき飛んでいったシジミ蝶が戻ってきて、ベンチをかすめ去る。シジミ蝶はせわしない羽ばたきでデイジーの植え込みへ消えていく。かたむいた陽射しが芝生に木立の影を引き、風がなまぬるく吹きすぎる。千秋を殺した犯人がもしその躁病患者なら、たしかに敬愛会病院は大打撃で、マスコミからも叩かれる。 「だけど……」  苛立ちを我慢し、ウーロン茶を飲みほして、ぼくが言う。 「そこまで分かっていて、警察はなぜその男を捕まえないのかな」 「私には分からない」 「君はその男が犯人だと?」 「病院での噂よ」 「警察が調べている最中か」 「そうでしょうね」 「患者の名前は?」 「そこまでは言えない」 「犯人と決まったわけではないし、か」 「そういう事実があって、ほかに安彦さんのトラブルは思い当たらないって、私は、そう言っただけ」  淡々とした表情で杳子が紅茶に口をつけ、鼻の頭の汗を指先でこする。病院での噂をぼくに打ち明けるだけでも裏切り行為で、ソーシャルワーカーとしては、もちろん、患者の名前までは言えないだろう。 「でも私、あなたに話して、いくらか気が晴れたわ」 「君が病院のなかで、困らなければいいけどな」 「隠してもいつかは知れることだもの。それに私、精神保健福祉士の試験に受かったら、フリーのソーシャルワーカーになるつもり。病院へ来られないお年寄りや、社会から疎外された病人や、そういう本当に介護を必要とする人たちのために働きたいの。医療や福祉って、制度ではなく、愛だと思うの」  ウーロン茶は空になっていて、ぼくはベンチに座ったまま背伸びをする。ぼくの目にカンナの赤い花がしみ渡る。同年の女の子がソーシャルワーカーになって、社会に参加し、人生にちゃんと目標をもっている。「福祉は愛だ」と断言されると、多少は赤面するが、間違った意見ではないだろう。それにくらべて自分は、と思うだけで、もうぼくは胃の奥が苦くなる。  杳子が足を揃えて腰をあげ、眩しそうな目でぼくと玄関を見くらべる。 「私、仕事に戻らなくては」  ぼくもベンチを立って、杳子に会釈する。小作りな丸顔が西日のなかに輝いて見える。千秋の話題を共有したせいか、杳子の表情も初めよりは打ち解けている。 「今の話、内緒よ」 「話す相手もいないさ」 「安彦さんのこと、何か分かったら教えてね。今度は私のほうから電話をする」  杳子が玄関へ歩きだし、ぼくも肩を並べて、百日草とデイジーのあいだを歩く。 「ウーロン茶の缶、私が捨てておくわ」 「ありがとう」 「聞くのを忘れてたけど、あなた、まだ大学生?」 「フリーター」 「就職浪人とか」 「そんなとこ」 「いいわね、自宅の人って」 「肩身は狭いさ」 「でも東京のアパート代って、腹が立つわ」 「アパート、どこ」 「西荻窪」 「西荻窪なら吉祥寺が近いな」 「近くても遊んでる暇はないし、お金もないわ」 「出身は?」 「浜松」 「そういえば……」  大した問題ではなく、事件とは無関係と思いながら、ぼくは昨日から気になっていたことを訊いてみる。 「千秋は自分の出身地のことを、君に、どう言っていた?」 「ああ、そのこと」  杳子の足が止まり、ふっくらした頬が、かすかに引きしまる。 「不思議なのよねえ、安彦さんからは山形と聞いた気がするけど、事件のあとで調べてみたら、就職のときの書類は千葉県の行徳になってるらしい……私の勘違いだったのかな」 「祖先は忍者だとか」 「え?」 「こっちの話。そうか、千秋はやっぱり、行徳の出身か」 「それが?」 「分からない。千秋の好物が山形のサクランボだったとか、そんなことかも知れないな」  杳子の視線が不可解なパズルでも解くように、ぼくの顔を覗く。千秋殺しの犯人が病院の躁病患者だったら、事件はそれで解決。そのことに文句はないが、気分のどこかが釈然としないのは、千秋が同僚の杳子にまで、出身を山形県と説明していたことだろう。  杳子が口を開きかけたとき、駐車場から中年女と腰の曲がった年寄りがやって来る。中年女が杳子に声をかける。年寄りは杳子の担当患者らしく、杳子が快活にぼくから離れていく。  ぼくは杳子に手をふって、アプローチを門へ歩く。花壇の日は陰り、それでもカンナの色は暑苦しく、駐車場を出入りするクルマも頻繁だった。  たった一週間前まで、千秋がこの病院にソーシャルワーカーとして勤めていた事実が、まだぼくには信じられなかった。   E  日は陰ったが、空はまだ明るい。駅前の大通りを右へ行くと野鳥公園に向かい、左へ行くと旧江戸川の船着場につきあたる。改札の左側にはギョーザ屋に五、六人が列をつくっている。それ以外はたいした人出もなく、ぼくは案内板で旧市街地の方向を確認する。  信号を渡り、花屋でトルコ桔梗《ぎきよう》を買い、日の陰った大通りを〔伊勢宿〕という町をめざす。最後に千秋の部屋へ泊まった日、テーブルには薄紫色のトルコ桔梗が飾られていた。「アップルパイと紫色の花が好き」と言った千秋の言葉が、脈絡もなく記憶によみがえる。  旧江戸川沿いには押切だの関ケ島だの、レトロな町名がならんでいる。市川・浦安バイパスを過ぎると町並も古くなる。昔の成田道らしいバス通りも細く曲がりくねって、所々にうらぶれた布団屋や食堂が店を開けている。狭い町割りは行徳が港町であったことの名残りらしく、空気に懐かしさと親しみがある。  予想もしなかった古い町並に、呆れたり感動したりしながら十五分ほど歩く。伊勢宿に入ると、時代を百年もずらしたような、不思議な路地になる。竹垣からは青木の植え込みがのび、板塀側は黒漆喰がはげて破れ目に庭内が覗かれる。その板塀の先、古いガラス格子の玄関には『安彦』と書かれた木の表札が掛かっている。  ぼくはしばらく、千秋のイメージに合わない二階家の前に立ちつくす。家は傾いてこそいないものの、板壁や玄関軒に埃と亀裂が目立っている。格子のガラスには地模様のような埃がつもり、表札にも干からびた柾目が浮いて見える。『安彦』という楷書文字もかろうじて読める程度、敷地の広さはぼくの家のなん倍か。一瞬空家かと思いそうな家ではあっても、ガラス格子の内側には明かりがある。水穂のメモではこの家に、千秋の母親と妹が暮らしているはずだった。  格子戸横の新しいインタホンを押すと、すぐに女の嗄《しわが》れた声が返ってくる。癖のある口調だったが、どうやら「勝手に入れ」という意味らしい。ぼくは無錠のガラス格子を開け、暗くて湿っぽい玄関に足を入れる。昔は三和土《たたき》だったらしい沓脱《くつぬぎ》は十畳ほどのコンクリート、上がり框《がまち》も広い板敷きになっていて、奥廊下の手前には二階への階段がつづいている。梁も柱も古くて太く、時代劇の商家か旅籠《はたご》を思わせる。沓脱には古い茶箱や段ボール箱が無造作に積まれている。  廊下の奥に足音がして、座敷《ざしき》童子《わらし》のようなおばさんがあらわれる。背丈は百四十センチ台、モンペのようなズボンにアップリケのついた割烹着をきて、前髪をおかっぱ風に切り揃えている。小さい顔には縦横に皺が走り、そのくせ肌の艶はよくて年齢が分からない。千秋の母親なら五十前後だろうが、それよりもだいぶ年季が入っている。 「こんにちは。以前千秋さんと交際のあった、山口といいます」  挨拶したぼくの顔を、驚いたような目で見据え、おばさんは何やら勝手にうなずく。小さい体躯に動作も敏捷だが、歳はやはり七十を過ぎている。 「事件のことを昨日まで知らなくて、おくやみが遅れました」 「んだが……」 「線香をあげさせてください」 「兄《あん》ちゃ、名前はなんて言ったげがな」 「山口です」 「千秋の友達だながあ」 「はい」 「新聞記者じゃねえべなあ」 「学生時代の友人です」 「んだらいがった。最近は記者どが来《く》っがら、念押したんだっけ。千秋も生ぎでっ時は家さ寄らねえくせに、まんず親不孝な娘だべし」  おばさんの皺だらけの顔が、ジグソーパズルを崩したようにゆがむ。ひょいと身を退かせ、おばさんが手招きでぼくを促す。言葉は東北訛りらしく、風体も千秋の母親ではなさそうだ。 「とにがぐ上がってけろ。親不孝な娘だったげんども、仏さまは仏さま、兄ちゃの気が済むまで線香をあげでけろな」  手招きを受けて沓脱に靴を脱ぎ、それからおばさんの後について、廊下を奥へ入る。  通された部屋は床の間のついた和室で、欄間の上に黄ばんだ色の額が掛かり、床の間には大型テレビが納まっている。脚の太い角ちゃぶ台には菓子鉢と蓋つきの湯呑、ファンの回っていない扇風機に読みかけの新聞、色あせた畳や壁の色まで含めて、部屋全体が湿っぽい。床の間の横には古くて大きい仏壇があり、ロウソクの向こうに千秋の写真が立てかけてある。写真は高校時代のものか、制服姿の千秋が無表情にぼくを見つめてくる。ロウソクの炎がぼくの呼吸でゆれ、その瞬間だけ千秋の顔に、はにかんだような翳りが浮く。  ぼくは仏壇にトルコ桔梗の花束を置いて、線香にロウソクの火を移す。ぼくの目に千秋の白い顔が浮かび、記憶を千秋の体臭が通りすぎる。二人で撮った写真が一枚もないことを、ふと思い出す。それでも感情移入に踏み切れないぼくを、千秋が仏壇から非難する。  ぼくが合掌を終わらせ、おばさんが客用の湯呑を用意する。ちゃぶ台に湯呑が出てきて、菓子鉢から砂糖菓子が取り出される。おばさんの目には涙がにじんでいる。 「有難《おしようし》なっし。千秋は友達いねがったがら、兄ちゃは久しぶりのお客さんだない」  正座の膝が苦しく、線香の匂いも息苦しく、ぼくは用件を切り出す。 「おばさんは、千秋さんの……」 「あんれ、言ってねがったがい。おら横山タネ子っつうて、千秋の母ちゃん方の婆っちゃだべ」 「そうですか」 「この騒ぎで真木子が入院しぢまっだがら、留守番代わりに残ってんなだあ」 「はあ」 「真木子はこれまでも腎臓が悪《わり》ぐで、寝だり起ぎだりでよう、千秋がこがな事になって当分は入院だべなあ」  腎臓が悪くて入院したという〔真木子〕が千秋の母親、目の前の横山タネ子が真木子の母親で千秋の祖母、そしてどうやら横山タネ子はこの家の人間ではなく、真木子の実家から来ているらしい。  横山タネ子の訛りに予感がひらめき、ぼくは最初からの疑問を口にする。 「横山さんは、もしかして、米沢から?」 「兄ちゃ、千秋がら聞いだんがい」 「千秋さんは出身を山形県の米沢市と言ってました」 「んだが。そりゃ三つまで米沢さ暮らしとったげんど、あとは行徳だがら、普通だら行徳と言うんでねえがい」 「行徳に実家があることを、千秋さんは言いませんでした」 「なんでだべなあ。まんず変わった子供《おぼご》で、めんどくせえどごもあったっさなあ、千秋もなあ……」  横山タネ子が目をしばたいて、しゅっと湯呑をすする。もう庭に面した網戸は薄暗く、明かりを求めて小さい蛾が飛んでくる。クルマの通らない路地に囲まれているせいか、付近は不気味なほどの静けさだ。  ぼくは正座の膝を横に崩し、客用の湯呑に手をのばす。 「千秋さんは昔のことを、言いたがらない人でした」 「どごで間違ったが……真木子の連れ子だったげんども、清造さんもいい人でよう、千秋が苦労をしたども思えねげんどなあ」 「千秋さんのこと、聞かせてもらえますか」 「んだなあ、生ぎでる人間が仏さまのごどしゃべれば、供養になるっても言うがらねえ。兄ちゃが千秋さ線香あげでくだったのも、ご縁かもしんねしな」  皺に囲まれたタネ子の口が、入れ歯を調節するように動く。半白のおかっぱ髪が額にふるえる。 「千秋は自分の親が再婚だってごど、兄ちゃさ言ってだが」 「いえ」 「言ってねがったがあ。恥でもねえべに、めんどくせえ娘だなやい」 「ご家族のことも話しませんでした」 「ほんによう……千秋の実の父ちゃんはまだ米沢で生ぎとってなあ。こいづが酒乱で道楽者で、仕様もねえ男なんだず。千秋だってあだな奴のごど、顔も覚えでねえべし。まんずそがなごどで、真木子は千秋んどご連れて実家さ逃げできたんだ。ほんじぇえ横山の家さ五人も兄弟がいっぺし、兄嫁もいっぺがら、真木子も具合さ悪かったんでねえがい。そんどぎ、親戚衆で再婚話を持ってきだ人がいで、相手が安彦の清造さんだったんだごで。この安彦の家も昔は縁つづぎでよう、清造さんの三代前が米沢がら東京さ出で、裸一貫、財産をつぐった人なんだあ。それが清造さんっつう人は、学者肌っつうか、芸術家肌っつうか、商売さ向がねえ人でよう、家業の運送屋も自分の代で閉めぢまっだような人だったげんども、人柄がいいべし、近所さ地面や家作は持ってっぺし、まんず真木子もいいんでねえがいって、千秋んどご連れてこの家さ入ったんだごで。おら、ずうっと米沢だがら詳しいごどは知らねげんど、真木子も千秋も苦労はねがったべし。ほだげんどもなあ、千秋にしでみだら、清造さんは実の親じゃねえべし、そのへんでちょぴっと、難儀もあったべがなあ」  座敷童子のようなタネ子の躰が、浅くちゃぶ台にかかる。もともと話好きなのか、タネ子の口はとまらない。 「千秋さんは、それでは、三歳のとき米沢から行徳へ?」 「さっきも言ったべした。見合いしだら二人どもまんざらでもねえべし、善はいそげだごで。清造さんさは両親も兄弟もねえ、四十も近くになっては、まんず、割れ鍋にとじ蓋だったっさない」 「義理のお父さんと千秋さんの、仲がうまくいかなかったとか」 「聞いでねなあ。清造さんさ物静がで穏やがな人でえ、子供《おぼご》さ手などあげねがった。みかんが生まれでがらは、四人で米沢さも遊びに来たっさなあ」 「みかん……」 「聞いでねえが?」 「はい」 「妹の名前だず。千秋にしでみだら種ちがいの妹になっこでなあ」 「みかんというのが、名前ですか」 「やっばり可笑《おもしえ》えが?」 「いえ」 「平仮名で|みかん《ヽヽヽ》て書ぐなだ」 「そうですか」 「可笑《おもしえ》えべえ、おらもヘンだど思ったげんども、役所さ届げぢまったってがらよう、今の時代はそがな名前も流行《はやり》だど言わっちえ……生まれたんが冬でよ、清造さんが蜜柑が好きだったどが、まんず仕方ねがったんだ」  学者肌か芸術家肌で、物静かで穏やかで子供にやさしくて、そんな人間が本気で、娘に『みかん』なんて名前をつけるのか。最近はリンゴやバナナという名前もあるらしいから、みかんぐらい可愛いものなのか。 「他人《ひと》様さ言うなもなんだげんども……」  砂糖菓子をつまみ、茶と一緒にくちゃくちゃと飲みくだして、タネ子が言う。 「このみかんっつう娘がよう、大っきな声じゃ言《ゆ》わんにげんども、千秋よりも変わった子供《おぼご》でよう、横山の血筋なんだが安彦の血筋なんだが、真木子も二人の娘っこには困っていだっけず。あんじゃ腎臓も悪くなっぺなあ」  そのときガラス格子が開いて、玄関に音がし、ぼくとタネ子は顔を見合わせる。茶の間に赤いキャップがあらわれ、ぼくは口のなかで声を出す。女の子もぼくの顔を認めて、戸口に立ったまま、むっつりとこちらを睨みつける。 「あんれえ、みかん。この兄ちゃはよう、千秋の友達でえ、山口さんどが……」  タネ子が言い終わらないうちに、みかんが顔をそむけ、ふて腐れたデイパックが廊下に消える。 「あがなもんだず。十六さなってまどもに挨拶もできねえなだ。おらにもログな口きがねえし、あれで清造さんが生ぎったうぢは、ちょぴっと可愛げのある子供《おぼご》だったのによう」 「彼女が、千秋さんの……」 「困ったもんだない。学校さも行がねで、毎日ぶらぶらしったど思ったら、今度は部屋さ入ったきり出でこねえ。やっぱし、なんだべなあ、一度医者にみでもらったがいいべがなあ」 「さあ」 「おらみでえな田舎の年寄りさは、若い衆《しゆ》のごどは分がんねえ。ダイオキシンどが環境ホルモンどが、ああいう薬がワルサしたんだべげど、この安彦の家が如何《なじよ》なごどになんなだが、おら、考えるだげで血圧あがって来っぺし」  タネ子の愚痴が際限もなくつづき、ぼくはその愚痴をBGMとして聞き流す。水穂の命令で探偵のまね事を始め、奇妙な女の子に出会い、そしてそれが、千秋の妹だった。みかんという名前はたしかに風変わりだが、まさかそのせいで千秋が殺されたわけでもないだろう。みかんなんてヘンな名前をつけられたら、誰だって、ちょっとぐらい、世の中を拗ねてみたくなる。 「千秋さんの、子供のころのこと……」  意識を事件へ戻し、二階の気配に耳を澄ましたまま、ぼくが言う。 「どんな子供だったか、聞かせてもらえますか」 「如何《なじよ》なって、そだな、あの通りだったごで」 「子供のころから冷静な感じの?」 「おどなしい子供《おぼご》だったっさなあ。出戻りの母ちゃんと実家で暮らしったがら、肩身は狭かったんでねえがい。辛抱《しんぼ》強いっていうんだべが、目さ涙ためでも声さ出して泣がねえみでえな、強情《きかね》え子供《おぼご》だったっさなあ。おらも気の毒だどは思ったげんども、まんず孫は蜘蛛の子みでえにいっぺし、千秋さばっかし手えかげでいらんにがら……ほだげんど、なんだが、可愛げのねえ子供《おぼご》だったさなあ」 「お母さんが再婚して、行徳へ来てからもですか」 「そがなどごまで知らねなあ。んだって、千葉と山形だべした、盆暮れんどぎはたまーに顔も見だげんど、真木子も清造さんも、千秋んごどは言ってこねがっだなあ。おら、こっちでよう、塩梅|良《い》ぐ暮らしったど思ってだず」 「義理のお父さんが亡くなられたのは、いつごろのことですか」 「あれはよう、うんとなあ、千秋が高校二年のどぎだったがら、もう六年も前になるんでねえべが」 「病気とか、事故とか」 「海で溺れたんだあ」 「海……」 「この近ぐの防波堤でよう。清造さんっつう人は、定職持だねえ人だったげんども、地代や家作の収入があって、暮らしには困んねがったべし。んだがらって博打や女遊びさ金を使うわげじゃねえ、絵え描いだり本読んだり、外国の遺跡さ旅行したり、まんず商売さ向がねえ人だったず。そがなごどで毎日ぶらぶらしてだっさなあ、夏になっとよぐ夜釣りさ行ってだみでえで、六年前も……あいづは彼岸よりもこっちだったがら、ちょうど六年前の今ごろでねえべが、やっぱし釣りさ出掛げで、朝になっても帰ってこねがったんだ。そしたら警察がら連絡が来でよ、真木子が防波堤さわらわら行ったどぎは、死んじまってだんだど。釣りさには弁当どが酒どが持って行ったつうがら、酔っ払って海さ落ぢだんだべなあ。まだ五十をなんぼも出でねえず、人の一生あんて、呆気ねえもんだない」  六年前の事故を思い出したのか、千秋の死に思いが及んだのか、タネ子の目尻に皺が深くなる。鼻水が一筋、つーっと唇を伝わっていく。二階から物音はなく、網戸にぶつかる羽虫がたまに、ささやかな雑音を提供する。  湯呑が空になったが、代わりを要求する気分でもなく、ぼくは尻を右から左へ移動させる。 「千秋さんが落合にアパートを借りたのも、お義父《とう》さんの事故が原因でしょうか」 「そがなごど、どうだべな」  タネ子が割烹着の袖で鼻水をおさえて、急須にポットの湯を入れ、目を細めて湯呑に急須をかたむける。 「兄ちゃどごさも警察が行ったんだがい」 「はい?」 「千秋が誰がに殺されだっつう、あの話だべ」 「あ、はい」 「まだ新聞さは出ねげんど、そういう事みでえだな。千秋は人がら恨まれでいねがったがどが、ストーガーがどうだどが、警察が訊いていったべし。そがなごど訊がれだらよ、なんぼ年寄りでも見当つぐべしたなあ」 「誰かに、恨まれていたんですか」 「どうだがなあ……おら米沢だべし、真木子は病気がちで、千秋はずうっとアパート暮らしだがらよ。誰と如何《なじよ》につきあっていだんだが、人様と喧嘩でもしてねがっだが、家族のもんだって分がんねえっさな」 「あのアパートへは、大学のときに?」 「んだど思うげんどなあ。こがな古い家で、便も悪《わり》いしなあ。千秋も東京で自由に暮らしたがったんでねえがい。まんずそいづが、徒《あだ》になっつまっだごで」  どこか家の奥のほうで、木のぶつかるような音がする。皺深いタネ子の目が天井をふり仰ぐ。目にはまだ涙がたまり、背中も肩も前よりも一層、丸く小さくなる。 「殺されだなんてなあ、そりゃ観音様みでえな立派な娘だったどは言わねえ。んだげんども、誰がよう、そがなごどよう」 「最近は理由もなく人を殺す人間が、いくらでもいます」 「嫌《やん》だ時代だなっす。若い衆《しゆ》も年寄りも、みんな頭が狂ってんでねえが。どごで何あったんだが知らねげど、千秋に悪《わり》いどごがあんだら、口で言えばいいべした。殺しだり火つげだり……千秋だってよう、言われで理屈が分がんねほど、バガな娘でねがったべず」 「犯人は必ず捕まります、ぼくも調べます」 「有難《おしようし》なっす。千秋は友達さ縁が薄いがら、兄ちゃみでえに言ってぐれる人は、初めてだあ」 「困ったことがありましたら、連絡をください」  いつの間にか網戸の外は闇になっていて、隣家の明かりが縁側の軒上に浮かんでいる。  ぼくは名刺をちゃぶ台に置き、膝立ちに仏壇をふり返る。線香は消えているが、ロウソクの炎はまだ千秋の写真に影をつくっている。気のせいか、ちょっとだけ、千秋が笑う。 「おらみでえな田舎もんさは、何がなんだが、さっぱす……」  腰をあげたぼくに、タネ子も一緒に腰を浮かす。タネ子がカラクリ人形のように後ろへまわり、ぼくはそのまま居間を出る。廊下を歩き、玄関框に出て、沓脱のコンクリートに足をおろす。沓脱にはピンク色のビニールサンダルが散らばっている。片方は横向きに、片方は逆向きに、ずいぶん乱暴な形に脱いである。 「ほんによう、みかんがもうちょぴっと正常《まとも》な子供《おぼご》だら、一緒に鮨でも取んなだげんどなあ」 「彼女にも気を落とさないようにと」 「気持ちはありがだぐ頂戴すっけんどよう、みかんみでえな子供《おぼご》に、人様の気持ぢあんて、伝わるもんだがねえ」  何か言おうと思ったが、言葉が見つからず、タネ子におじぎをして外に出る。狭い路地に街灯はなく、民家からのこぼれ灯が板塀に黒々と輪郭を与えている。  少しバス通り方向へ歩いてから、足を止める。塀越しに安彦の家をふり返る。二階の窓にカーテンが黄色っぽくにじみ、そのカーテンに一瞬、人影が動く。  ぼくはジーパンのポケットに両手の親指をひっかけて、肩をすくめる。それから踵を返し、行徳駅方向へ歩きだす。空気のなかに水の匂いが感じられるのは、近くに江戸川が流れているせいだろう。  暗い路地で、ぼくは軽く小石を蹴る。   F  まさかなあ、金縛りなんて嘘だよなあと、眠ったままの頭で自問する。  ぼくの二十三年間は怪奇現象にも超常現象にも、まったく無縁。金縛りも経験はなく、そんな現象は夢にも信じない。それでも今朝は腹のあたりが息苦しく、生理的な理由ではない何か、訳の分からない物理的な力が躰を圧迫する。焼き殺された千秋の霊が部屋へさまよってきたのか、ぼくに自分の死の謎を解いてくれと懇願しているのか。横山タネ子が言ったとおり、友達に縁のうすかった千秋は、死んでみたらぼく一人しか頼れる人間がいなかったのか。  目蓋の裏に千秋の写真が映し出され、仏壇の向こうから苦悶に顔をゆがめた千秋が、不意にあらわれる。咽がつまり、上体を起こし目をあける。あろうことか、現実に、ベッドの端に女が座っている。背中を悪寒が突き抜け、それまで冷たかった寝汗が、一気に熱くなる。 「あ……」 「なにを寝ぼけてるの、もう八時をすぎたわよ」 「姉さん、嚇《おど》かさないでくれ」 「だらしない男ねえ。うわごとを言ってよだれをたらして、彼女にふられるのも無理ないわ」  うわごとを言おうとよだれをたらそうと、そんなことは、大きなお世話だ。寝てるあいだの人生まで水穂に意見をされたら、たまったものではない。だいたい他人の寝てる部屋に無断で入ってくること自体、姉弟《きようだい》でもルール違反ではないか。 「姉さん、昨夜も帰り、遅かったの」 「二時をすぎてたわ」 「すごいな」 「あんたは寝てるし、こっちは一睡もできない。広也、この責任はどうしてくれるの」 「姉さんが美人なのは、もちろんおれの責任だ」 「………」 「だけど寝言やよだれは、おれの責任じゃない」  二時すぎに帰ってきたというなら、水穂が寝たのは三時ちかくだろう。それでいて朝の八時には立派に化粧を終えている。セミロングの艶やかな髪にブランドもののスーツ、自分の姉ながら美人だな、とは思うものの、見事すぎる化粧が鼻につく。 「姉さん、香水を変えたのか」 「いつもと同じよ」 「そうかな、なんとなく……」  言いかけたとき、水穂の目に、大粒の涙が浮きあがる。 「姉さん」 「みんな広也のせいよ。あんたがまごまごしてるから、こんなことになるのよ」  混乱しているのはぼくの頭か、水穂の神経か。水穂の目からは音もなく涙が流れ、ファンデーションに銀色の筋をつけていく。  突如、ぐわっと叫んで、水穂がぼくに新聞の束を叩きつける。 「読んでごらんなさいよ。広也、この責任をどう取ってくれるのよ」 「だけど……」 「いいから読みなさい。まったく、仏滅と暗剣殺が一緒に来たみたい。もうすぐ生理も始まるし、これで私の人生もおしまいだわ」  動物園でパンダが死んだとか、矢を突き刺されたままの猫が子供を産んだとか、そんなことで涙を見せる水穂ではない。昔家で飼っていた猫が交通事故で死んだときも、水穂は舌打ちをしただけで、死骸を洗足池の縁に埋めてきた。  状況が理解できず、とりあえずぼくは新聞をめくる。社会面のトップに目がとまり、胸騒ぎとともに、急いで記事を追いかける。それは千秋の事件が『殺人と断定された』という内容で、出火の不審点から千秋の勤務状況まで、詳細な記述になっている。大見出しの横には窓をシートで被ったアパートの写真があり、千秋の顔写真も添えられている。事件を殺人と断定した警視庁は所轄署に特別捜査本部を設置したという。  社会面のトップに扱われて、たしかに衝撃的な内容ではある。しかし事件が殺人であることは、すでに牧瀬杳子も横山タネ子も気づいている。新聞にのったからって、水穂が人生を終わらせるほどのことはないだろう。 「分かるでしょう、広也。私いつか、あの女を呪い殺してやるわ」 「ええと……」  いつの間にか水穂は涙を打ち切り、不穏に光る目でじっとぼくの顔を見つめる。水穂の目の色が変わったときは、弟でも誰でも、もう逆らえない。 「姉さん、あの女って、誰」 「遠藤京子よ、決まってるじゃない」 「ああ、そうか」 「あの女が報道局長に手をまわしたの。この事件は私だけのスクープだったのよ。私にスクープされたら自分の立場が危ないから、遠藤京子が新聞にリークしたの。局長の動きが不審《おか》しいと思ってたら、あいつも遠藤京子にたぶらかされてたのよ」 「新聞社にも記者はいるさ」 「なにを言ってるの。これは私が一課の刑事を手なずけて、特別に仕入れたネタなのよ。そのへんのボンクラ記者たちに、分かってたまるものですか」 「きびしい世界だな」 「人ごとみたいに言わないでよ。こんなことにならないように、あんたに軍資金を渡したんじゃない」 「そうは言うけど……」  この事件に関わってたったの一日、テレビ局の内情にまで責任はもち切れない。殺人という噂だって、もう広まっているようだし、水穂ひとりが頑張っても仕方はない。そうは思ったが、ここは水穂の逆鱗を警戒して、ぼくは無難に黙り込む。水穂が遠藤京子という人気キャスターを呪い殺すというなら、ぜひとも、その技を見せてもらいたい。  水穂がベッドの端から腰をあげ、鼻の穴を上向けて、腕を組む。 「広也、いったいこの始末、どうしてくれるわけ」 「やっぱりおれの責任かな」 「私から五万円も|ただ《ヽヽ》取りして、逃げきれると思ってるの」 「姉さんがそう言うなら、おれは下りる」 「無責任な男……」 「協力はしたいさ。それに新聞では先を越されたけど、姉さんの立場は、相変わらず有利だ」 「どういうことよ」 「新聞には容疑者のことが書いてない」 「容疑者?」 「警察もマークしてるという」 「広也、それ、本当の話?」 「姉さんとは運命共同体さ」 「あんた……」  殺気だっていた水穂の目に、呆気なく媚びが浮かぶ。高い鼻がうごめいて、ファンデーションで固めた白い頬が、にっと笑う。 「何を聞き込んだか知らないけど、広也、言ってごらんなさいな」 「金一封も期待したいな」 「内容次第よ」 「警察がマークしてるのは敬愛会病院の患者で、躁病の快復期に入ってる男」 「あらあら」 「千秋はその男の担当で、介護をしているうち、相手に惚れられた」 「男って、病気になってまで、バカなのねえ」 「躁病というのは自分の感情に抑制がきかない病気らしくて、千秋に抱きついたり、あとを追いかけたり、外出時には千秋のアパートへも押しかけたらしい。ストーカーとはちがうというけど、専門的なことは分からない」 「男の名前は?」 「そこまでは聞けなかった。でも元高校の体育教師で、あの病院の患者なら、姉さんのほうで調べられる」  水穂が腕を組んだまま、朗らかにスリッパを鳴らす。壁紙でも剥がしそうな視線が、じっと天井にそそがれる。 「まあね、金一封とまではいかないけど、広也にしては上出来だわ」  腕組みをとき、タイトスカートの足をターンさせて、水穂が言う。 「これで私にも芽が出てきた。最初から遠藤京子なんかに、負けるはずなかったのよ。もともと人気も美貌も私のほうが上、いざとなれば寝技だって負けないわ」 「姉さん、まさか」 「なによ」 「仕事に寝技を使ってるのか」 「あんたも寝ぼけた子ねえ、私が暇つぶしでエステにかよってると思うの」 「………」 「私の躰は服を着るためじゃなく、服を脱ぐためにあるの」 「すごい躰だ」 「今のはたとえ話……私だって必要もないときに、自分を安売りしないわ」 「売るときは、せいぜい、高く売ってくれ」 「ねえ、広也……」  ドアに向かってスリッパを進め、ノブに手をかけながら、水穂が口元を笑わせる。 「あんたも見かけによらず、女たらしじゃないの」 「なんのことさ」 「今の情報源、牧瀬杳子でしょう」 「寝技は使ってない」 「どうせマグレだろうけど、一応は期待してるわ」 「もう一つ……」 「金一封は贅沢よ」 「そうじゃなくて、調べてもらいたい事がある」 「アイドルの電話番号とか?」 「千秋の義父《おやじ》さんが六年前に死んでる。行徳の海へ夜釣りに行って、溺死したらしい」  ドアを半開きにしたまま、水穂が壁によりかかる。 「父親が死んでることは知ってるけど、それが、どうしたのよ」 「千秋は母親の連れ子で、清造という人は義理の父親になる」 「だから?」 「夜釣りなんかで、年間にどれぐらいの人が死ぬのかな」 「そんな統計は出てないわ」 「交通事故より少ないだろう」 「交通事故なら年間一万人、自殺者が三万人に癌で死ぬのが三十万人、殺人だって年間一千件ぐらい。でも夜釣りで死ぬ人なんか、せいぜい十人でしょう」 「確率的にはゼロに近いな」 「何が言いたいのよ」 「何が言いたいのか、自分でも分からない。だけど夜釣りで溺れ死ぬ人は珍しいはずだし、アパートで焼き殺される人間も珍しい……たぶん、偶然だろうけどさ」  水穂が鼻の先を尖らせて、顎を突き出し、よせばいいのに、盛りあがった胸をぼくに見せつける。 「だけど広也、事件のことなら、容疑者はいるでしょう」 「それとは別な話さ」 「どこが別なのよ」 「なんとなく気になるだけ。姉さんが調べられないなら、自分で調べる」 「具体的には何が知りたいわけ」 「清造という人が死んだ状況、目撃者はいなかったのか、不自然なことはなかったのか」 「探偵気取りじゃない」 「姉さんへの愛だよ」 「どうでもいいけど、一応は調べてみるわ。あんたは被害者の元彼で、未練男としての勘もあるだろうしね」  反論しようと思った瞬間、水穂がドアをすり抜け、廊下へ姿を消す。部屋にはプアゾンの匂いだけが残される。泣いたり喚《わめ》いたり人を呪い殺したり、水穂も忙しい性格だが、それでいて報道記者としては優秀だというから、世の中は複雑だ。仕事に寝技を使う話だって、否定はしたものの、実際のところは分からない。姉弟でありながらなぜここまで人生観が異なるのか、お袋が言うとおり、どちらかが病院で取りちがえられた可能性は、大いにある。  ぼくは新聞を床に放って、またベッドへひっくり返り、天井へ向けてうっと腕を突きあげる。カーテンの外は今日も無慈悲な金ピカ天気、部屋にも熱気の前兆が忍んでいる。一般論としては起き出していい時間でも、ぼくの気分に一般論はなじまない。子供のころから早起きが苦手な体質で、中学、高校時代の遅刻率は六十パーセント、大学でも一時限目の科目は履修せず、ほとんどは午後の授業でクリアした。こんな生活態度で就職など可能なのか、やはりガーデニングの手伝いで細々と暮らしていくか、それとも本気で、私立探偵でも始めてみるか。  階下の物音で、水穂が玄関を出ていく気配が伝わる。ぼくは欠伸と一緒にタオルケットをひきあげる。出掛けるにしても正午《ひる》でじゅうぶん、千秋の事件も新聞に取りあげられて、もう自由には動けない。敬愛会病院にも千秋の実家にも、どうせテレビや週刊誌が押しかける。米沢から来ている純朴な横山タネ子や、神経質そうな安彦みかんは、マスコミの攻勢にどうやって耐えるのか。まだ会っていない尾崎喬夫や大沢佳美のほうは、どんな状況か。あっさり元体育教師が犯人と決まればいいが、事件が長引けば、千秋の妹はもっと苦労する。そうでなくてもみかんなんて名前をつけられて、彼女はもう、しっかりと気の毒なのだ。  犯人も犯人だけど、千秋も罪なことをしてくれるよなと、タオルケットで顔の汗を拭きながら、背中を丸めて、ぼくはまた一つ欠伸をする。   G  東武東上線の大山駅から駅前の道を南へくだると、五分で川越街道につきあたる。駅前の道にはコンビニやパスタハウス、雑居ビルには歯医者やレンタルビデオ屋が入って、便利で退屈な風景をつくっている。川越街道へ出ても町並は変わらず、片側二車線道路の両側は雑居ビルと高層マンションがつづいている。誰が東京をここまで醜悪な街にしたのか、怒っても仕方ないと思いながら、クルマの排気ガスにぼくは憮然とする。  尾崎喬夫の住所は川越街道沿いの〔大山レジデンス〕の六階にあり、昨夜も行徳の帰りにこのマンションを訪ねている。夜の十時ごろまで二度足を運んだが、インタホンに応答はなく、電話も『留守』にセットされたまま。会社へ電話をしても「尾崎は欠勤」と言われ、今日も仕方なく大山へ出掛けてきた。千秋が死の直前までどんな男とつきあっていたのか、興味もあり、煩わしくもあり、しかし本心では、会いたくない相手だった。  アプローチに自転車や三輪車のちらばった玄関から、フロアへ入る。昨夜も確認した郵便受け前に足を止める。〔尾崎〕の郵便受けには昨夜と同様、チラシも新聞もなく、ぼくはその意味を考えながらエレベータで六階へあがる。模造レンガで装飾したマンションは古くも新しくもなく、エレベータもフロアも無難に清潔だった。  人けのない内廊下を六〇五号室前へ歩き、焦げ茶色のドアをしばらく眺める。それから思い切ってインタホンに手をのばし、ドアに身を寄せて内側の気配に耳を澄ます。応答はなく、部屋からも物音は聞こえない。「尾崎喬夫には家庭があった」と牧瀬杳子も言ったし、このマンション自体、家族向けの物件だろう。尾崎本人が留守でも女房や子供はいるはずで、郵便受けも空になっている。共働きで夫婦とも外出しているのか、それとも何かの理由で、家族が部屋を空けているのか。  出直すしかないか、とは思ったものの、勘がぼくの足をおし留める。ぼくは黙り込んでいるインタホンに、もう一度指をかける。やはり応答はなく、しかし諦めず、応答のないインタホンに自分の名前と千秋との関係を告げる。鉄板ドアの向こう側に人間がいるのか、いないのか、聴覚は反応しなくても、へんな確信がぼくの期待を刺激する。  二分ほどドアを睨むうちに、部屋のなかで物音がする。次の瞬間、無造作に、ドアが錆びた音で開かれる。顔を出したのはパジャマ姿の背の高い男で、頬に不精髯を浮かべ、真ん中分けの髪も右側へ寝癖がついている。目は笑っているような、殺気を隠しているような、ぼくの常識では分からない。鼻筋の通った端整な顔だちで、歳は三十をいくつか過ぎたあたりか。 「ふーん、千秋の友達だって?」  ドアを自分の肩でおさえたまま、尾崎がぼくの顔を見おろす。片頬が皮肉な形にひきつり、吐く息に酒の臭気が混じっている。 「千秋の友達が俺になんの用だね」 「お話を聞かせてください」 「今、忙しいんだ」 「お手間は取らせません」 「君に話すことなんかないぜ」 「尾崎さんが千秋を殺したのかどうか、それだけ聞ければけっこうです」  酒濁りのした尾崎の端整な目が、にやりと笑う。不精髯の頬がゆがみ、粒のそろった白い歯が、愛想よくこぼれ出る。 「君、失礼な男だな」 「自分でもそう思います」 「山口くんと言ったか」 「はい」 「千秋とはどの程度の友達だった?」 「尾崎さんと同じ程度に……二年前のことですけど」 「いわゆるモトカレか」 「そうですね」 「そんな昔の彼が、今ごろになって殴り込みか」 「千秋が死ねば立場は同じです」 「変わった意見だ。実を言うと俺も暇を持て余していてな、お構いはできないが、まあ上がってくれ」  ふと尾崎が肩をひき、パジャマの背中を見せて、奥へ歩く。ぼくはドアの内へ身をすべらせ、靴を脱いで尾崎のあとに従う。玄関廊下は畳二枚ぶんほど、つきあたりの部屋がダイニングキッチンで、タバコの煙と酒の匂いが籠もっている。窓には厚くカーテンが引かれ、そのカーテンがクーラーの風でゆれ動く。奥にも二部屋ほどありそうな間取りだが、尾崎以外に人の気配はない。 「そっちの椅子にかけてくれ。コーヒーでも、と言いたいんだが、生憎どこにあるか分からなくてね。この部屋で俺に分かるのはこいつだけさ」  ダイニングテーブルをまわり込んで、尾崎が壁際の椅子に腰を落とす。ウィスキーのビンを取りあげながら、顎でぼくに向かいの椅子をすすめる。テーブルには持ち帰り弁当の空パックや吸殻のあふれた灰皿がちらばり、グラスや湯呑やどんぶり鉢や、なんの理由でか、子供用の靴下までちらばっている。 「君、新聞記者にも見えないが……」  尾崎がグラスにウィスキーをつぎ、半分ほど、あおる。 「俺のことは誰に聞いて来た」 「知り合いにマスコミの人間がいます」 「テレビか、週刊誌か?」 「テレビです」 「要するに、そこまで知れてるってことだな。俺もそろそろ雲隠れと洒落こむか」 「隠れる理由があるんですか」 「モトカレだのマスコミだのに押しかけられちゃ、ゆっくり酒が飲めないだろう。俺の楽しみはもう酒ぐらいだ。家庭も仕事も失ったが、俺にも酒を飲む権利はある」  尾崎がまた、ぐびりとグラスをあおり、眉間に深いたて皺をきざむ。息が匂うほど酔っているのに、顔色は青白く、目も鉛色に光っている。酒乱の傾向があるのかも知れないが、口調は乱れない。  ぼくはすさんだテーブルと汚れた流し台を見くらべ、タバコの煙を我慢する。尾崎の懺悔《ざんげ》を聞くまでもなく、この部屋の臭気で、家庭や会社の状況は理解できる。 「尾崎さんは、ファイン化粧品の……」 「本社営業部の課長補佐だったよ。三十三歳で課長補佐なら、エリートだと思わないか」 「それも一流企業の、ですね」 「来年には課長に昇進して、四十までには部長におさまる予定だった。なにしろ女房は創業者の曾孫だ。あの一族が今でも株の大半を握ってる。将来は社長にまでと目論んでいたが……この始末で、すべてご破算だ。化粧品業界ではもう生きる場所もなかろうよ」 「お気の毒です」 「そう言ってくれたのは君が初めてだよ。女房も女房の実家も、俺を疫病神みたいに言いやがる。警察にあそこまで付きまとわれちゃ、万事休すだろうがな」 「でも、尾崎さんは、犯人ではない?」 「女房にとってはどちらでも同じさ。自業自得とは、よく言ったもんだ」 「その自業自得の経緯を聞かせてもらえますか」 「千秋との関係、か」 「はい」 「君も変わった奴だなあ、男と女の関係なんて、みんな同じだろう」 「男と女の関係は相対的なものです」 「君は哲学をやるのか」 「学生同士の自由な恋愛と、相手に家庭がある関係とは、ちがって当然です」 「ひねくれた言い方をするなよ。要するに不倫だと言いたいんだろうが、俺は千秋に、本気で惚れていたんだ」  白い歯を見せて、声もなく笑い、尾崎がぼくの顔に視線を向けたまま、空のグラスにウィスキーを注ぐ。床にはもう三本の空ビンがころがっていて、テーブルには新しいウィスキーも並んでいる。女房と子供の去ったこの部屋で、カーテンを閉めきり、尾崎はどれほどの期間酒を飲みつづけているのか。 「山口くん、君もよかったら、一緒に飲まないか」 「いえ、けっこうです」 「水臭い男だなあ。千秋にもてあそばれた同士、仲良くやろうじゃないか」 「ぼくは、もてあそばれては、いません」 「そいつはご立派だ。まさか君、ホモじゃあるまい」 「一応はノーマルです」 「ノーマルで、千秋に惚れなかったと?」 「つきあってる間は好きでした」 「別れたあとも未練があるから、今日だって殴り込みに来たんじゃないのか」 「人間としての一般的な興味です」 「そうか、そんなに興味深いか。女に惚れただけで、人生を棒に振った男なんか、めったに見物できないからな」  尾崎の脂の浮いた額に、突然いやな痙攣が走る。殺気が爆発してグラスの底がテーブルを打つ。饐《す》えた空気に亀裂が入り、灰皿からタバコがこぼれ、尾崎の椅子がざらざらと振動する。スーツでも着ていれば洒落者の男前だろうに、今は鉛色の目が、不吉につり上がっている。 「俺は、俺は、もう終わりだ。千秋のおかげで、ホームレスに成りさがる」 「三十三ならやり直せます」 「きれいごとを言うな。やり直したくても、俺には、もう気力がない」 「千秋のせいではないでしょう。殺されたのは、千秋のほうだ」 「俺が殺したとでも言うのか。警察も女房も、みんな疑いやがって、誰も俺を信じない。親兄弟まで、田舎へは帰ってくるなと言う。俺にはもう、行く場所もない」  尾崎の鉛色の目から、鉛色の涙がこぼれ、鼻水とよだれがパジャマの胸に落ちる。尾崎の破綻は狂気のせいか、酒のせいか、たぶんその、両方だろう。 「殺せるものなら、殺してやりたかった……」  グラスを取り直して、涙も拭かずに、尾崎がウィスキーをあおる。 「まさかこの俺が、あそこまで女に惚れるとは……」 「具体的にはどういうことですか」 「理屈もくそもあるか、ただ惚れただけだ。君なら俺の気持ちも分かるだろう」 「分かれば伺いません」 「気取るんじゃないよ、君は千秋のセックスを忘れたのか」 「は……」 「あんな女がこの世にいるとは、思ってもみなかった。あいつは、天性の娼婦だった」 「………」 「俺だって風俗遊びはした。そのへんのOLもつまみ食いした。だけど千秋ほど淫乱な女に、会ったことはない。ふだんは澄ました顔をしていて、福祉だとか介護だとか言ってるくせに、ベッドではまるで性格が変わる。二時間でも三時間でも、くわえ込んだらもう放さない。激しくて淫靡で繊細で、プロだってあんなテクニックは使わないぜ。こっちはすっかり精気を抜かれて、千秋には逆らえなくなる。このままじゃヤバイ、ただの浮気では済まなくなる……俺だっていやな予感はした、だから何度も千秋と別れようとした。別れるつもりでいて、でも一週間も会わないと、もうあの躰が恋しくなる。仕事も手に付かなくなって、体調も悪くなって、女房にも疑われる。俺と千秋が別れるには、どちらかが死ぬしかなかった。だが、まさか、こんな形で終わるとは、思ってもいなかった」  尾崎がグラスをおいて、テーブルからタバコの箱を取りあげ、背を丸めてライターに火をつける。目にもう涙はなく、ただ澱んで、うつろな色に開かれている。  ぼくはタバコの煙に顔をそむけ、首筋ににじんだ汗を手の甲で確認する。尾崎の言葉は聞こえていても、意味が理解できない。千秋が淫乱だったり、天性の娼婦だったり、それは尾崎の妄想か、ぼくに対する嫌がらせか。  千秋のセックスをぼくは愛着もなく思い出す。千秋は声も出さず、腰もふらなかった。終わったあともぼくたちは純情な中学生のように、躰を重ねて眠るだけだった。千秋は安らかな寝息をたて、ぼくもそれ以上の欲望を感じなかった。相手が変わればセックスも変わる、千秋はぼくに本物の愛情を感じていなかった、そう言ってしまえばそれまでだが、人間の性癖が一年や二年で、そこまで変わるものなのか。  尾崎の言った千秋のセックスは、やはり妄想だろう。その妄想で自分を正当化し、これからの人生を妄想にすがって生きていく。そんなことは尾崎の勝手でも、不必要に千秋を汚されると、ぼくもついむきになる。 「尾崎さん……」  顔にかかるタバコの煙を手で払い、椅子に座りなおして、ぼくが言う。 「千秋と最後に会ったのは、いつのことですか」 「彼女が死ぬ幾日か前だ」 「事件の夜は会っていない?」 「と、当然じゃないか」 「一ヵ月前には別れている、と聞きました」 「誰に」 「情報源があります」 「それなら、そうだろうよ。千秋とつきあっていた間、俺は何度も別れようとした。俺が別れたいと言うと、千秋は鼻で笑う。『いつでも別れてあげる』『早く奥さんのところに帰ったら』と、それがあいつの口癖だった。俺があいつと別れられないことを、あいつは知っていた。俺は罠にかかったネズミだった」 「ネズミが罠から逃れるには、罠を破壊するしかなかった……そういうことですか」 「俺は……俺は、千秋に惚れていた」 「二人が別れるにはどちらかが死ぬしかないと、さっきはそう言った」 「あれは、物の、たとえだ」 「事実としてもあり得ます」 「君は、何が言いたい?」 「千秋を殺した犯人が尾崎さんであっても、不思議はないということです」 「たわ言を……」 「そのうちに警察が証明します」 「証明はされてるさ。だから事情聴取はされても、逮捕はされていない」 「尾崎さんは睡眠薬を飲みますね」 「なんの話だ」 「それだけストレスがたまれば、睡眠薬なしでは眠れないでしょう」 「だからどうした」 「睡眠薬の種類はハルシオンですか」 「名前なんか知るもんかよ」 「では、やはり、常用している」 「君に関係ないだろう。こんな時代、まともな人間は誰だって睡眠薬を使う。今どき睡眠薬なしで眠れるのは、猫か犬ぐらいのもんじゃないか」  尾崎がタバコをくわえたまま、夢遊病者のようにグラスを取る。そのグラスにタバコが落ちる。じゅっと火が消え、しかし尾崎は燃止《もえさし》をつまみ出しただけで、またグラスを口へ運ぶ。これが演技なら立派なもので、警察に捕まっても、簡単に自白はしないだろう。  タバコの煙とウィスキーの臭気が辛く、ぼくは腰をあげる。三十三歳で家も仕事もなく、金も家庭もない人間はいくらでもいる。それと同じ理屈で、女のためにエリート人生を手放す人間は、いくらでもいる。 「なんだ、もう帰るのか」 「一般的な興味は満たしました」 「薄情な奴だな。俺と君とは俗に言う�兄弟�だ、千秋の思い出にひたりながら、二人で飲み明かしたかったのに」 「お忙しいところを、お邪魔しました」  尾崎が顔をそむけて、舌打ちをする。ぼくは尾崎に頭をさげて玄関へ向かう。弁当の空パックは廊下にまでちらばり、床にも沓脱《くつぬぎ》にも埃がつもっている。  尾崎は最後まで顔をあげず、ぼくも声をかけず、黙ったまま靴をはいて、ドアを出る。誰のせいではない人生も、誰かのせいにしなくては、たしかに辛すぎる。そんなことは承知しているが、尾崎の汚れ加減は、死んだ千秋に対して、失礼すぎる。  会わないほうがいい相手だったなと、廊下をエレベータへ歩きながら、首筋ににじむ汗を、ぼくはしつこく手の甲で拭き払う。   H  活気のない商店街に田舎臭い住宅街がつづき、その道を抜けると建売住宅の点在する畑地に出る。東武東上線で大山から二十分、それだけでもう景色はうらぶれる。増殖しかけて萎縮してしまったような、孤立した住宅地。汚れたビニールハウスが並んだかと思うと、露地物のナス畑が広がったりもする。二時をすぎたばかりでまだ日は高く、炎暑のなかに雀の群れがやかましい。西洋タンポポの目立つ草地は住宅の予定地か、値上がりを待つだけの休耕畑か。畑道に小学生のランドセルが赤く映え、たまに自転車や宅配便のトラックが行きすぎる。  ぼくは朝霞の駅から根岸台という住宅地を目指して、もう十五分も歩いていた。あたりは畑と住宅の混在するなだらかな丘陵で、和光市側の高台には神社らしい杜や広葉樹の雑木林も霞んでいる。  根岸台を六丁目七丁目と通りすぎ、八丁目に入る。畑に囲まれた住宅群のなかに『大沢』の表札を探していく。木造モルタルの二階家もあれば、鉄骨のプレハブもある。狭い敷地にそれぞれの住宅が息苦しく肩を寄せている。路地には三輪車や子供用自転車が放置され、いたる所で犬が哭《な》きさわぐ。  短いブロック塀の先に鉄の門扉があって、表札に『大沢』とある。門扉の内には大株のヤツデ、家屋は新建材の二階建て、壁の色も無難なベージュ色で、庭木にはドウダンツツジがつつましく配置されている。  インタホンに応答があって、門扉を押し、言われるまま玄関のドアを開ける。あがり廊下に短髪の女が立っている。背は中ぐらいでスカートはグレーの膝丈、半袖ブラウスの首に金のネックレスが光っている。  ぼくが五秒ほど首をかしげ、女もぼくの顔を見つめる。それから二人同時に、ほっとうなずき合う。 「やっぱり君か。もしかしたらとは思ったけど、名前がちがう気がした」 「結婚したのよ、今年の六月。あたしも電話で山口って聞いたとき、もしかしたらとは思ったけど、本当にあのときの山口くんだったの」  佳美はぼくと千秋が知り合った居酒屋にいた、千秋の友達だった。〔千秋とは大学時代の親友〕と水穂のメモにあったが、あのころの佳美は、種田とか谷田とかいう名字のはずだった。  佳美が猫でも呼ぶように、手招きでぼくを促す。通されたのは和室にカーペットを敷いた六畳の半洋室。押し入れらしいスペースはカーテンでおおわれ、ソファにはキルティングのカバー、壁のポスターはスペインあたりの風景写真か。クーラーはなく、庭に向いた窓から風と雀の声がまぎれ込む。  台所から紅茶のセットを運んできて、佳美が向かいのソファに座る。カップをテーブルにすべらせながら、丸い目を人なつこく見開く。顔も仕種もすべてが平凡、化粧にも工夫や特徴はなく、街ですれちがっても次の瞬間には忘れてしまうタイプだろう。 「だけど久しぶりねえ。まさかまた山口くんに会うなんて、思ってもいなかったわ」 「結婚……か。考えたら、大学を出てすぐ結婚する人も、いるんだよな」 「今年の二月にお見合いしてね、優しそうな人だったから決めちゃったの。なにしろこのご時世でしょう、就職活動もやってみたけど、みんなダメ。アルバイトも面倒くさいし、どうせいつかは結婚するんだから、早いほうがいいと思ったの」 「幸せそうで、よかった」 「うちの旦那ね、朝霞の市役所に勤めてるのよ。出世は無理でも安定はしてるの。もう両親は死んでるし家のローンも終わってる。二人の姉さんも結婚してて、面倒は一切なし。そりゃ歳が三十六で見てくれも冴えないけど、そのぶん浮気の心配もないわけ。顔なんか良くても悪くても、すぐ馴れちゃうしね。一緒に暮らすなら真面目な人が一番だわ」  感想はなく、ぼくは出された紅茶を口へ運ぶ。佳美の旧姓が種田だったか谷田だったか、そのことも確認の必要はなく、ああ、少し甘ずっぱいこの香りはアップルティーだなと、考えていたのは、そんなことだった。 「電話では、詳しく言わなかったけど……」  佳美の解説が終了し、息をつくのを待って、ぼくが言う。 「例の事件は、知ってるよな」 「もちろんよ。友達とも電話で話してた、千秋って火事を起こすようなマヌケじゃなかったのに、人生って、大変だよねとか。そうしたらあれ、放火だって? 今日はもう朝から奇想天外、さっきまでずっとテレビを見てたわ」 「君のところへ取材は来ないのか」 「取材って、テレビとか新聞とか?」 「マスコミが来てると思ったけどな」 「冗談じゃないわ。あたしは大学が千秋と一緒だっただけで、放火とか殺人だとか、まるで関係ないもの。他の子とも話したけど、みんな青天のレキヘキだって、びっくりしてるんだから」  佳美がどう思おうと、マスコミは遠からずこの家にも押しかける。その大沢佳美を事前にリストアップしていたところなんか、さすが水穂も、自分で「関東テレビのエース」と言うだけのことはある。 「おれ、正直に言うと、千秋とつきあった時期があるんだ」 「そりゃそうよね」 「知ってたのか」 「知らなかったけど、関係なければ気にしないでしょう」 「それもそうだ」 「山口くん、仕事は?」 「フリー」 「就職浪人?」 「まあ、そうかな」 「大学の専攻は?」 「日本史」 「そりゃダメよ。今どき史学科なんか出ても、使いものにならないわ」 「まるで、使いものにならない」 「いやな時代よねえ。あたしだって銀行とか証券会社とか、二十もまわったのに二次面接まで。女の子ならこうやって結婚もできるけど、男の子にはプライドだってあるじゃない。困ったからってヘンな会社に勤めたら、世間でゴミあつかいだものね。ほーんと、あたしも女の子で助かったわ」 「で……」 「だけどさあ、千秋とは何がどうして、どうなったのよ。もしかしてあのとき、二人が先に帰ったのは相談ができてたわけ?」 「あのときは偶然さ。駅の近くで行き合って、飲みなおして、それから、なんとなくそうなった」 「そうだったの。そりゃ二人ならお似合いだったけど、それで、最近までつきあってたとか?」 「つきあったのは、二、三ヵ月」 「あら、そう。そりゃそうよね、長くつきあってればあたしでも気がついたものね。千秋って男関係のことは完全黙秘だったけど、まさか処女でもなかったろうし、今度のことも、どうせどこかの男が恨んでやったことなのよね」  佳美が上目づかいに紅茶を口へ運び、皮肉っぽく唇を笑わせる。佳美の口調には死に対する真摯さはなく、千秋への友情も見られない。そういえば千秋とつきあっていたころ、千秋の口からも佳美の名前は聞かなかった。  庭からの風に目をやり、ぼくは意味もなく、隣家の屋根に雀の数をかぞえる。 「君……千秋とは、親友だったはずだけどな」 「あら、千秋がそんなふうに?」 「彼女は君のことを親友だと言っていた」 「へーえ、そうなの」 「ちがうのか」 「答えようがないわよ。そりゃ学生時代は千秋と出歩くことが多かった。だから他人にはそう見えたかも知れない。でもあたしなんか、実際は千秋のお付きみたいなもんだったわ。言ってる意味、分かる?」 「うん……」 「美人が男の子にもてるのは当たり前、あたしだってそんなことに、文句は言わないけどね」 「それほど、千秋、美人だったか」 「スタイルはよかったでしょう」 「まあ、そうだな」 「それにああいうお嬢様タイプって、オジサンには堪らないのよ。大学のときも教授のオジサンたち、ずいぶん熱をあげてたわ」 「ふーん」 「だからね、そういう千秋と四年もつきあえば、こっちもくたびれるでしょう」 「千秋が、君を、見下したとか」 「言葉では言わない。千秋って頭のいい子だったから、口や表情には出さないの。それどころかあたしの誕生日なんか、食事をおごってくれたわ」 「それなら君の思い過ごしだろう」 「男の子には分からないのよ。女って二人いると、奥様と下女に分かれるものなの。千秋のほうが奥様になれば、あたしは下女になるしか仕方ない。意地悪なんかされなくても、気分は落ち込んでしまうの」 「そんなもんかな」 「あたしだってさあ、死人に無茶ウツようなことは言いたくない。でも本心は千秋とつきあいたくなかったの。卒業以来会わなくなって、ほっとしていた。だから火事で死んだことは知ってたけど、お葬式にも行かなかったわ。山形なんて、わざわざ行くには遠すぎるものね」 「山形……」 「千秋の実家って山形県の米沢市でしょう、ちがった? お葬式みたいなもの、普通は実家でやるもんじゃない」  佳美が結婚指輪を光らせて、ひらりと手をふり、その手で二つのカップに紅茶をつぎ分ける。衿元にのぞく胸は意外に豊満だが、ぼくは興味を感じない。千秋に対しても、佳美が言うほど美人だと思わなかったのは、子供のころから水穂の顔を見てきたせいだろう。 「そうか、千秋の実家は、山形か……」 「つきあってたくせに、山口くん、知らなかったの」 「自分のことは話さないやつだった」 「あらーっ、彼氏にも?」 「だから君に聞きに来たんだ」 「千秋もずいぶんな秘密主義よねえ。いくら美人で女王様だからって、ものには限度があるわ。そういえば千秋、あたしにも昔のことは話さなかったけど」  窓の外を汚れた色の黄アゲハが飛んで、塀の外をバイクが悠長に過ぎていく。どこかで犬が哭き、呑気な陽射しが狭い庭に淡々と降りそそぐ。  紅茶に口をつけ、呼吸をととのえて、ぼくは眠くなりそうな景色から目をそらす。 「君、千秋を殺したいほど憎んでいた人間に、心当たりはないか」 「あら、なに言ってるの。今の時代、ストーカーだの殺人オタクだの、腐るほどいるじゃない」 「具体的には?」 「千秋にふられたとか、お金を騙し取られたとか?」 「まあ、そうかな」 「ふられた男の子はたくさんいるでしょう。山口くんだって、ふられたんじゃない?」 「おれのことはいいんだ」 「よくないわよ。あたしのことを親友だとか言うんなら、あたしにだって、山口くんとの関係を言えばいいでしょう。そういうことを秘密にする千秋って、失礼だと思わない?」 「他人に話すのが面倒なこともある」 「千秋が何を考えてたかは知らない。だけど、男の子のことなんか、一度も聞いてないわ。それに千秋ってお金にシビアだったから、貸し借りのトラブルはなかったと思う。バイトもスナックまではやったけど、クラブやキャバクラはやらなかった。実家っていうのがお金持ちらしくてね、お小遣いに不自由はしてなかったはずよ」 「憎んでいたのは、けっきょく、君一人か」 「え……」 「千秋が死んで、君、嬉しそうだものな」  もともと丸い佳美の目が、ガラス玉のように丸くなる。黒目の部分がせわしなく動き、化粧品の匂いも強くなる。黄アゲハがまた窓の前を飛び、テーブルの上をクロヤマアリが一匹、苛々と行きすぎる。 「山口くん、あんた、何を言ってるの」 「君は正直だから、気持ちが顔や声に出てしまう」 「あたしが千秋を憎んでたって?」 「千秋が死んで、ほっとするぐらいにな」 「冗談じゃないわよ。その言い方、あたしが千秋を殺したみたいじゃない」 「その可能性もあったか」 「正気で言ってるの? そりゃ千秋にはうんざりしてたけど、もう卒業して終わったのよ。あたしは安定した収入と生活を手に入れた。この家だって売れば二千万円はする。旦那にも保険をかけてあるし、将来に不安もない。千秋が死んでも生きても、あたしには関係ないことよ」 「君の安定した生活やバラ色の将来を、千秋が、おびやかしたか」 「なんの話よ」 「なんの話か……おれにも分からないけど、君は千秋に秘密を握られていた。秘密なんて、みんな、他人には知られたくないことだものな」  佳美の膝頭が、居心地悪そうに蠢《うごめ》き、結婚指輪がプラチナ色にぼくの神経を刺激する。「君の秘密」などというのはハッタリだったが、案外に的外れでもないらしい。その佳美の秘密がどんなものか、風俗か援助交際か、そんなこと、必要なら水穂が調べればいい。 「誰にだって、他人に知られたくない秘密は、あるさ」  紅茶で唇をしめらせ、視線を庭へ向けて、ぼくが言う。 「誰がどんな秘密をもとうと、他人に迷惑がかからなければそれでいい。ただ現実に千秋が殺されて、おれはその理由が知りたい。興味があるのは君の秘密ではなく、千秋の秘密だ」 「山口くん」  佳美がソファに座りなおして、膝をそろえ、近所の物音に耳を澄ますように目を細める。 「あたしが千秋の事件に関係ないこと、分かってくれる?」 「君は正直な人だものな」 「そりゃあね、あたしだって学生時代は、ちょっと遊んだわ。少しだけハメを外したこともある。でもそんなこと、誰だってするじゃない? 結婚したり就職したりすれば、もう自由に遊べない。学生時代にしかできないことを、あたしだってやってみたかった」 「千秋のことだけど」 「だからね、千秋のことなんか、あたしには分からないのよ。大学時代は他の子よりも仲はよかった。でも千秋って、本心は他人に見せない子だった。授業も真面目に受けたし、友達とも普通につきあった。だから一般的には美人で優等生で、性格にも問題はないように見えた。だけど、なにか、あたし、千秋のことが怖かった」  息をついて、佳美が紅茶をすすり、顎の下を指でなぞる。 「説明はしにくいのよ。さっきも言ったけど、意地悪もされなかったし、迷惑をかけられたこともない。だけど、なんていうか、千秋、心の底が冷たいっていうか、そんな感じの子だった」 「具体的に、なにか?」 「そうじゃないの。だから説明しにくいのよ。たとえば……そうねえ、たとえば目の不自由な人がとなりでころんだら、普通は手を貸すでしょう。でも千秋は、それを黙って見ている。年寄りがコンビニでまごまごしてると、鼻で笑う。それでいて福祉や老人問題では感心するほど正しいことを言うの。そういうちぐはぐなところが、あたしには理解できなかった」  アップルティーの酸味が、ぼくの舌を、ざらりと刺激する。尾崎喬夫が言った千秋のセックスを、ぼくは妄想と片づけた。それなら佳美の言う千秋の冷酷さも、佳美の思い過ごしと無視すればいい。そうは思いながら、不愉快な実感がぼくの背中を寒くする。  塀の外に子供の声が聞こえて、我に返り、カップをテーブルへおく。意外なことに、ぼくは疲れている。  紅茶を足そうとする佳美を手で制し、深呼吸を一つして、腰をあげる。子供の声が高くなり、泣き声に変わって、ゴム底靴の音がばたばたと遠ざかる。  もう聞くこともなく、ぼくは玄関へ向かう。 「テレビや週刊誌が取材に来るだろうけど、今度のこと、深入りしないほうがいいな」 「最初からそのつもりだわよ」  玄関口まで送ってきて、佳美がひらりと手をふる。 「大学時代の友達というだけで、あたし、本当に千秋なんかと関係ないんだもの」 「誰もが君の言葉を信じるとは限らない」 「心配ないって。千秋さえ……ええと、そんなことより、渋谷で一緒に飲んだ栗林くん、どうしてる?」 「田舎へ帰ってデパートに就職した」 「そうなの。あれからあたしたち、二度デートしたのよね」 「知らなかった」 「デートだけでそれ以上はなかったけど……そうなの、栗林くん、田舎へ帰ったの」 「たった二年で、みんな色々だ」 「あたしなんか専業主婦だもんね、来年にはもう子供が生まれるの」 「よかったな」 「だけどさあ、千秋のこと、何か分かったら教えてよね。主婦なんて暇な商売だし、大学のときの友達だって、みんな興味ツツなんだから」 「紅茶、ごちそうさま」  挨拶をして、ぼくはドアを閉める。子供が泣いている住宅街の道を朝霞の駅へ向かう。たった二年で専業主婦になる女もいれば、放火殺人の被害者になる女もいる。大学を卒業して田舎のデパートに就職する男もいれば、先の見えない人生に時間を空費する男もいる。  人間なんて、色々だけど、だけど千秋は、誰に、なぜ殺されたのか。優等生でありながら年寄りに冷酷だったせいか、セックスが激しすぎて男に恨まれたのか、それともやはり、躁病患者の発作的な犯行なのか。世間には「道で目が合った」というだけで人を殺す人間もいるから、今度の事件も、真相はそんなところなのか。  ぼくの頭上を、黄色いアゲハ蝶が舞っていく。畑道から小学生が集団で帰ってくる。陽射しには翳りもなく、ぼくはうんざりと夏色の空をふり仰ぐ。小型飛行機が高い破裂音で飛んで行くのは、近くに自衛隊の基地があるせいか。  アサカ……か。朝の霞《かすみ》なんて、名前だけはきれいな町なのに、畑も家も空気もみんな安っぽい。今別れてきたばかりの佳美の顔を、もうぼくは忘れていた。   I  昨日は気づかなかったが、空にカモメが飛んでいる。かたむいた陽射しがカモメの羽裏をオレンジ色に染め、絹雲のしま模様が秋の気配を思わせる。東京湾も江戸川も近いから、町の上をカモメが飛んで不思議はない。バス通りにはクルマも少なく、古色然とした町並が空気に安堵感を与えてくる。午後の四時で、気温は真夏なみでも、日足はずいぶん早くなっている。  行徳の古い町屋を見物しながら、裏道を抜けて伊勢宿の路地に入る。垣根の青木が昨日より葉を青く見せている。予想していたテレビ局のカメラやレポーターの姿はなく、路地には猫もいない。事件は新聞でも公表され、テレビのワイドショーも騒ぎ始めたのに、この静けさはどうしたことだろう。  不審に思いながらも、ほっとした気分で塀沿いを歩く。格子戸へ向かいかけたぼくの足を塀の破れ目が引き止める。穴から庭内が覗かれ、そこにピンク色のカットソーがうずくまっている。下は昨日と同じカーゴパンツ、髪をポニーテールに結び、背中がいじけた形に拗ねて見える。みかんの背景にはヒマワリが咲いていて、ヒマワリの黄色とみかんのカットソーが鮮やかに調和する。広い庭にはぽつんと石灯籠がおかれ、五葉松やイチイの庭木も殺風景にたそがれる。手入れをすればそれなりの庭園だろうに、今はヒマワリだけが華々しい。  みかんが顔をあげ、塀の破れ目に視線を向ける。一重の目は今日も怒っていて、目を怒らせたまま、ぷいと顔をそむける。悲しくもないのに泣き顔の女の子もいれば、意味もなく笑ってばかりいる女の子もいる。みかんの頭にどんな感情があるのか、ここでぼくが詮索をしても仕方ない。  インタホンに指をかけようとして、ぼくは格子戸の横に狭いすき間を見つける。矩形に色を変えた板目はくぐり戸らしく、庭へは路地からも入れる構造になっている。  一応インタホンを押し、返事のないまま、ぼくはくぐり戸を開ける。みかんは相変わらず庭の南端に屈んでいる。ぼくは黙って、十秒ほどみかんの背中を眺める。それからくぐり戸を入り、みかんの後ろへ歩く。ヒマワリの花が七夕飾りのようにみかんを包み、夕日が庭を飴色に染めあげる。石灯籠の前で黒猫がこちらを見物しているが、人の気配はない。  みかんは口を開かず、ぼくは相手が変わり者であることを思い出し、仕方なく声をかける。 「やあ」 「………」 「お祖母さん、留守か」  ほんの一瞬、みかんのポニーテールがゆれる。それでもみかんは沈黙をつづけ、ぼくは呆れながら横へまわる。そこには小さい池があり、みかんはプラスチックのコップを構えて、偉そうに池を睨んでいる。足元には白い洗面器、袖を肘の上までたくしあげ、表情はなかなか厳《いか》めしい。池には浄水装置も排水口も見当たらず、アオコが浮いて暗緑色に澱んでいる。ボウフラでも飼育するには恰好な池で、いてもドジョウか、ドブ貝ぐらいだろう。  五分ほどみかんと並んで池を睨み、そしてやっと、ぼくは納得する。池の表面に綿埃《わたぼこり》のような影が浮かんでくると、みかんはその影をコップですくい、慎重な手つきで洗面器へ移している。池の底には金魚藻が沈んでいて、意外にもメダカが泳いでいる。ときどき浮かんでくる白い綿埃のようなものは、孵化したばかりの仔メダカだった。 「そうか、メダカの仔か。放っておくと親に食べられるものな」  みかんがコップを持った手を止め、鼻から息を吐く。そしてなんのつもりか、尖った顎をコックンとうなずかせる。みかんの予想外な反応に、ぼくは感動する。 「なーんだ、聞こえてるのか」 「当然よ」 「お祖母さんは?」 「買い物」 「君、ひとりか」 「だから、なに」 「べつに……」  どうも、やはり変わった子で、口調にも取りつく島がない。それでも一応は喋ったから、昨日よりは前進か。ぼくも子供のころメダカを飼ったことがあって、そんな経験が、思わぬところで役に立つ。 「姉さんのこと、大変だったな」 「あんたに関係ないわ」 「それもそうだ」 「昨夜も来たでしょう、今日はなに?」 「あれから家へ帰って思い出した」 「なにを」 「仏壇に千秋のお骨《こつ》がなかった。もしかしたら……」  みかんが面倒臭そうに腰をあげて、ぷいと縁側へ歩く。細い腰と肩には気弱な孤独が見えて、怒るべきか慰めるべきか、ぼくを困らせる。十六歳といえば高校の一年か二年、顔は生意気でも分類的にはまだ子供なのだ。  ぼくはヒマワリの氾濫に圧倒されたまま、しばらく長い影に身をひたす。それから腰をあげて、縁側へ向かう。みかんは廊下の端に尻をのせていて、腕を組んで洗面器を覗いている。 「餌は卵の黄身を爪の先ぐらいやればいい。餌をやりすぎると水が汚れる。メダカにとっては家とトイレが一緒だから、清潔にしなくちゃな」 「………」 「水は汲みおきにして、一日おきに取り替えるんだ」 「知ってるわよ」 「そうか、よかった」 「チアキのお骨はお墓に入ってるわ」 「ああ、そう」 「初七日の日に納骨したの」 「早いな」 「わたしのせいじゃない、このへんでは昔から決まってるの」  洗面器をはさんで、ぼくは廊下の端に腰をおろす。ヒマワリが熱く目に映る。納骨なんて一年がすぎてから、と思っていたのに、葬送の習慣も土地柄や宗旨でちがうのか。横山タネ子の「千秋の実父は山形で生きている」という言葉に、納骨のトラブルを心配したが、そこまでは杞憂だったらしい。  ふり返ると、仏壇にはロウソクが灯っていて、写真の千秋が冷静な目で縁側を見つめている。千秋の目はいつも冷静で、笑ったときも表情を変えなかった。そんな千秋と、目も鼻も顔の輪郭も、みかんの顔はまるで似ていない。無理に共通点を探せば色の白さぐらいだが、可笑しいのは額に五十円玉ほどの青痣《あおあざ》があることで、どこかで転んだか、ドアにでもぶつかったか、その痣がなんとなくみかんの人生を物語る。 「あんた、お骨の……」  わざとらしく反方《そつぽ》を向き、腹話術のような口調で、みかんが言う。 「そんなことのために、わざわざ来たの」 「悪いか」 「お節介ね」 「千秋には義理がある」 「ふられたくせに」 「君の知ったことじゃないさ」 「チアキなんか性格が悪くて無神経で、男なんかゴミみたいに思ってたんだから」  死んだ姉に対して、妹のくせに、ずいぶんな台詞を吐く。これでは横山タネ子が『変わり者』と嘆くのも、無理はないか。  石灯籠の前にいた黒猫が、のっそりと歩いて池を覗き込む。猫は小首をかしげながら、またのっそりとヒマワリの向こうへ消えていく。 「なあ、今朝の新聞、読んだか」 「………」 「テレビも騒ぎ始めた、またしばらく面倒だよな」 「関係ないわ」 「マスコミが煩《うるさ》いだろう」 「警察に言って追い払った、遺族には人権があるもの」 「そういうもんか」 「でもチアキは自業自得、あれだけ性格が悪ければ、いつかは誰かに殺された」  みかんの唇はほとんど動かず、表情も見えにくい。細い指は苛立って、爪先に引っかけたサンダルが神経質にゆれ動く。 「君、姉さんに恨みでもあったのか」 「ない」 「ただ千秋の性格が悪かったから?」 「そう」 「千秋の墓は?」 「縁生寺」 「縁生寺って」 「すぐそこ」 「すぐ、どこ」 「そこの道をちょっと行って、それからもう少し行って、左へ曲がったところ」  みかんの腕組みがほどけて、ポニーテールがゆれる。鼻梁のうすい鼻から、ふんと息がこぼれる。手が届けばゲンコツをくれてやるところだが、状況を考慮して、ぼくは我慢する。 「散歩に行くから、ついでに教えてあげる」 「見かけよりは親切だな」 「ただのついでよ」 「おれのほうも、ついでだ」 「あんたなんか……」 「なんだよ」 「チアキに未練があるくせに」  みかんが下唇をかんで、目尻をつりあげる。華奢な肩が怒ったように尖る。さっきの黒猫が戻ってきて、池の前から縁側を見あげてくる。 「戸締りをするわ」 「うん」 「外で待ってて」 「分かった」 「でも今度から、勝手に庭へ入らないで」  口のなかで、はいはいと返事をし、ぼくは腰をあげて背伸びをする。黒猫が一瞬警戒の姿勢を示したが、池の前からは動かない。日はかたむいても西の空は明るく、風がヒマワリの葉をやわらかくもてあそぶ。ヒマワリにメダカにご近所の猫に、これで千秋の死がなければ、ずいぶん平和な風景だった。  格子戸の前に、みかんは五分でやって来た。足にピンク色のビニールサンダルをはき、手には二本のヒマワリを持っている。  みかんは黙々と路地を歩き、本行徳の一角にぼくを案内した。小さい寺が団地状に敷地を接しているのは、江戸の寺々が競って支店を出した名残りだろう。葬儀から納骨までの期間が短いのは、その時代からの風習か。 〔縁生寺〕は門柱に寺名が刻まれているだけの、庫裏のない無住寺だった。境内には賽銭箱の飾りのような本殿と、プレハブの物置が鎮座しているだけ。山門を入るとすぐ墓地が広がり、古い墓石にまじって白御影や黒御影の新しい墓石が肩を寄せている。どの墓域も畳一枚ほどに小さく、腐って折れた卒塔婆もあり、ドライフラワーになった花もあり、一見墓の裏長屋を思わせる。江戸川方向の空にはカモメが舞って、高速道路からクルマの排気音が地鳴りのように響いてくる。遊ぶ子供はなく、境内にいるのはみかんとぼくの二人だけだった。 〔安彦家〕の墓所は本殿の東裏にあった。区割りの広さは両隣の倍ほどもあり、大谷石の墓石には苔色の屋根がかぶっている。裏側は隣地のブロック塀で、枝高くムクゲの花が覗いている。その向こうの笹藪へちりちりと風が吹きわたる。花筒にはしおれかけた菊が二束、線香皿にはひとかたまりの灰、納骨は初七日の日だったというから、まだ四、五日前のことだろう。ここ十日ほど、東京には雨が降っていない。  みかんが花筒へ二本のヒマワリを差し、髪に挿していた線香を一本、ひょいとぼくに突きつける。ぼくが受け取り、みかんがライターに火をつける。千秋に対して非難がましい台詞を吐いたくせに、みかんは花と線香を用意している。  ライターの火を線香に移し、みかんと場所を入れかえる。受皿に線香をそなえ、墓に手を合わせる。古い苔むした墓石に千秋の匂いはなく、墓誌に刻まれた『若秋院積福大姉』という戒名も空々しい。墓石の上をテントウ虫が歩き、真新しい卒塔婆を風が微妙にゆすっていく。墓地にもう陽は射さず、どこかでカラスばかりがやかましい。  顔をあげると、みかんは縁石に腰をおろし、膝の上で呑気に頬杖をついている。 「君は、お参りをしないのか」 「チアキなんかにお参りしたくない」 「ふーん、そうか」 「あんた、チアキとはどういう関係よ」 「お祖母さんに話した」 「聞いたわ」 「それなら、そのとおりだ」 「寝たの」 「子供には関係ない」 「不潔ね」 「考え方の問題さ」 「ああいうことをするのは気持ちが不潔だからよ。チアキなんかと寝たら、あんたもそのうち殺されるわ」  鼻の先で息をつき、パンツのサイドポケットから、みかんがタバコを取り出す。 「君、学校へ行かないんだってな」 「わたしの勝手よ」 「毎日なにをしてるんだ」 「暇つぶし」 「暇、つぶれるか」 「人生なんて毎日が死ぬまでの暇つぶしよ」 「君の人生観は君の勝手だけど、千秋のこと、聞かせてくれるか」  みかんがタバコに火をつけ、唇をすぼめて、ふっと煙を吹く。 「チアキのことって、なに」 「殺されたんだから犯人がいる」 「わたしじゃないわ」 「君は千秋のことを悪く言うけど、理由があるのか」 「嫌いなだけ」 「嫌いな理由は?」 「さっきも言った」 「千秋の性格、そんなに悪かったか」 「寝たくせに」 「寝たって分からないものは分からない」 「それがチアキの性格よ。表面は素直な優等生でも、本当は意地悪で冷たいの。男って、みんなチアキの見かけに騙されるの」  風がまわってきて、ぼくの顔にタバコの煙がかかる。その煙を息でみかんのほうへ吹き返す。みかんがタバコを足元に捨て、ぺたんとサンダルで踏みつぶす。  墓石からテントウ虫が飛びたち、大回りに弧を描いて、ぶーんとムクゲの向こうへ飛んで行く。 「チアキはね、高校のとき、男の子を殺したの」 「なんの話だ」 「それだけのことよ」 「話が見えないな」 「三角関係とか四角関係とか、たくさんつくって、それで、一人の男の子を自殺させたの。行徳ではみんな知ってる。男の子と遊びすぎてチアキはこの町に住めなくなったの」  みかんの口調に抑揚はなく、細い指だけが拗ねたように反りかえる。今まで気づかなかったが、隣地のどこかでヒグラシが鳴いている。  千秋は男と遊びすぎて行徳に住めなくなった。みかんの言葉を一割だけ信じれば、千秋のアパート暮らしにも納得はいく。古い町の煩雑さに辟易し、東京での自由な生活を望んだ。たまにはナンパもされたかったろうし、男を部屋にも泊めてみたかった。しかしそれが悪いというなら、東京で暮らす女子大生は、みんな犯罪者になってしまう。 「千秋が男を自殺させたという話……」  留めていた息を吐き、ヒグラシの鳴く方向へ目をやって、ぼくが言う。 「具体的にはどういうことだ」 「具体的な、なに」 「男との関係さ」 「関係があったから相手の人は自殺したの」 「一方的に思い込んで、相手にされなくて、腹いせに自殺する人間もいる」 「チアキが悪かったの、みんなそう言ってる」 「みんなって」 「自殺した人の妹とか、その友達とか」 「みんながそうやって君をいじめたのか。千秋のせいでいじめられたから、君は千秋を憎んだのか」 「関係ない。チアキはもっとひどいことをした」 「どんな」 「チアキは……」  みかんが足で地面をこすり、背中を丸くして、顎を突き出す。 「チアキは親父を殺したの」 「うん?」 「チアキは親父のことが嫌いで、それで、殺したの」 「親父さんの死は事故だろう」 「みんなは事故だと言うけど、わたしは知ってる。親父はお酒を飲んで海なんかに落ちない。あのときはチアキが親父を突き落としたの」 「夜釣りは千秋も一緒だったのか」 「チアキは家にいた」 「それなら親父さんを突き落とせない」 「魔術を使ったの」 「ああ、そう」 「チアキは魔術を使って、あの日、親父を海に突き落としたの。チアキはそういうこと、平気でやる性格だったの」  線香受けから灰がこぼれて、地面に落ちる。灰が風に飛び、花筒のヒマワリがゆれ、向こうの笹藪がざわりと波をうつ。夕焼けは奇妙に朱《あか》く、足元をイシムカデがせわしなく這いすぎる。  みかんが膝を抱えたまま、またタバコに火をつける。可笑しさがぼくの肩から緊張を抜いていく。みかんの風変わりさに好奇心を感じても、魔術は限度を超えている。魔術も限度を超えているし、みかんの風変わりさも、限度を超えている。 「ヒグラシが鳴いてるな」 「………」 「やっぱり、秋か」 「………」 「それとも行徳が、田舎のせいかな」  膝を抱えたまま、みかんが寒そうにタバコを吹かす。妹にまでこんな妄想で非難されたら、なるほど千秋も、家を離れるしか仕方なかったろう。 「風が出てきた。海が近いから、風が強いのかも知れないな」  みかんの白い顔を見おろしながら、ぼくは腰をあげる。背伸びをしてもう一度〔安彦家〕の墓石を返り見る。刻まれた文字は肉太の楷書体で、その彫り溝にも苔が薄青く張りついている。安彦家の先祖は三代前に米沢から出てきたというから、墓も明治時代の建立だろう。墓誌には十人ほどの碑銘がつづき、千秋と清造が肩を並べている。生きているとき、二人の間にどんな葛藤があったにせよ、死んでしまえば、ただの戒名になる。  もぞもぞと尻をあげ、指の先から、みかんがタバコをはじく。 「あんた、わたしのことを信じないのね」 「姉さんが死んで、君は混乱してる」 「わたしのこと、頭がヘンだと思ってる」 「ああ、そうか」 「なによ」 「君の前歯、欠けてるんだな」  みかんの目尻がつり上がって、眼球が二倍ほどにふくらみ、蒼白だった顔が桜色に変わる。口がすぐ両手でふさがれ、そのふさがれた口から、唸り声がもれる。白くてきれいなみかんの歯列からは前歯が一本、見事に抜け落ちている。 「あんた、見たわね」 「ごめん」 「わたしのせいじゃないのに」 「もちろん、そうだ」 「電車が悪いの。わたしが乗ろうとしたとき、ドアが閉まったの」 「それは、電車が悪いな」 「みんなわたしのことをバカにする。チアキも電車もお祖母ちゃんも、それからあんたも、みんな大嫌い」  みかんの見開かれた目に凸レンズのような涙が溜まり、その涙にムクゲの花が白く反射する。みかんがいつも反方《そつぽ》を向き、腹話術のような喋り方をしていたのは抜けた前歯のせい、そして額の青痣も、電車のドアが原因なのだろう。 「だけどなあ、なにも……」  言いかけたとき、みかんが、バネ人形のように飛びさがる。みかんは墓石の間に突進し、声をかける間もなく、十秒後には、もう姿を消している。ぼくの目には飛行機雲のような残像が残り、みかんがおいていった体臭が、さらさらと風にまぎれていく。  ぼくは舌打ちをして千秋の墓をふり返り、みかんのはじいたタバコの吸止を、靴の底で踏みつぶす。千秋が黙り込んでいた千秋の過去が、おぼろげな輪郭をつくり始める。  墓地を山門の方向へ歩きだしながら、やっぱり私立探偵は無理かと、ぼくは風に吹かれる髪をかきあげる。   J  三日も雨がつづくと、やはりうんざりする。うすい地雨が音もなく降りつづき、葡萄の葉も耐えきれずに雨滴をしたたらす。暑気は去って呼吸は楽になっても、今度は湿度がわずらわしい。洗足池に人声は聞こえず、開け放った窓からたまに羽虫が出入りする。母の暁子は今日も外出して、なま乾きの洗濯物が居間とキッチンの境にぶらさがる。  ぼくは居間のソファに両足を投げ出して、テレビのワイドショーを眺めている。画面を占領しているのは名古屋で起きた小学生の首吊り殺人で、この事件が四日前に発生し、千秋の事件は一気に色あせた。行方不明だった小学二年の男児が、校庭の欅に全裸の首吊り死体で発見されたのだ。被害者が小学生で、親は地元の資産家、そんなことでワイドショーが沸騰した。千秋の事件は片隅に追いやられ、無名のソーシャルワーカーがアパートの一室で焼き殺された事件になど、誰も注意を払わなくなった。千秋事件の捜査が進捗しているのか、停滞しているのか、状況はぼくにも分からない。  時間は四時にちかく、雨とテレビを見くらべながら、ぼくは不精に欠伸をする。水穂は遊軍で名古屋へ出掛け、ぼくも渡されたリスト分は消化した。千秋の家庭は予想以上に複雑だった、男関係も見かけよりは派手だった、仕事面では担当患者とトラブルを抱えていた。それらの事実は判明したが、あとがつづかない。妹のみかんが姉に遺恨をもっていたとして、まさかみかんが、千秋殺しの犯人とも思えない。それなら千秋に惚れた躁病患者の、発作的犯行か。それとも尾崎喬夫の自棄《やけ》による凶行か。様々な人間が千秋を恨み、あるいは大沢佳美のように過去の秘密を握られ、千秋の周囲は波立っていた。しかし家庭内の葛藤は千秋だけの責任ではないし、尾崎喬夫との関係だって、世間にはいくらでも例がある。浮気や不倫でいちいち殺されていたら、姉の水穂なんか、高校を卒業するまで生きてはいられなかった。  ソファの上で寝返りをうったとき、テレビの画面が変わって、耳に香坂司郎という名前がひっかかる。香坂は四十歳ちかいトレンディードラマ俳優で、ぼくも顔ぐらいは知っている。ワイドショーは写真週刊誌の記事を取りあげ、「香坂司郎と二十一歳のモデルが親密交際」と絶叫する。誰が誰と親密な交際をしようと、絶叫するほどの事件でもないだろうに、世間はぼく以上に暇らしい。香坂はテレビレポーターの取材にノーコメントを決めているが、モデルのほうは香坂との交際を認め、結婚の意思もあるという。  私生活までマスコミに売って、タレント商売もご苦労だよな、と思ったとき、香坂司郎という名前について、ぼくに記憶がよみがえる。たんにトレンディードラマの俳優というだけでなく、もっと身近なところで、誰かに、その名前を聞いたことがある。 「あ……」  そのとき電話が鳴って、ぼくは思考を中断させる。電話をかけてきたのは、緊張した若い声の、知らない男だった。 「もしもし、山口さんのお宅でしょうか」 「はい」 「私、関東テレビ報道局の寺西といいます」 「あ、どうも」 「失礼ですが、そちらは山口水穂さんの……」 「弟です」 「そうですか。実は水穂さんが倒れて、緊急入院しました」 「はあ?」 「先ほど救急車で病院へ運ばれたんです」 「それは……」 「もしもし?」 「あ、あの、はい」 「病院は麻布の富士見総合病院です」 「麻布って、名古屋の?」 「東京ですよ」 「でも……」 「水穂さんは名古屋から帰ってきて、局の玄関で倒れました」 「それは、大変だ」 「まだ詳しい容体は分かりません。いずれにしてもどなたか、こちらへお出でになれませんか」 「ぼくが、すぐ、行きます。麻布の富士見産婦人科ですか」 「富士見総合病院です。地下鉄の六本木駅へ来ると、改札口の前に案内板があります」 「分かりました。これから……ええと、とにかく、すぐ家を出ます。わざわざ、どうも、お疲れさまでした」  混乱しながら、六本木についたときには、もう五時をすぎていた。煙色の地雨が街の喧噪をやわらげ、降りつづく雨がアスファルトの土埃を流し去る。ぼくは外苑東通りから鳥居坂下までくだり、傘の波をよけながら仙台坂方向へ歩く。  寺西という男に教えられた〔富士見総合病院〕は、仙台坂につきあたって信号を越えた、南麻布側にあった。三方をホテルやマンションに囲まれた袋小路で、建物も予想外に古めかしい。コンクリートの玄関柱には鬱蒼とツタがからまり、看板の蛍光灯もチック状の明滅をくり返す。水穂も好きでこのタイプの病院は選ばないから、なるほど、本物の病気なのだろう。  受付で場所をたずね、エレベータで入院患者病棟へあがる。窓のない内廊下に夕食の配膳カートがおかれ、開け放った病室ドアからは雑居房的な活気が流れ出す。その廊下をつきあたりまで進み、水穂の名札が掛かったドアを開ける。中はグレーの壁紙を貼った細長い部屋で、ベッドにテーブルにこぢんまりした応接セットに、ドアの横には冷蔵庫とテレビが鎮座する。差額ベッドというやつらしく、衝立の向こうには流し台とトイレがあるらしい。  ぼくの顔を見て、応接セットから、痩せて背の高い男が腰をあげる。ぼくは会釈をしてベッドへ視線を向ける。水穂は顎の下までシーツをかぶり、投げ出した左腕に点滴のチューブをつないでいる。目はとじられ、化粧はそのままに、セミロングの髪がふんわりと艶《なまめ》かしい。意識があるのかないのか、眠っているのか起きているのか、静かに呼吸だけをくり返す。  男がメガネを光らせて、小腰をかがめる。思い詰めたような顔で名刺をさし出す。名刺には〔関東テレビ報道部アシスタントディレクター 寺西京之介〕と書かれている。 「お世話になります」  名刺をポケットにしまって、ぼくが言う。 「姉の容体は、どうなんでしょう」 「命に別状はないそうです」 「よかった」 「医者の話では、過労とストレスによる突発性の脳貧血ということです」 「過労とストレスで、脳貧血……」 「この三日間、ほとんど寝ずの取材でした」 「名古屋の事件ですか」 「本来は系列局の仕事なのに、なにしろ……」 「姉貴は目立つ仕事が好きだから」 「つまり、まあ、そういうことです。僕も心配はしてたんです」 「でも、よかった」 「え、ああ、まあ、そうですね」 「姉貴も宇宙人でないことが分かって、本当によかった」  ベッドのほうで、影が動き、水穂が鼻声をふるわせる。 「誰が宇宙人ですって?」 「なーんだ、起きてたのか」 「冗談じゃないわ。私は部長命令で名古屋へ飛んで、仕方なく働いたのよ。名古屋なんて饂飩《うどん》屋ばっかり、久しぶりに砂場のざる蕎麦が食べられると思ってたら、気のきかないバカがこんな病院へ運んできたの。お蕎麦どころか、もう二時間も点滴よ。鎮静剤を打たれて頭はぼんやり、それに肩と腰が痛くて、気がついたときは死んでるかと思ったわ」  口調も高圧的で、論法も正しい水穂のそれ。憮然としながらも、ぼくはほっとする。過労やストレス自体が似合わないのに、救急車だの入院だの、いくらなんでも、水穂には不似合いすぎる。 「肩と腰は倒れたときにコンクリートで打ったんです」  青ざめた顔のまま、姿勢を正して寺西が言う。 「すべて僕の責任です。そばにいたのに、倒れる水穂さんを助けられなかった。僕がヘッドホンさえ外していたら、こんなことにはならなかった。水穂さんが顔を怪我しなかったことだけが、不幸中の幸いです」 「あら、寺西くん、まだいたの」 「今日は最後まで付き添うようにと、部長に言われてます」 「ずいぶんいい度胸じゃない」 「いえ、僕の、責任ですから」 「私の顔に傷でもついたら、あなた今ごろ、刑務所なのよ」 「分かってます」 「どこが分かってるのよ。分かってたら、どうしてこんな病院へ連れてきたのよ」 「それは、救急車が……」 「寺西くんだって救急車に乗ったんでしょう。局の近くなら大学の付属病院も、私に相応《ふさわ》しいお洒落な病院もあったじゃない。こんなところへ入院したら、弟に合わせる顔がないわ」 「姉さん、おれは、気にしない」 「私のほうが気にするのよ。そのダサイ冷蔵庫とテレビ、見た? 冷蔵庫なんかモーターの音がうるさいし、テレビにはビデオもついてないのよ」 「ホテルじゃないしさ」 「当たり前よ。こんなホテルで一万四千円も取ったら、詐欺で訴えられるわ」 「個室代、一万四千円もするの」 「だって広也、私が大衆と同じ雑居部屋へは入れないでしょう。三日も入院するんだから、局長だってお見舞いに来る、ファンの期待も裏切れないわ」 「入院は三日か」 「精密検査をするとかいってね。ウザッタイ気もするけど、私も疲れたし、ついでに休んでいくわ」 「姉さんも、いろいろ、苦労があるしな」 「疲れただけよ」 「本当に?」 「あんた、何が言いたいの」 「テレビで香坂司郎のことを見た」  枕に左の頬を押しつけたまま、水穂がくっと息を飲む。動く右手をまさぐって、シーツの端をたくしあげる。 「寺西くん、そんなところに、いつまで立ってるのよ」 「はい、いえ、その……」 「あなたの陰気な顔が見えてたら、弟と話ができないでしょう。パチンコ屋でもソープランドでも、好きなところへ消えちゃいなさいよ」  口を半分開けて、寺西がため息をつく。寺西は悲しそうな目でベッドを見おろし、肩を落として病室を出ていく。いくら後輩でもずいぶんな扱い方で、水穂は脳貧血のほかに、ヒステリーも併発しているらしい。 「姉さん、ちょっと失礼じゃないのか」 「構わないのよ、あんなやつ……」  水穂がシーツをおろして、顎をうわ向け、額のほつれ毛を指でかきあげる。ファンデーションはいい仕事をしているが、やはり顔は青白い。 「だけど広也、他人のいるところで香坂の名前を言わないでよ」 「写真週刊誌のこと、本当なんだ」 「だから名古屋から帰ってきたの。いくらなんでも、ひどいと思わない? 香坂なんて、先週までは私と結婚するとか言ってたのに」 「芸能人だものな」 「相手は私よ、そのへんのバカ女と一緒にしないでよ。私だって香坂なら釣り合いは取れるし、本気で結婚を考えてたんだから」 「それなら早く分かって、よかった」 「私のプライドはどうするのよ。あんな小便臭いモデルに油揚げをさらわれて、指をくわえてろって言うの」 「週刊誌の記事が事実とは限らない」 「香坂に連絡がとれないのよ、ケイタイも番号を変えたらしい。あの記事が嘘なら、向こうから電話してくるはずでしょう。こっちは昨夜から自宅へも事務所へも電話してるのに、シカトを決め込んで、あいつ、私から逃げる気でいるのよ」 「それで貧血か」 「局へついたら突然気が遠くなったの。徹夜がつづいたことも事実、香坂のことで頭に来たのも事実……自分でも分かってるけど、私、神経が繊細すぎるのよね」  ドアが開いて、太った看護婦が部屋に入ってくる。看護婦はベッドの横まで進み、黙って点滴器具の始末を始める。ベッドへ屈み込んだその後ろ姿は、飢えた羊が牧草を食っているように見える。  点滴の器具をがらがら押して、看護婦が出ていく。チューブから解放された水穂がベッドに身を起こす。衣装は浴衣に似た入院着で、開いた襟が首の細さをきわだたせる。 「姉さん、窓の外に東京タワーが見える」  日は沈みきり、暗緑色にけぶった夜景に東京タワーがオレンジ色にそびえ立つ。一万四千円の個室料金は法外でも、窓の景色が利子を払っている。 「東京タワーなんか……」 「でも脳貧血だけで、よかった」 「香坂も甘いわ。私から逃げきれると思ったら大間違いよ」 「姉さん、冗談じゃなく、休めよ」 「広也に私の気持ちは分からないわ。私は関東テレビの山口水穂なのよ。遠藤京子を蹴落とせば、キャスターの道だって開けてくる。局だってファンだって、みんな私の味方なんだから」 「それならなおさら、騒がないほうがいい」 「だって……」 「香坂司郎ぐらいの役者とトラブルを起こしたら、姉さんのキャリアに疵《きず》がつく」 「だって、私にだって、プライドがあるじゃない」 「姉さんにはプライド以上に知性と教養があるだろう。それにセールスポイントはクールな美貌だし、へたに騒いだらファンががっかりする」 「そりゃあ、そういうことも、あるけど」 「もともと香坂なんかに姉さんはもったいない。姉さんぐらいの美人なら、アメリカの大統領とだって不倫ができる」 「それ、どういう意味よ」 「意味はないけどさ。とにかく今は騒がないで、休んだほうがいい。千秋の事件も行き詰まってるわけだし」  水穂がシーツからだるそうに足を抜き、ベッドをおりてトイレへ歩く。白い入院着は丈が膝上までしかなく、ぼく以外の男ならたぶん、平常心を乱される。  トイレから戻ってきて応接セットの椅子に腰をおろし、背伸びをして水穂が窓の外に視線を向ける。 「なるほどねえ、幽霊が出そうな病院だけど、夜景は許せるわね」 「入院も三日だけだしな」 「時間は有効に使うわ」 「ゆっくり休めばいいさ」 「なに言ってるの。わざわざ名古屋から帰ってきて、寝てばかりいられないわよ」 「忙しい性格だよな」 「あんたも鈍い男ねえ、放火殺人のほうにも動きがあったから、私は帰ってきたの」 「………」 「名古屋の事件なんて騒ぎは大きいけど、構図は単純なのよ。犯人は精神に異常のある若い男、まだ報道されてないだけで、警察も容疑者を絞り込んでる。ここだけの話、もう容疑者の名前も割れてるわ」 「本当かよ」 「名古屋市の天白区に住む若い男よ。改造エアガンで鳩を撃ったり、鎌で猫の足を切り落としたり、中学生のときは犬の首をしばって、生きたまま鉄棒からぶらさげてる。その手口が今度の事件とそっくりなの」 「困ったもんだ」 「だから名古屋の事件は終わったようなもの。テレビは当分騒ぐだろうけど、事件として面白いのはこっちのほうよ」 「姉さん、まさか……」 「まさか、なに」 「まさか、これ、仮病か」 「それほど役者じゃないわ。局へ帰ったとき、目眩がしたのは本当よ」 「目眩が、な」 「世間の目が名古屋へ行ってて、こっちには好都合なの。一度は遠藤京子に出し抜かれたけど、見てなさい、ここでスクープを飛ばして、あんな女、ぜったい関東テレビから追い出してやるわ」  腕を組んで、水穂が息を吐き、椅子の背に深くふんぞり返る。たしかに顔色は悪いが、口の端は笑っている。貧血は本物なのか、はたして入院まで必要なのか、姉弟ながら、水穂の正体は分からない。 「ええと、姉さん」  肩の力を抜き、水穂の横顔を眺めながら、ぼくが言う。 「千秋の事件に、動きというのは?」 「尾崎喬夫が失踪したの」 「はあ?」 「あんたが会った尾崎喬夫よ。三日前にマンションから姿を消したまま、行方不明。捜査本部が泡を食って探してるわ」 「要するに、どういうこと」 「素人みたいなことを言わないでよ」 「おれ、素人だもの」 「殺人事件の容疑者が警察の前から姿を消せば、理由は分かるでしょう」 「つまり、犯人は、尾崎か」 「自分で罪を認めたようなものよね」 「家庭も仕事も失って、千秋を、憎んではいたらしい」 「エリートが挫折すると始末が悪いわ。事件の前から被害者のことは奥さんに知られていて、家庭も仕事もうまくいかなかった。もしかしたら尾崎、千秋さんと無理心中でも考えてたんじゃないかしら」 「心中のつもりが、千秋だけ殺してしまったのか」 「ありがちなことよ。殺人というのは、ある意味ではみんな心中のようなものなの。相手を殺して、その結果、自分も社会から抹殺される。殺人も心中も深層心理に自己抹殺願望がひそんでいるの」  ぼくが尾崎のマンションを訪ねたとき、たしかに尾崎は憔悴し、酒に溺れていた。人格も上品なものとは思われず、ぼくの勘でも、尾崎喬夫が千秋殺しの犯人であることに、違和感はない。自分が疑われていることを知っていて、姿を隠すのは、水穂の言うとおり、尾崎も罪を認めたようなものだろう。  水穂が足を組んで、茶色い病院スリッパを、重そうにゆする。 「あんたを含めて、千秋さんも男を見る目がなかったわ。男遊びは仕方ないとして、もっとお洒落にやらなくちゃねえ」  姉さんみたいにな、と言いかけて、ぼくは言葉を飲む。 「尾崎の行方、本当に分からないのか」 「親兄弟とか奥さんの実家とか、警察がぴったりマークしてる。銀行の口座は奥さんに押さえられて、現金は大して持ってないという。いつまで逃げまわれるか、時間の問題だわ」 「自棄をおこして自殺でもしないかな」 「その気なら自分のマンションで死んでるわよ。女に未練たらしい男は人生にも未練たらしいものなの」 「犯人が尾崎で決まりなら、おれのバイトは終わりだ」 「それはそうだけど、ちょっと……向こうもひっかかる」 「向こうって」 「広也が調べた躁病の患者」 「あの、向こうか」 「元高校の体育教師で、名前を家田浩二とかいうらしい。二十八歳で独身、この家田という男、二年前に婦女暴行の前歴があってね、そのときの精神鑑定で躁病と診断されたから、起訴猶予で治療措置扱いになったの。病院では快復期だったというけど、快復期ならソーシャルワーカーに付きまとわないでしょう。ストーキングとか婦女暴行とか、この手合いはけっきょく、同じ犯行をくり返すものなのよ」 「家田という患者のアリバイは?」 「事件の日は外泊許可を取って、兄弟の家に泊まることになっていたの。でも実際は泊まらずに、兄弟の家にも行ってない。本人は朝まで歌舞伎町をうろついてたと言うけど、裏は取れないらしい。もっともアリバイがあいまいなのは、尾崎喬夫も同じだけどね」 「姉さんは家田犯人説か」 「犯人は尾崎喬夫よ。でも家田もひっかかる。名古屋の例もあるし、一見複雑に見える事件も、実際は精神異常者による単純な犯行が多いものなの」 「どっちにしてもおれのバイトは終わりだ」 「千秋さんの父親の件も、問題はなかったしね」 「あ……忘れてた」 「千葉県警に手をまわして調べたわ。でもあのときの溺死は、本当にただの事故だった。他にも防波堤で夜釣りの人がいてね、清造という人が立ちあがったとき、足がふらついて海に落ちたところを目撃してるの。司法解剖はされてないけど、事故であることは間違いないわ」 「魔術で突き落としたのなら証拠は残らないしな」 「なんのこと?」 「こっちの話さ。千秋も分かりにくい女だったけど、まさか魔術までは使わない」  肩をすくめてぼくの顔を覗き、コメントは出さず、水穂がゆっくりとスリッパの足を組みかえる。白い下肢に淡く脛毛が浮いて見え、脱毛の余裕がなかったことが、名古屋での苦労を偲ばせる。 「まあね、犯人が尾崎でも家田でも、私の本番はこれからだわ」  水穂が思い出したように腰をあげ、ベッド際へ歩いて、エルメスのハンドバッグからヴィトンの財布を取り出す。 「広也、どこかでプリペイドのケイタイを買ってきて」  ぼくに五枚の一万円札を渡し、水穂が元の椅子に腰をおろす。 「入院中は禁止だとかいって、没収されたのよ。退院するまでだから安物でいいわ」 「禁止というなら、禁止なんだろう」 「寺西みたいなことを言わないでよ。あいつったらバカまじめで、私の命令を聞かないの。ケイタイがなければ情報収集ができない。こんな部屋で一万四千円も取るんだから、本当はパソコンだって完備しておくべきよねえ」  意見を言ったところで、聞き入れる水穂ではなく、ぼくはよっこらしょと腰をあげる。貧血もインチキ臭いし、心配しただけ損をした気分だったが、もしかしたら水穂は、本当に宇宙人なのかも知れない。  ぶらりとドアへ歩き、ふり返って、ぼくが言う。 「姉さん、買い物はケイタイだけじゃないだろう」 「リバンツァのネグリジェもお願い」 「なんの……」 「リバンツァというブランドよ。銀座へ行けばデパートで売ってるわ」 「リバンツァのネグリジェ、な」 「クレンジングクリームにローズオイル入りのフェイスパックに、あと、寝酒用にバーボンも頼むわ。着替えの下着も必要だけど、それは寺西に買わせる。あいつ、私の下着なんか買わせてやったら、鼻血を出して喜ぶわ」  寺西というADの顔を、気の毒に思い出しながら、ぼくはドアを押して病室を出る。中廊下には配膳のカートがせわしなく行き交い、空調が悪いのか、空気はカビ臭くしけっている。水穂の救急車事件には恐れ入ったが、千秋の事件には目処《めど》がたって、とりあえずぼくは肩の荷をおろす。これでアルバイトの探偵もお役ご免、失踪中の尾崎喬夫が見つかれば、どんな形にせよ、事件には|けり《ヽヽ》がつく。  配膳カートをよけて、エレベータへ歩きながら、ぼくは忘れていたことを思い出した。朝から家を出ているお袋に、水穂の件で、まだ連絡を取っていなかったのだ。   K  美波は仕事机に向かって、パース用紙に筆を走らせている。窓には新都心のビルが飴色にけぶり、首都高速の照明が雨を水平方向に切っていく。時間は十一時をすぎて、目黒通りからもクルマの渋滞音が消えている。  ぼくはキッチンのガス台に向かい、タコ焼き風お好み焼きをつくっている。冷蔵庫にはなぜか刺し身用のタコがあって、宅配ピザのかわりにぼくがお好み焼きの制作をうけ負った。まず小麦粉を水にとき、塩とコショウで下味をつける。具はキャベツと長ネギのみじん切り、卵は加えず、芝エビのかわりにタコのぶつ切りを入れる。焼きあがったあとにカツオ節と醤油をかければ、それで二人の夜食ができあがる。  焼きあがったお好み焼きを皿に移して、居間へ運び、ついでにビールも用意する。美波が机を離れ、ショートパンツの長い足を運んでくる。上はタンクトップに男物のワイシャツ、肩までの髪を草色のバンダナでまとめている。化粧はなく、目尻に小さいソバカスがちらほらと散って見える。 「いい匂いじゃない。広也くんって、見かけより器用ねえ」  床に腰をおろして、美波が口元を笑わせる。細い首にバンダナの髪がゆれ、タンクトップの胸が可笑しそうに波をうつ。 「姉貴にきたえられてるしさ。それに最近はお袋も芸術で忙しい」 「お母様の猫グッズ、評判よねえ。この前も女性誌で紹介されていたわ」 「世間はリストラで大変なのに、あんなものが売れていいのかな」 「あなたに他人のことは言えない」 「一般論さ」 「一般論としては、広也くんの生き方のほうが問題でしょう」  美波の指摘に異論はなく、ぼくは缶ビールのプルトップを引く。美波に逆らったところで勝ち目はなく、逆らう意味もない。ぼくの劣等感は自分がフリーターであることより、人生に目的を見つけられないことに理由がある。 「だけど水穂が過労なんて、珍しいわねえ」  美波がテーブルに肘をかけ、濡れティシューで指先をぬぐう。 「病院はどこだって?」 「麻布の富士見総合病院」 「麻布、か。暇があったらお見舞いに行こうかな」 「リバンツァのネグリジェを自慢される」 「なんのこと?」 「そういうブランドのネグリジェさ。おれ、そのネグリジェを探すのに二時間もデパートを歩きまわった。それに姉貴なんか、どうせ宇宙人だ」  肩をすくめて、美波がぽいとティシューを放る。テーブルの下から美波の足先がぼくの膝を突つく。 「広也くん、どうしたの」 「なにが」 「機嫌が悪いじゃない」 「そんなことないさ」 「あなたは機嫌が悪いとき、右の目尻に皺ができるの」 「疲れたのかな」 「ちがうわね。広也くんは大人ぶっても、気分が顔に出る性格なの。今夜だって面白くないことがあるから来たのよね」  お好み焼きを切り分けて、口に運び、鬱屈をビールと一緒に飲みくだす。美波に言われるほど不機嫌ではなく、疲れも感じていない。それでもどこかに説明のつかない鬱屈があるのは、雨のせいだろう。  美波がお好み焼きをつまんで、大口に頬張る。ワイシャツの袖をまくりながら、ぼくの缶ビールに手をのばす。 「飲んだら仕事ができないぞ」 「今夜はおしまい。久しぶりだから広也くんとゆっくり飲んで、ビデオでも見るわ」 「仕事の邪魔をして、ごめん」 「大人ぶらなくていいの、甘えたほうが可愛いわよ」 「いつだって甘えてるさ。おれ、気分が顔に出るだろう」  お好み焼きを頬張ったまま、美波がうすく笑い、ビールをあおって首をかたむける。美波の切れ長の目に揶揄《やゆ》が浮かび、息に甘やかな口臭が流れだす。気分が不安定なせいか、いつもは安らぎを感じる美波の視線に、ぼくの神経が意味もなくささくれる。 「それはそうと、あのこと、考えた?」 「なんだっけ」 「有限会社の話」 「忘れてた」 「気楽な男ねえ。広也くんにはやっぱり、会社勤めは無理だわ」 「自分でも向かないと思ってる」 「一生フリーターも辛いわよ」 「死ぬまでフリーターで済めば、辛くないさ」 「あなただって歳をとる。若いときは自由が恰好よく見えても、歳をとってポジションがないと惨めなだけ。アリとキリギリスの童話って、うまい譬《たと》えね」 「新興宗教でも始めたの」 「父の友達で作家志望の人がいるの。昔雑誌の新人賞を取ったらしいけど、それぐらいで作家にはなれない。でも若いころの夢が捨てられずに、今でも仕事をしないで小説を書いている。父も若いころは文学青年で、その人に憧れたりして、昔は仲がよかったらしい」 「それが?」 「その人ね、食べられなくて、父のところへお金を借りに来るの。本が売れたら倍にして返すとか、そんなことばっかり。だけど六十をすぎて、売れないことは本人にも分かってる。自分は才能がある、ぜったい売れるとか言うけど、もう顔が卑屈なの。ああいう人を見てると、人生って、普通が一番な気がする。才能があって努力をしても、みんなが作家や野球選手にはなれないわ」 「人生に失敗した人の話だな」 「自分は失敗しないと思うの、広也くんの傲慢じゃない?」 「それは、ちがう」 「どういうふうにちがうの」 「失敗したくても、おれには人生に目的がない。目標に向かって努力をしなければ、失敗もできないさ」 「だから……」  美波がビールを飲みほして、呆れたように顔をしかめる。 「だからね、その目的が見つかるまででも、私の仕事を手伝いなさいな」  ぼくに流し目を送って、美波がすらりと足をつき立てる。それから踵を返し、仕事部屋からスケッチブックを持ってくる。  となりに座り、スケッチブックを開きながら、美波が言う。 「この仕事、急にうけ負ったの。三階建て住宅の屋上に土を入れて、全面をテラスガーデンにする計画よ。パースを描いて見積もりにOKが出れば、来月には取りかかろうと思うの」  スケッチは正式にパースを描くための下絵のようなもので、学生時代から美波の仕事を手伝っているぼくには、略画だけでイメージが湧く。中央の背の高い木は月桂樹、全体に樹木は少なく、そのかわり季節の草花が花壇に配置される。本来なら手すりになるフェンスに石目模様が見えるから、この部分はレンガだろう。 「問題は古いレンガがどれぐらい確保できるか、なの。最近は取り壊す倉庫も少ないから、ぜんぶ輸入になるかも知れない」 「レンガなんか、時間がたてば、いつかは古くなるさ」 「そうもいかないの。施主はスペインあたりの内庭を考えてるらしい。旅行をしたとき、向こうの景色が気に入ったとかでね」 「フェンスもレンガにするの」 「マドリード風の内庭を参考にするから、そうなるわ」 「せっかくの屋上なのに、風通しと採光が悪くなるな」 「施主が施主だもの」 「スペイン人?」 「俳優の香坂司郎よ」 「うん?」 「大した役者じゃないけど、トレンディードラマで人気があるわ。最近モデルとの交際が発覚して、テレビが騒いでる」 「香坂、か」 「人気商売だから人目を気にするのね。フェンスに三メートルぐらいレンガを積めば、周囲からの視線はとどかない。採光や風通しより、プライバシーを優先させるわけよ」  美波の肩がぼくの腕に触れ、ショートパンツの膝頭が、気楽なリズムでぼくの膝をうつ。汗ばんだ美波の皮膚が、甘酸っぱい匂いでぼくの理性をかき乱す。 「うちの姉貴、このこと、知ってるのかな」 「このことって」 「君が香坂司郎のガーデニングをうけ負ったこと」 「水穂は報道部でしょう、芸能部ならともかく、私も告げ口はしたくないわ」 「モデルとの噂は……」 「二人で私を屋上へ案内したぐらいだから、婚約発表は時間の問題ね」 「二人は、結婚か」 「広也くん、芸能人の噂話になんか、興味はないでしょう」 「結婚するのに高いフェンスが必要だなんて、芸能人も大変だと思っただけさ」  美波がスケッチブックをめくって、下からぼくの顔を覗く。美波の人さし指がぼくの頬を突く。 「ふつうの庭とちがってこの仕事はレンガ積みが主体なの。施工に一週間はかかるだろうし、工費も一千万ぐらい。だから広也くん、当てにしてるわね」 「庭なんか板塀で囲って、ヒマワリでも植えておけばいいのにな」 「私が失業するわ」 「放っておいてもタンポポが生える。柿の種を捨てれば芽が出るし、トンボも蝶々もメジロも飛んできて、水たまりが出来ればアメンボやメダカが住みつく」 「アメンボもタンポポも、嫌いな人がいる」 「金をかけて自然を壊して、どこが面白いのかな」 「あなたも床屋さんへ行くでしょう。スニーカーもはくしビールも飲む、誰だって自然のままでは生きられないわ」 「分かってるさ」 「広也くんのほうこそ、新興宗教を始めたみたい」 「おれ……」 「なあに?」 「何でもない」 「本当に今夜はおかしいわ。雨の日は機嫌が悪いなんて、ギリシャの猫みたい」  鼻の先で笑って、美波がお好み焼きを口に入れる。美波がぼくの膝をまたぎ、唇をぼくの顔に近づける。ぼくは美波の口からお好み焼きを受け取り、美波の唇とお好み焼きを、同時に味わう。美波の唇は苺ゼリーのようにやわらかく、焦げた小麦粉は香ばしく、タコや長ネギの風味が不思議な食感をかもし出す。お好み焼きに卵を入れなかったのは、やっぱり正解だなと思いながら、ぼくは美波の唇に勃起する。  美波の体臭が濃くなり、吐息に鼻声がまじって、ぼくは舌を美波の舌にからませる。 「ここで?」 「ベッドがいいわ」 「シャワーは?」 「あとにする。本当は今朝から、広也くんとしたかったの」  美波を抱きあげてベッドへ移り、ベッドカバーの上に美波と一緒にもつれ込む。シーツの香が匂い、雨の窓ガラスに美波の足が乳色に反射する。  ぼくが美波のワイシャツをはぎ取り、美波が自分でタンクトップを脱ぐ。ブラジャーはなく、うすい乳房と小さい乳首が少年のようにこぼれ出る。ぼくは舌を尖らせて美波の右の乳首をなめ、指で左の乳首をもてあそぶ。 「広也くん、お好み焼きと私の胸、どっちが美味しい?」 「お好み焼き」 「失礼なやつね」 「君の胸、小さいものな」 「意地悪を言うともう食べさせないから」  美波がぼくの鼻を噛み、耳たぶを噛み、ぼくの股間に手をのばす。ぼくはトンボのヤゴが殻を脱ぐようにズボンとシャツを脱ぎ、トランクスを脱ぐ。美波もショートパンツとショーツを脱ぎ、簡単に皮膚を開放する。挿入すればすぐ射精してしまいそうで、ぼくは自制のために美波の肩を抱き寄せる。骨っぽい美波の肩にもうすい脂肪があり、ぼくは乳房から脇の下、脇の下から二の腕と美波の皮膚をなめる。美波の皮膚に毛穴の違和感はなく、甘酸っぱい腋臭が味覚を楽しませる。ぼくは唇を美波の脇腹にすべらせ、舌を腰骨から臍の穴に移す。臍をなめながら左手で乳首をつまみ、右手の指で陰毛をかき分ける。美波の陰毛は濃く、強いカールでねっとりとぼくの指にからみつく。ぼくは美波の表情をたしかめ、中指の先端を陰核に押しつける。美波の眉がゆがみ、吐息が甘ったるく涙ぐむ。 「窓……」 「どこからも見えないさ」 「雨の匂い、私、好き」  ぼくは美波の膝を割り、股間に顔を寄せる。膣口に粘液が匂い、小陰唇が鮮やかに充血する。美波の手も下からぼくの股間にのび、指の腹がぼくのペニスを攻める。皮膚の表面が熱くなり、ぼくは鼻先を美波の膣に入れて、唇で美波の陰核を噛む。美波が咽を鳴らし、足でぼくの頭をはさむ。唾液と美波の粘液が混じり、粘度の高い舌音がぼくの快感を助長する。頭から雑念が消え、ぼくは舌と唇で、ひたすら美波の味を確認する。  美波の咽声が絶叫にかわり、四肢が痙攣する。平らな美波の腹に汗が銀色に浮きあがる。美波の痙攣が止まって、足がぼくの肩から外れる。姿勢を崩したぼくを、今度は美波が上から押し倒す。美波の髪先がぼくの胸をさらさらと往き来する。 「広也くん、今夜はやっぱり、ヘンみたい」 「君はいつもより美味しい」 「もうすぐあれだから」 「あれ、か」 「コンドームはしなくていいわ」 「すぐにいきそうだな」 「一度出しておく?」 「そんなことしたら、今夜、帰れない」 「素直に泊まりなさい。あなたは大人ぶってるけど、大人のほうが他人の言うことを聞くものよ」  美波が口でぼくの返事を封じ、苺ゼリーのような唇が、ぼくの顎から首筋、首筋から腹へ、歯を立てながら移動する。美波の左手がぼくのペニスを握り、舌が音をたてながらペニスへ向かってくる。生理が近づくと美波の性欲は昂進し、ぼくの体力では持てあます。美波の躰に欲望を感じても、そんなときぼくは、ふと女が悲しくなる。  美波がじらすように、しばらくぼくの下半身をまさぐる。それから息をついて、右足をぼくの肩にまわす。体位は逆向きの馬乗りで、美波の尻がぼくの視界を遮断する。美波は尻をぼくに向けて、ペニスをくわえ、舌と歯の刺激を微妙なリズムで開始する。美波の尻が収縮し、膣口が粘液で光る。ペニスには巧緻な刺激がくり返され、ぼくは貧血におそわれる。一度美波の口に射精すれば、二回目のセックスは楽になる。一息入れてシャワーを浴び、腹ごしらえをしてビールを飲み、あとはいちゃいちゃと戯れる。久しぶりに雨の降った日は、そんな時間のつぶし方も、罪にはならないか。 「あ……」 「出していいわよ」 「………」  美波の尻に赤い斑紋が浮かび、一瞬ぼくの視野が狭くなる。ゆるく旋回する美波の尻の、尾てい骨から左ななめ下に、血の滲みが歯列状に残っている。セックスを始めてから今日は一度も、美波の皮膚に歯は立てていない。  美波の指の動きが激しくなって、ぼくは射精を意識する。美波の尻に残る歯形に、ぼくは安彦千秋の尻を思い出す。千秋は背後からのセックスも、尻を照明にさらすことも好まなかったが、一度だけ尻に小さい痣を見たことがある。それはコイン大ほどの、火傷あとのような痣だった。  ぼくのペニスに美波が歯を立て、その刺激がぼくの自制心から、一気に精液をあふれさせる。今ぼくのペニスから精液をしぼり出している指が、美波のものか、千秋のものか、一瞬あいまいになる。  ぼくは思考を停止させ、美波の尻に浮いている赤い歯形に、そっと唇を近づける。   L  柳の青い葉が清々しく池畔をとり囲む。雨を陽射しが追い立て、景色に透明な陽炎をつくり出す。昼前の洗足池には手漕ぎボートが浮かび、降り込められていた犬や年寄りが嬉々として散歩する。池畔の土は乾ききらず、有機物の腐敗臭が穏やかに拡散する。風はなく、湖面に波はなく、閑散とした風景に中原街道のクルマだけがやかましい。  ぼくは自分の重心を確認しながら、駅からの道を池畔におりる。陽炎に追われてゆらゆらと家へ向かう。美波の部屋に泊まったことに罪の意識はなくても、自分のルールを破ったことに、少し違和感がある。  池沿いの道を半分まで歩き、土手道から家の門を見あげる。家は池の周囲から二メートルほど盛り土がしてあって、門扉まで五段の石段がつづいている。その三段目に赤いキャップの女の子が座っている。最近はどこでも若い連中がしゃがんでいるから、珍しくはなくても、女の子がみかんであることがぼくを驚かせる。みかんはよほどピンク色が好きなのか、今日のパーカーも発光感のあるピンク色だった。  みかんが腰をあげ、近寄っていったぼくに、むっつりとうなずく。目は相変わらず怒っているが、口は笑おうと思って突如気分を変えたような、微妙な形にゆがんでいる。 「やあ、久しぶりだな」 「………」 「なかで待てばよかったのに」 「誰もいないもの」 「そうか、お袋も、出掛けてるか」  お袋には昨夜連絡をしたから、常識的には水穂の病院へ行っている。しかしお袋にそういう常識があるかどうかは、ぼくの知ったことではない。  みかんが石段をおりてきて、帽子の庇《ひさし》を人さし指で突きあげる。 「この家、よく分かったな」 「名刺をおいていった」 「ああ、そうか」  垣根のあいだから家の戸締りを眺め、洗足池の陽射しと見くらべて、ぼくは池畔の道を歩きだす。桜の高枝に雀が鳴き、中天の太陽が湖面を乾いた色にあぶっている。周道にはいくらでもベンチがあるし、みかんの着ているピンク色のパーカーは、家のなかより陽射しのほうが相応《ふさわ》しい。ポニーテールは今日も生意気で、背中のデイパックが相変わらずふて腐れる。  池の岸まで来て、湖面を睨みながら、みかんが偉そうに腕を組む。 「洗足池って、わたし、初めて」 「おれも行徳は初めてだった」 「意外にいいところね」 「行徳も意外にお洒落だ」 「あんな町、古いだけよ」 「歴史があるのはいいことさ。人間は家族や歴史から切り離されると、心が病気になる」  ふーんと唸って、みかんがまた帽子の庇を突きあげ、それから腕組みをといて、にっと歯をむき出す。 「ふーん、今日は歯がある」 「昨日入ったの」 「きれいな入れ歯だ」 「差し歯よ」 「そうか、きれいな差し歯だ」 「十五万円もした。セラミックだから保険がきかないの」 「すごいな」 「裏はチタン合金で、ガムを噛んでもはりつかない」 「それは、よかった」 「大事に使えば二十年はもつの」 「おれも差し歯をするときは、セラミックとチタン合金にしよう」  みかんがにんまり笑って、得意そうにうなずく。たった一本の前歯がみかんをこれほど幸せな顔にするなら、十五万円の治療代なんか、安いものだ。 「君、まさか……」 「なあに」 「いや、雨がやんで、よかったな」  そのときはもう、ぼくらは木橋の上を歩いていて、みかんは帽子の下で鼻唄を歌っている。ぼくの発しかけた質問は「まさか、歯を見せに来ただけか」というものだったが、もしかしたらみかんは、本当に新しい差し歯を見せに来ただけなのか。  短い木橋を北側へ渡り、ベンチを探し始めたとき、みかんがぼくの肘に手をかける。 「神社がある」 「神社なんかどこにでもあるさ」 「わたし、お参りしていくわ」  ぼくの意見は聞かず、みかんが走り出し、赤鳥居から境内への石段を身軽に駆けのぼる。神社は通称を〔池月神社〕、正式名を千束八幡神社という。源頼朝がこの近くで〔池月〕という名馬を手に入れたとかの伝説があって、神社には今でも〔池月〕の大絵馬が奉納されている。縁起はそういうふうにもっともらしくても、実際は小丘の上に粗末な社と社務所があるだけの、情けない神社だった。  みかんが駆けていったあとから、ぼくもおっとり刀で石段をのぼる。みかんはきちんと帽子を取り、慣れた仕種で拝礼と柏手をくり返す。  気が済んだのか、参拝を終了させ、みかんが帽子を被りながらふり返る。 「この神社、ご利益があるわ」 「神社に詳しいのか」 「お参りすると感じるの」 「なにを」 「神様」 「ふーん」 「神社には神様が住んでる神社と、住んでない神社があるの。ここの神社には神様が住んでる」 「神様にも得手不得手があるだろう」 「エテフエテって?」 「専門分野みたいな……安産とか、就職とか、金運とか」 「そうね。でも今は神様も、多角経営よ」  境内には欅や椎の高木が鬱蒼としげっていて、木漏れ日が白く小さく、きらきらと届いてくる。昨日までの雨が地面を濡らし、笹やシダの下草が空気に青臭い湿度を与えている。九月もなかばを過ぎて、しつこかった夏も、どうやら終わりらしい。  ぼくは境内を傍道《わきみち》から池畔におり、日の当たるベンチにみかんを促す。近くの会社が昼休みになったのか、湖面にボートが多くなっている。屋根のついた足踏みボートがあり、三人乗りの手漕ぎボートがある。散歩の年寄りまで含めて、風景がのどかにゆれ動く。美波の部屋に泊まった疲れで、ぼくはこのまま、一時間ほど昼寝をしたい気分だった。 「君、今日は……」  目眩がしそうなほどの陽射しのなかに、白いみかんの横顔を透かして、ぼくが言う。 「やっぱり、姉さんのことだよな」  帽子の庇を目深にさげて、みかんがうなずく。 「犯人が分かったらしい」 「………」 「犯人というより容疑者かな。その男が姿を消して、警察が行方を追ってる」 「………」 「尾崎喬夫という、この春から千秋とつきあってた会社員だ。そいつには女房子供がいて、いろんな事情があったらしいけど、要するに、そいつの精神錯乱だった」  池に住みついているアヒルが棒杭の上で羽を休め、鮭ほどもあるドイツ鯉が黒々と岸辺を泳いでいく。弁天島の森には鷺《さぎ》が群れ、目の前の湖面に欅の葉がはらりと舞い落ちる。 「わたしも尾崎という人のことは、警察から聞いた」 「そうか」 「その人が捕まれば事件は解決だろうって」 「会社もやめて、家族にも見放されて、尾崎には行く場所がない。金もないそうだから、捕まるのは時間の問題だ」 「わたし、ちがうと思う」 「なにが」 「チアキを殺した犯人」 「どうして」 「そんな気がする」 「尾崎が捕まれば分かるさ」 「チアキはうっかり殺されるような、バカな子じゃなかった」 「今日は姉さんの味方か」 「好き嫌いじゃないの。チアキは子供のころから頭がよくて、冷静で自分勝手で残酷な子だった。人を殺しても、殺されるような性格じゃなかった」  秋の明るすぎる陽射しと、静かすぎる風景に、殺人の話は似合わない。しかしいくら不似合いな話題でも、ぼくとみかんは、千秋の事件を避けられない。 「君は千秋から尾崎のことを聞いていたか」 「聞いてない」 「千秋のアパートへは?」 「二、三度行った」 「泊まったことは?」 「ない」 「姉妹なんて、そんなもんか」  みかんが尻をずらし、ズボンの膝ポケットからタバコを取り出して、火をつける。 「でもチアキのことはね、やっぱり不審《おか》しいと思う」 「君は尾崎を知らない、おれは一度会っている。頭がまともなときなら渋くて金持ちで有能で、いい男だったと思う」 「尾崎という人、魔術を使う?」 「さあな」 「チアキは魔術を使った。だからその人がチアキを殺したのなら、チアキよりもっと怖い魔術を使うはずよ」  鼻を鳴らしてやりたかったが、みかんの生真面目な口調に、ぼくは静かに息をつく。ぷかりと、みかんの口からタバコの煙が吐き出される。 「あんたの考えてること、わたし、分かるわ」 「うん」 「わたしのこと、頭がヘンだと思ってる」 「魔術や魔法を信じないだけさ」 「でもチアキは本当に魔術を使ったの。うちには魔術の本や道具が残ってる」  湖面に落ちた欅の葉を、餌と間違えたのか、ドイツ鯉が横腹を見せて水中へ引き入れる。水音に驚いたアヒルが杭からころげ落ち、無様な波紋で弁天島方向へ泳ぎ去る。 「おれが高校生のころも、女子のあいだで魔術ごっこが流行った」 「チアキの魔術は本物だった」 「千秋は魔術で義父《おやじ》さんを殺したのか」 「そう」 「どうやって」 「魔術でよ」 「だから、どうやって」 「知らない」 「千秋の部屋へは泊まったけど、魔術の本や道具は見なかった」 「あんたが見ても分からない」 「常識の範囲でなら、分かるさ」 「わたしの言うこと、信じないのね」 「世の中には霊感の強いやつも、念力の強いやつもいる。直観とか虫の知らせとか、そういうこともあると思う。人間が一つのことに集中すれば、ある程度の超能力は身につく。寿司屋の職人が手の感触だけで米粒の数を当てたり、ソムリエがワインの銘柄と年代を当てたり、昔の剣豪が刀で石灯籠を切ったりさ。だから千秋が高校時代、魔術ごっこに凝って、ほかの子より霊感が強くなったことも、あるかも知れない。だけどそれで人を殺したり、他人の人生を左右したり、そんなことはできない。歴史は人間の期待や思い込みとは無関係にできている」 「理屈は嫌い」 「ただの常識だ」 「わたしはチアキの事件が不審しいと思っただけ。チアキが誰かに殺されたなんて、今でも信じられない。チアキのアパートを見れば何か分かる気がしたけど、部屋へは入れなかった」  みかんがタバコを足元に捨て、キャンバス地のデッキシューズで、ぺたんと踏みつぶす。みかんの今日の冷静さは前歯のせいだけではなく、ぼくの反論をシミュレーションしてきた結果だろう。 「部屋を見たって……」  わざとため息を聞かせ、ベンチの背もたれに肘をまわして、ぼくが言う。 「灯油をまいて火をつけたらしいから、みんな燃えてるさ」 「でも犯人は尾崎という人じゃない」 「そうかな」 「尾崎という人が犯人なら、もう死んでる」 「どうして」 「チアキは犯人に呪いをかけたはず」 「復讐の呪いか」 「真面目に聞きなさいよ」 「千秋の呪いや魔術を具体的に知ってるのか」 「死んだ金魚を生き返らせたことがある」 「ふーん」 「呪いをかけて江藤さんちの犬を殺したり」 「江藤さんって」 「近くの骨董屋さん。そこの犬、性格が悪くて、わたしやチアキに塀の内側から跳びかかるの。だからチアキが魔術で殺したの」  笑いたいのを我慢して、ぼくの口がゆがむ。横隔膜の痙攣を、ぼくは咳払いでごまかす。 「魔術と呪いは、同じものなのか」 「魔女が使う術が呪いよ」 「ああ、なるほど」 「それにチアキは高校のとき、担任に怪我をさせている。呪いをかけて交通事故を起こさせたの。みんなから嫌われてた担任で、チアキが代表して魔術を使ったの。だからチアキの魔術は有名で、行徳ではみんな知ってることなの」  反論しかけ、しかし言葉を飲み込み、ぼくは小さく背伸びをする。ホラー映画やサイコ小説、魔術ごっこや占い、オカルトや超常現象、そんな迷信もここまで流行すれば、もう文化として定着する。中世に怨霊を疑う人間がいなかったように、今の時代、理性だけを信じろというほうが無理なのか。  だけどなあと、緩慢なボートの動きに目をやりながら、ぼくは欠伸をかみ殺す。千秋の担任教師が交通事故を起こしたり、近所の犬が死んだり金魚が生き返ったり、それぐらいは偶然で起こりえる。かりに千秋の霊感が強かったところで、それは熟練した寿司職人と同じことだ。もし千秋が本物の超能力者だったら、ぼんやりアパートで焼き殺されたこと自体、不自然ではないか。 「いいわ、どうせあんたなんかに、理解できないわ」  みかんが不意に腰をあげ、拗ねたように、ぶらりと歩き出す。気を悪くしたことは知っていたが、お義理で魔術を信じても失礼になる。 「コーラでも飲むか」  声は聞こえているはずなのに、みかんの足は止まらず、カーゴパンツのポケットに両手を入れてぶらりぶらりと歩いていく。池なんか一周すれば元へ戻ってくるが、ぼくも反動をつけて腰をあげ、弁天島のほうへみかんの後を追う。ぼくが追いつき、みかんが歩幅を小さくして、ぼくたちは池にかかる木道を歩く。水面は水銀を流したように単調で、ボートがつくる波だけが気だるく光を反転させる。背後の林が空気を緑色に染め、ミミズもアメンボも秋の陽射しにうらうらと背伸びする。  鉤形に曲がった木道を渡りきり、松林の木陰へさしかかる。みかんが神妙に顎をつき出して、憑《つ》かれたように林を歩いていく。視線の先にはまた神社の鳥居があって、みかんの足はその方向へ向かう。神社の前ではかならず手を合わせる年寄りもいるが、みかんの年齢でここまでの神様好きは珍しい。大望があるようにも見えないから、たんに神憑《かみがか》りな体質なのだろう。  鳥居の前で足を止め、ポケットに両手を入れたまま、ぼそりとみかんが言う。 「ふーん、うみふね神社か」  みかんはそのまま狭い境内へ進み、帽子も取らずに、石塔や本殿を眺めまわす。神社の裏手は二階建ての民家で、松林のとなりは児童公園になっている。池に面したベンチには年寄りがたむろし、児童公園には子供と母親が集っている。近くの中学校も昼休みなのか、民家の棟越しにざわめきが聞こえてくる。 「君、この神社は拝まないのか」 「神様がいないもの」 「神様なんかどこにもいないさ」 「さっきの神社にはいた、この神社にはいない。あんたには分からないわ」  本殿前からみかんが石を蹴るように歩きだし、石柵で仕切った隣地へ、ぶらりと入る。そこにはクチナシやツツジの植え込みがあり、今はシロバナ萩だけが花を咲かせている。高木はなく、湖面に満ちていた秋の陽射しが、またうららかによみがえる。  みかんが興味深そうに、屋根をつけた石塔の前に足を止める。塔の高さは一メートルほど、基壇の上に同形の石塔が一対並び、やはり一対の花筒には枯れかけた百日草がささっている。そんな枯れかけた花にも、白いシジミ蝶がふるえながらまといつく。 「ねえ、かちうみぶねって、なあに」 「勝海舟」 「人の名前か……そういえばどこかで、聞いたことがあるわ」  石塔には墓碑銘や由来書きはなく、戒名も見られないが、墓地の正面には案内板がある。最初にみかんが「うみふね神社」と読んだ鳥居のは、もちろん〔海舟神社〕だ。 「人の名前なら、これ、お墓ね」 「晩年の海舟はこの近くに住んでいた」 「となりの〔海舟室〕というのは?」 「奥さんという意味」 「名前はないの」 「忘れたんだろう」 「薄情なやつねえ」 「昔の人だから家庭より仕事や金が大事だったのさ」  みかんが鼻を鳴らして石塔の碑銘を覗き、それから首をかしげて、基壇の前に腰をおろす。墓石に尻を向けて座るのも失礼な参拝だが、相手がみかんなら海舟も許すだろう。  またみかんがタバコを取り出し、そのとなりにぼくが腰をおろす。 「そんなに吸うと肺癌になるぞ」 「いいの、二十歳までに死ぬの」 「それほど美人か」 「なあに」 「美人薄命ってさ」 「美人発明?」 「こっちの話だ」 「わたしは汚いものが嫌い。わたし、生きれば生きるほど汚くなる。朝起きると、自分が少しずつ汚くなっていく」 「おれなんか二十三年も生きてる」 「無神経だからよ」 「そうかな」 「いい人はみんな早く死ぬの。親父も山形のお祖父ちゃんも、お袋だって、きっとすぐ死ぬ。だからわたしも、タバコを吸って肺癌になって、二十歳までには死んでやるの」  みかんの生真面目な顔に、ぼくはなんとなく、人生の皮肉を考える。みかんの差し歯が十五万円であること、みかんが千秋の妹であること、千秋が死んでその妹がぼくのとなりでタバコを吹かしていること、朝起きるたびに自分が少しずつ汚くなっていくこと。  みかんがぽいとタバコを捨て、腰をあげて、怒ったように目をつり上げる。ぼくも腰をあげ、みかんが捨てたタバコを靴の底で踏みつぶす。草むらからバッタが飛び立ち、海舟神社のほうへ鋭く羽を鳴らしていく。  参道を年寄りが歩いてきて、墓の前を離れ、ぼくたちは池のほうへ向かう。一週間前は喧《やかま》しかったアブラ蝉も声がなく、青いウメモドキの実が金色に陽射しをはね返す。今の季節は意外に花が少ないなと、なんとなく、ぼくは考える。  一時をすぎ、湖面からボートが減って、児童公園の砂場には母子連れが二組、岸辺のベンチには年寄りが三人、それぞれに所在なく暇をつぶしている。砂場が背の高い金網で囲まれているのは、犬猫の進入を防ぐためか。池の対岸に住んでいながら、砂場が金網で囲われていることを、今日までぼくは知らなかった。  区立図書館のほうへ歩きかけ、またみかんが生真面目な顔で、足を止める。いくらみかんが神憑りでも、視線の方向にもう神社はないはずだった。 「ブランコ」 「うん?」 「大人が乗っても怒られない?」 「大人が乗っても怒られないし、君が乗っても怒られないさ」  ぼくの皮肉に気づく様子もなく、みかんが力強くうなずき、ブランコまでの距離をみかんが大股に歩く。公園にはジャングルジムや木製の滑り台もあるが、二基のブランコに人はなく、ブランコ自体も古い木台の、子供たちから見捨てられたような代物だ。みかんの体重なんかせいぜい四十二、三キロで、古くて子供用ではあっても、鎖が切れることはないだろう。  ぼくがとなりへ寄るのを待つように、みかんが池向きに腰をおろし、帽子の庇を上向ける。 「なんだよ」 「押して」 「自分で漕げ」 「危ないわ」 「落ちても三十センチだ」 「高所恐怖症なの」 「よく二階の部屋に暮らせるな」 「いいから押して、でも静かにね。突然大きく揺れると、わたし、貧血を起こすから」  議論をする気にもならず、ぼくはみかんの背中に手をかける。みかんが叫び声をあげ、鎖を両肘に抱いて、両足を池の方向へ突っぱらせる。ブランコの振幅は一メートルもなく、それでもみかんはジェットコースターにでも乗ったように、目を据わらせて鼻息を荒くする。子供用のブランコでここまで精神を高揚させられるみかんも、安上がりな体質だ。  一分ほどぼくが背中を押し、みかんの肩からも力が抜け、古い鎖が陽射しのなかで気楽なリズムをとり始める。池を囲む欅の葉に風はなく、ボートの櫂音や子供の歓声は聞こえているのに、風景は目眩がするほど静かだった。 「初めて乗ったけど、ブランコって、意外に簡単だわ」 「君はブランコの天才だ」 「そう思う?」 「初めてのわりには膝の形が決まってる」  みかんが満足そうにうなずき、自分で足先をゆらしはじめる。子供用のブランコにみかんの足は長すぎ、形が決まらない。それでもみかんは自信を持ったのか、左手を放して、ひらっと手まで振ってみせる。 「うちの近くに高見寺というお寺さんがあって……」  へたくそに足をゆすりながら、みかんが言う。 「お寺さんは保育園もやってて、ブランコがあって、わたし、その保育園に入りたかったの」 「入れなかったのか」 「両親が家にいる子は保育園へ入れてくれないの」 「そういうもんかな」 「だからバスで通う幼稚園へ行ったの。その幼稚園は新しい幼児教育とかやってて、ブランコも滑り台もなかった。英語で歌をうたったり、ヘンな機械でゲームばっかりやらされた」 「それで君、ヘンなのか」 「わたしがなに?」 「なんでもない。変わった子供は変わった環境から育つと、そう思っただけ」  対岸からアヒルの群れが泳いで来て、その波紋に陽射しがきらきらと乱される。  ふとゆすっていた足を止め、みかんが下からぼくの顔を見あげる。 「あんたとわたし、前にも会ったことがある?」 「千秋のアパート前で」 「それだけ?」 「どうして」 「わたし、あんたのこと、前から知ってた気がするの」 「デジャ・ヴュさ」 「デジャ・ヴュって」 「既視感。初めて見た風景や人を、以前にも見たことがあると思い込む。心理学的には、心の不安に対抗する防衛心理だという」 「わたし、心が不安なの?」 「知らない」 「あんたって生意気ね」 「君ほどじゃない」 「あんたって、いつも、理屈ばっかり。そういう意地悪をするから、チアキにだってふられるのよ」  足を突っぱらせて、またみかんがブランコを漕ぎ始める。ブランコ操縦法は会得したらしく、みかんの爪先は天をつき、ポニーテールの房が地面をこする。帽子ぐらいなら飛ばされてもかまわないが、中身ごと池に飛んでいったら、鯉やアヒルが迷惑する。 「分かった、君はやっぱり、ブランコの天才だ」  腹立たしいやら、ばかばかしいやら、それでもぼくは大人の分別で、みかんのブランコを抱きとめる。みかんの帽子が頭の横にずれ、パーカーの裾がめくれて、汗の匂いが不思議な清涼感を伝えてくる。  みかんが軽業風にブランコを飛びおり、飛んだ距離を戻ってきて、帽子の庇をぼくの鼻先に突きつける。 「あんた、本気で信じたの」 「なにを」 「ブランコのこと」 「ブランコの、なに」 「わたしが『初めてだ』と言ったこと」 「初めてじゃないのか」 「間抜けねえ、ブランコぐらい誰でも乗れるわ」 「ああ、そう」 「あんたがわたしのことをバカにするから、からかってやったの」 「知ってたさ」 「うそよ、本気にしたくせに」 「幼稚園の話もからかったのか」 「あれは本当」 「魔術の話は?」 「あれだって本当よ。あんたって理屈ばっかり言うから、人生の真実が分からないの」  ぼくの顔にみかんの息がかかり、生意気なみかんの唇がぼくの視線を引きつける。怒ってもいいし、呆れてもよかったが、ぼくは笑うことにした。「生まれて初めてブランコに乗る」などというみかんの発言を、なるほど、信じたほうが間抜けだろう。 「あんた、怒らないの」 「今日は疲れてる」 「女の部屋に泊まったものね」 「まさか」 「女の匂いがするわ」 「そんなもの、しない」 「ごまかしてもダメ。そういうこと、わたし、ちゃんと分かるんだから」  みかんが鼻をうごめかして、ぼくのシャツを嗅ぎ、ぐずっとくしゃみをする。  指先でみかんの帽子を突いて、ぼくは意識的に距離をとる。 「昼飯でも食うか」 「そうね」 「好きな物は?」 「アブラアゲ」 「うん?」 「アブラアゲ」 「ああ、油揚げか」  みかんが気難しい目つきで口を結び、カーゴパンツのポケットに両手を入れてむっつりと歩きだす。アブラアゲもブランコも幼稚園も千秋の魔術も、どこまで本気か知らないが、ぼくも今はまだゆらゆらと秋の日を浴びていたい。  そういえば、女なんてみんな魔女みたいなもんかと、みかんの赤い帽子を眺めながらぼくは嘆息する。   M  洗足池から行徳へ向かうには、池上線、浅草線、東西線を、それぞれ五反田と日本橋で乗りかえる。ロマンスカーなら新宿から一時間半で箱根まで行けるのに、東京を南端から東端まで移動するだけのことにも、これだけの時間がかかる。駅のホームでちらほら見かけた女子高校生の制服に、みかんは表情も変えなかった。  裏道を歩いて押切から伊勢宿へ入り、細い路地を抜けてみかんの家につく。格子戸内に明かりがあって、座敷童子のような横山タネ子がビックリ人形のように出迎える。タネ子を驚かせたのはぼくではなく、となりにむっつりと立った、みかんだろう。  みかんが乱暴に靴を脱ぎとばし、無言で階段をあがる。ぼくも挨拶はそこそこに、みかんのあとを追う。古い階段は重厚な欅材で、きしみ音をたてない板面の艶が家の歴史を思わせる。  階段をのぼりきると、みかんが廊下に待っていて、つきあたりの板戸を無造作に引き開ける。内側から黴《かび》臭い空気がこぼれ出し、みかんが歩いて窓と雨戸を開ける。明るくなった部屋は十畳の和室で、窓横にスチールの勉強机と椅子がある以外に、家具もカーテンも見当たらない。空気の匂いからして、部屋は長いあいだ使われていないらしい。 「千秋の部屋か……」  畳の上を窓まで進み、しばらく外の空気を吸う。それから部屋を見まわして、ぼくは窓枠に腰をおろす。天井は杉板の京間造り、壁は砂壁で、元は灰色だったものが日焼けの変色を起こしている。畳は新しく、最近掃除をしたのか、埃は見られない。  みかんが目の前を横切り、机の後ろへまわる。板襖になった押し入れがあって、その前にぺたんと座る。襖を開き、上半身を押し入れに入れ、重そうに段ボール箱を引き出す。取り出した段ボール箱は二つ、両方ともリンゴ箱程度の大きさで、最近ガムテープを剥がしたのか新しいささくれ跡が残っている。  みかんは気合を入れてその箱を押し、ぼくが腰掛けている窓の前まで、むっつりと運んでくる。 「手伝いなさいよ」 「そうか、悪かった」 「これであんたも信用するわ。チアキって、本当に魔術を使ったんだから」  千秋の事件は犯人が尾崎喬夫と特定され、今さら遺品を詮索しても仕方はない。それでもみかんの気持ちは無視できず、それにぼく自身、事件の全体像に、まだ割り切れない気分がある。 「お茶、飲む?」 「うん」 「ウーロン茶もあるけど」 「ふつうの煎茶がいい、熱くて、濃いやつ」  みかんが小さくうなずいて、廊下へ踵を返す。その後ろ姿を見送ってから、ぼくは段ボール箱の蓋を開ける。中には整然と本が詰まっていて、なるほどこれはみかんが文句を言うほどの重量。もう一つの箱にも同じほどの本が詰まっているから、合計では五十冊以上だろう。  本の背表紙を読み進むうち、脇の下にいやな汗がにじみ出る。小説や娯楽関係の本はなく、すべてが魔術に関する専門書なのだ。ぼくは窓枠をおりて畳に座り、あらためて本のタイトルを点検する。内容は分からないものの、タイトルはどれも高踏的、たとえばアレイスター・クロウリー著作集の〔神秘主義と魔術〕、〔エジプトの秘密魔術〕、〔Mのオカルティズム〕、〔カバラ魔術の実践・現代魔術体系〕、〔高等魔術の教理と祭儀〕、〔性魔術秘密教程〕、〔世界魔法大全・魔術の復活〕、〔ソロモンの大いなる鍵〕、〔魔術・深層心理の操作〕、〔魔女と魔術の辞典〕などなど、とにかくそんなタイトルが飽きもせずに並んでいる。中には〔思いどおりの貴女になれるカンタン魔術〕とか、〔貴女と私の幸せ黒魔術〕とか、ちょっと笑えそうな本も混じってはいるが、ほとんどは遊びのない生臭いタイトルだった。  ためしにぼくは、〔ソロモンの大いなる鍵〕という本を手に取り、後ろからページをめくってみる。連なる文字は「魔法円の作成方法」だの、「水の聖別儀式」だの「ペンタクルについての解説」だの、まるで意味が分からない。図形も二重円の中に正三角形が嵌《は》め込まれたものや、円と四角とアラビア風の文字が組み合わされたものや、もうそれ自体が呪文みたいなものだ。それらの小見出しや図形を眺めているだけで、なんとなく気分が悪くなる。  つづけて手に取った〔世界魔法大全・魔術の復活〕という本も似たような内容で、見出しにも「魔術用の絨毯を作る秘術」とか「悪霊が守る至宝を我が物にする法」とかが、延々とつづいている。本の量も内容も、なるほど女子高校生の魔術ごっこを超えている。これならみかんが恐怖を感じるのも無理はなく、周囲の人間も千秋に対して違和感をもったろう。ぼくだってまさか、千秋の魔術趣味がここまで本格的だとは、思ってもみなかった。  畳に魔術本を並べたまま、ぼくはまた窓枠に尻をのせ、部屋の砂壁に向かって腕を組む。壁の黄ばみが魔術本の図形にも見えてきて、背筋が寒くなる。あの冷静で感情を表に出さなかった千秋が、本当にこんな本を読み漁っていたのか。ぼくも歴史を勉強したから、ヨーロッパ中世に魔術や錬金術が流行したことは知っている。近世初頭には魔女狩りも流行し、その被害者はたしか、十万人を超えたのではなかったか。  壁や天井や畳を眺めたまま、雑念に整理がつかず、芸もなく嘆息をつづける。戸口にパーカーのピンク色がひろがり、視界にみかんの素足が入って来た。 「わたしの言ったこと、信じた?」 「この本はすごいな」  みかんが盆を畳に置き、膝を折って、ぺたんと正座をする。盆には茶托にのった湯呑と、三枚の海苔巻き煎餅が添えられている。 「たしかに、思っていたより……」  湯呑をとりあげ、茫然と、ぼくは茶をすする。 「ずいぶん専門的だ。これだけの本を読むには、相当な知識と時間が必要だ」 「チアキには簡単だった。中学のときからそんな本ばっかり読んでた」 「だけど、なあ?」 「なによ」 「魔術の本を読んだからって、魔術が使えるとは限らない」 「チアキは使えた」 「死んだ金魚を生き返らせたか」 「江藤さん家《ち》の犬だって……」 「現場は見てないだろう。実際に千秋が金魚や犬に魔術をかけた、その現場は」  みかんが正座をしたまま、上目づかいにぼくの顔を睨む。ポニーテールがはね上がり、一重の目が光を強くする。 「おれも子供のころ〔世界偉人伝〕とかいう本をたくさん読んだけど、偉人にはなれなかった」 「………」 「毎日テレビのトレンディードラマを見たからって、人生はトレンディードラマにならない」 「………」 「千秋もなにかの理由があって、魔術の本を読み漁った。だけど、それは、それだけのことだ」 「わたしのこと、まだ信じてない」 「信じたからここへも来たし、千秋の本も見た。千秋の魔術趣味は思っていたより本格的で、子供の遊びとはレベルがちがうことも分かった。でもおれは、やっぱり、魔術は信じない」  みかんの睫毛が頬骨に陰をつくり、尖った顎が左右にふられて、小さい鼻から不遜な吐息がこぼれる。みかんが膝を立てて押し入れの前に移動し、襖の奥から手文庫ほどの小箱を取り出す。その箱は和紙張りのきれいな装飾で、段ボール箱と同様にガムテープの剥がし跡がある。 「これでも信じない? これがチアキの正体よ」  小箱をぼくの膝にのせ、みかんが蓋を取る。みかんは立ったまま、箱とぼくの顔を同時に覗き込む。箱の中には布切れやナイフやガラスの小瓶や、粘土のようなものや得体の知れない黒い塊が、整然と納まっている。  一瞬迷ってから、ぼくは箱の中身を点検する。ナイフは二本、両方とも刃渡りは十五センチほどで、刃先は鋭く尖って幅は狭く、果物ナイフというより民芸品のペーパーナイフに近い形だ。刃は実用的に研いであり、重量感もあって、柄は一本が黒、一本は白、そして刃の横面には両方とも油性インクでアラビア風の文字が描かれている。こんなナイフで鉛筆を削るはずもなく、しかしただの飾りとも思えない。布切れと思った物も手に取ってみると革を紙状に延ばしたもので、いわゆる羊皮紙というやつか。小瓶の液体は何かの精製油らしく、蓋を開けると強い香気が鼻をつく。粘土様の物はビニール袋で密閉され、手触りは石鹸のようだ。乳白色の表面に褐色の斑紋が浮かび、蜂蜜のような甘ったるい臭気を放っている。  最後につまみあげた黒い塊もビニール袋に入っていたが、目の前にかざして、ぼくは思わず袋を取り落とす。球状に丸まった面の一か所から、二つの目玉がじっとぼくの顔を見つめていたのだ。声こそ出さなかったものの、ぼくは息を飲み、悪寒と一緒にその塊に目を凝らす。表面には黒灰色の細毛が針状に突き立ち、丸まった中心には爪のある足がある。太ミミズのような尾が内側へ巻かれ、開いた目の横には耳の痕跡も見えて、要するにそれは、ミイラ化したドブネズミだった。 「なんとも、すごいな」 「分かったでしょう」 「うん……」  小箱に蓋をして畳の向こうへ押し、みかんの顔は見ずに、ぼくはまた湯呑を取りあげる。小箱の中身について、用途は不明でも、尋常な収集品でないことは想像がつく。女子高校生なんかが仔ネズミのアルコール漬けをキーホルダーに使うというが、千秋のネズミは、程度がちがう。ナイフも羊皮紙も蝋粘土のような塊も、魔術本と重ね合わせれば、何かの儀式道具だろう。そしてそれは、玩具屋で売っている魔術セットなどとは、まるで次元がちがうのだ。 「わたしもね……」  窓枠のとなりにぼくと並んで座り、みかんが煎餅をつまみ上げる。 「チアキが魔術を使っているところは、見たことない。でも本も道具も、みんな魔術のもの。みんなチアキが集めたもの」 「たしかに趣味の範囲は超えてるかな」 「これだけ証拠があるのに、まだ信じないの」 「名刀を持ってるからって剣豪とは限らない」 「なんの話よ」 「時代劇の話さ」 「またわたしをバカにする」 「そうじゃない、そうじゃないんだけど……」  小箱の中身を思い出し、すぐに残像をふり払って、ぼくは渋い茶を咽に流す。 「いつか君、千秋の元彼の話をしたよな」 「うん」 「千秋にふられて自殺したとかいうやつ。そのこと、具体的に知ってるか」  みかんが前歯で、ぱりっと煎餅を割る。 「もう五年以上前の話よ」 「死んだやつの名前は?」 「宮部……なんとか」 「自殺はどんなふうに」 「館山のほうで海に飛び込んだの。遺書はなかったけど、宮部という人、その前から様子が不審《おか》しかったらしい。その人の妹がわたしと同じ中学で、お兄ちゃんの頭がおかしくなったのはチアキのせいだって。みんなチアキが、意地悪したからだって」 「高校の三年なら受験ノイローゼの可能性もある。それにもし、千秋にふられて頭がおかしくなったとしても、それは、そいつの勝手だ。人間なんかいつも誰かを好きになって、いつも誰かを嫌いになる。相手が自殺をして責任を取れといわれたって、困るじゃないか」 「何が言いたいの」 「宮部は千秋と関係があったかも知れない。でも自殺をしたのは、宮部の勝手だ。千秋は魔術の本を読んで、魔術の道具も集めていた。だけどそれで金魚が生き返ったり、近所の犬が死んだり、高校の担任が交通事故を起こしたわけじゃない」 「………」 「君の親父さんの事件だって、目撃者がいて、事故であることは分かってる。千秋の魔術趣味は異常だったかも知れないけど、それと千秋が殺された事件とは、別の問題だ。前に君が言ったとおり、もし千秋に魔術が使えたら犯人に呪いをかけている。でも実際には容疑者の尾崎も逃げたままで、他に誰かが死んだ話も聞かない。千秋の事件は、いやな条件が重なっただけの、ふつうの殺人事件じゃないのかな」  喋っていながら、自分の言葉に上の空で、ぼくの指は一冊の魔術本をめくっている。頭には千秋の顔が白く浮かび、少し皮肉っぽい笑い方や伏目がちな硬い表情が、無感動に記憶を刺激する。千秋と交際のあった二ヵ月間、千秋が魔術の話をしたことはなく、アパートで魔術の本も見なかった。映画の趣味も社会派やハートウォーミング系で、ホラーやオカルトは鼻で笑っていた。それに尾崎喬夫も大沢佳美も、千秋の魔術趣味なんか、話題にもしなかった。  そうかといって、ネズミのミイラも奇妙なナイフも、千秋の収集品だという事実がある。ぼくの知らない世界に、ぼくの知らない千秋の病気があったのか。尾崎喬夫が言ったように、別な世界の千秋は濃厚で淫乱なセックスに溺れ、男を翻弄して快感を得る異常体質だったのか。大学時代の親友は千秋を高慢な冷血女と言い、同僚のソーシャルワーカーは仕事熱心な博愛主義者のように言う。どこに本物の千秋がいて、どこに千秋の本心があったのか。泣いても声は出さなかったという、子供時代の千秋。魔術に異常な執着をみせたらしい高校時代の千秋。他人に心の内を覗かせなかった大学時代の千秋。そして半年間のソーシャルワーカー生活のあと、アパートで焼き殺された千秋。どれをとっても実感はなく、ぼくとつきあった千秋が、みかんや尾崎や大沢佳美や牧瀬杳子が言う千秋と同じ千秋だったのか、本のページをめくりながら、ふと確信が消えていく。  みかんが二枚目の煎餅に手をのばし、新しい前歯を自慢するように、豪快な音をたてる。 「結局あんたは……」  割った煎餅を睨みつけ、くるっと足首をまわして、みかんが言う。 「今でもチアキのこと、女王様みたいに思ってるのよ」 「そんなことは、ないさ」 「美人で優等生で、だから未練があるの」 「言いがかりだな」 「それなら認めなさいよ。チアキは男好きで心が冷たくて、魔術を使うような危ない性格だったの。あんたもどうせ、まだチアキの魔術にかかってるの」 「君のほうこそ千秋に嫉妬している」 「嫉妬なんか、してない」 「千秋が冷たく見えたのは顔と雰囲気のせいだ。実際はソーシャルワーカーになるような、気持ちの優しいやつだった」 「チアキは親父のお墓参りもしなかった」 「墓場が嫌いな人間もいるさ」 「親父はいつもチアキが自慢で、チアキの服なんか、みんな自分で買ってきたのに」 「血のつながりがなければ親父さんも気をつかう」 「チアキなんか、性格が悪いくせに、親父の前だけではいい子になったの」 「うちの姉貴と同じだ」 「チアキは東京のアパートへ移るとき、服も靴もバッグも、みんな家においていった」 「アパートでは狭すぎる」 「お袋のお見舞いにも来なかった」 「それは君のせいだ」 「わたしが、なによ」 「君に嫌われたら、千秋だってこの家には帰りにくい」 「そういうことじゃない、あんたには分からないのよ」 「分かるように言わなければ分からない」 「もういいわ。あんたみたいに鈍感な人、話すだけで疲れるわ」  窓からぷいと腰を浮かし、みかんが仏頂面で本を片づけ始める。目のまわりが少し赤く、鼻息も荒く、への字形に結んだ口が憎らしい。  手の内にあった本を段ボール箱へ戻しかけ、表紙に目がとまって、ぼくはその本を膝に引き戻す。タイトルは〔貴女と私の幸せ黒魔術〕という情けないものだが、注意を引いたのはタイトルではなく、著者の〔ブラックデビル・マスダ〕という名前だった。この名前はたしか、増田正樹のペンネームではなかったか。増田は芳山大学文学部の助教授で、そして芳山大学は、今年の春までぼくがかよっていた大学だった。 「困ったもんだ」 「なあに」 「こっちの話さ。この本、貸してくれるか」 「魔法の道具も持っていったら?」 「いや、本だけでいい」  みかんが小さく鼻を鳴らして、段ボール箱の整理をつづけ、ぼくは〔貴女と私の幸せ黒魔術〕をサイドバッグにしまう。窓の外では夕日が隣家のブロック塀を焙り、雀が必死に鳴き騒ぐ。この前は墓地でヒグラシの声を聞いたが、いつの間にか行徳でも、セミの季節は終わっている。  散らばった本を段ボール箱に納めなおし、今度はぼくが押し入れに運んで、ついでに和紙の小箱も片づける。押し入れには衣装ケースや他の段ボール箱がぎっしりとつまれている。落合のアパートに衣類や小物が少なかったのも、この押し入れが理由だろう。みかんは千秋の薄情さを非難するが、これだけの衣装ケースをあんなアパートに、おけるはずはない。 「なあ、千秋は……」  ふり返ると、みかんの鼻が、ぼくの顎にぶつかりそうな位置にある。みかんは上目づかいに口を尖らせている。 「あんた、チアキとは何回寝たの」 「うん?」 「何回寝たのよ」 「五回か、六回か」 「よかった?」 「ふつうかな」 「チアキみたいな子って、男の人はみんな寝たいと思うの?」 「ふつうは、まあ、そうかな」 「知り合った場所は?」 「渋谷の居酒屋」 「知り合ってすぐ寝たの」 「うん」 「不良ね」 「子供には分からないさ」 「別れた理由は?」 「男と女は理由なんかなくても、別れられる」  みかんが机の端に尻をのせて、ポケットからタバコとライターを取り出す。 「クリスマスの幾日か前だった。おれたち、渋谷で飯を食った」  千秋は肉類を好まず、口にするのはシーフードと、せいぜいパスタだった。その日のメニューも海老ドリアにアスパラサラダだったことを、意味もなくぼくは思い出す。 「もともと千秋は喋らないやつだった。おれも千秋のそういうところが好きだった。だけどその夜は、ふだんよりも口数が少なかった」  タバコに火がつけられ、みかんの口から、ぷかりと煙が吐き出される。 「それから別の店へ行って、酒を飲んだ。千秋は他のことを考えているような顔で、あまり飲まなかった。おれも話すことがなくて、ただ酒を飲んでいた。考えたらおれたち、つきあってる間も、ほとんど共通の話題はなかった気がする」  タバコの煙がゆるく流れてきて、その煙を、ぼくがふっと吹き返す。 「それだけのことだ。理由なんか、何もない」  渋谷で飲んだあと、ぼくらは千秋の部屋でセックスをした。千秋の部屋にはガラスビンに薄紫色のトルコ桔梗が飾られていた。 「最後になって千秋が『退屈ね』と言い、おれが『うん』と答えた」 「………」 「その夜からおれは電話をしなくなった。千秋からも電話はこなかった。だから男と女は、理由なんかなくても、ちゃんと別れられる」  部屋のまん中へ向かって、みかんが長く煙を吹く。みかんの足首が、くるっと回される。 「あんたって、バカね」 「そうかな」 「あんたはチアキを愛してなかった、チアキもあんたを愛してなかった。それだけのことよ」  みかんが勢いよく膝をふって、机を飛びおりる。じろりとぼくの顔を見おろし、口は開かず、くわえタバコで部屋を出ていく。ぼくはとり残され、途方に暮れて、窓枠にこつんと肩を打ちつける。頭には千秋の無表情な横顔が浮かび、耳には「退屈ね」とつぶやいた千秋の声が、ジンマシンのようによみがえる。つきあった期間も、別れて以降も、千秋のほうがぼくにどんな感情を持っていたのか、ぼくは、考えてもみなかった。  耳に千秋の声を残したまま、ぼくは部屋を見まわす。本も小物もない机、装飾のない壁、押し入れに密封された衣装ケースや段ボール箱、それらを観察しても、部屋に対する千秋の愛着は見えてこない。千秋はアパートにも生活の匂いを残さず、男にも友達にも本心を見せず、どこを彷徨《さまよ》っていたのか。  二十分ほど待っても、みかんは戻らず、ぼくは窓を閉めて部屋を出る。千秋が高校生まで暮らした部屋ではあるが、今はただ黴臭いだけの、古くて殺風景な空き部屋だった。  階段に向かって歩きかけたぼくの足が、廊下の途中で止まる。そこには板戸があり、十センチほどの隙間が開いている。部屋から廊下へ薄日のような影が流れ、その隙間に片膝を立てたみかんの横顔が見える。雲隠れをしておきながらちゃんと戸に隙間を開けておくみかんのサービスが、小癪に可笑しかった。  ぼくが板戸を開けても、みかんは顔をあげず、頑固に横顔を向けつづける。押し入れの位置は千秋の部屋と逆向きになっているが、間取りは同じ十畳の和室、押し入れ側にロータイプのベッドがあって、壁にはパステルカラーの壁紙が貼ってある。戸口の右手には木製のケースラック、そのとなりにはスチールの衣類ハンガー、畳にはCDのコンポや小型テレビや、少女雑誌やデイパックやラーメン丼が散らばっている。雑然として目茶苦茶で不統一で、寒いほど整然としていた千秋の部屋とは、裏表のような雰囲気を出している。そういう混沌と混乱のなかに、みかんの背中が横向きに丸まっている。視線はじっと前方に注がれ、壁には大型のキャンバスが立てかけてある。畳にはピクニック用のビニールシートが敷かれ、みかんは澄ました顔でキャンバスに筆を走らせている。  みかんの横顔を眺めながら、ぼくは部屋に入る。キャンバスは横幅が一メートルほど、みかんは立てた膝に左腕と顎をのせ、偉そうにキャンバスを睨んでいる。ビニールシートの上には絵の具箱とパレットがあって、部屋全体にテレピン油が匂っている。さっきまで千秋の部屋で魔術の解説をしていたみかんが、なんの必然があって、油絵なんか描いているのか。 「ふーん、タンポポの絵か」  みかんの頬がひきつり、流し目がぼくの顔を襲う。 「ヒマワリよ」 「ああ、ヒマワリか」  一瞬、ぼくの腕に鳥肌が浮く。みかんはそのまま口をひきしめ、わざとらしい仕種で筆をキャンバスに向ける。絵の具は黄色一色、キャンバスも全面まっ黄色で、言われなければ火事場の風景かと思ってしまう。 「ヒマワリとタンポポ、色が似てるものな」 「………」 「君が画家とは知らなかった。だから君、高校へ行かないのか」  ぼくを無視することに決めたらしく、顎を引いたり突きだしたり、みかんは黙々とキャンバスに絵の具を重ねていく。ヒマワリと言われればたしかにヒマワリで、炎のような黄色の濃淡にかろうじて花弁の輪郭が見てとれる。キャンバスのなかに花は十輪ほど、それらが独立したり折り重なったり、ゴッホ風なのかピカソ風なのか、判断は難しい。他人が見たら幼稚園児のいたずら描きにしか見えない絵に、なんとなく才能を感じるのは、ぼくの贔屓《ひいき》だろう。  みかんの絵には頓着せず、あらためてぼくは部屋を見学する。壁にはバッグや帽子の掛かったフックがあり、そのとなりには古いタッチの風景画が部屋の主のように飾られている。家並も色調も古いから、行徳の港町を描いたものか。サインはローマ字で〔セイゾー・アビコ〕と入っている。壁には他にポスターやカレンダーはなく、勉強机も見当たらない。  ぼくはテレピン油の匂う空気のなかを窓際へ歩き、窓枠に腰をのせて、庭を見おろす。破れ穴の目立つ板塀が見え、細い三尺路地と電柱が見え、塀の内側には勢いを失ったヒマワリも見渡せる。一週間前は天を突くほどだったヒマワリが、もう首をたれ、根元から茎を折った株も混じっている。降りつづいた雨のせいもあるだろうが、季節はこうやって、確実に過ぎていく。  ぼくは突然そのことを思い出し、記憶に苦笑する。思い出したのは千秋の誕生日で、それは十月の十三日、ぼくが酔っぱらって千秋のアパートへ転がり込んだ翌日だった。「無害そうな人に見えたから……」と言った千秋の声が、また耳によみがえる。これまで疑ったこともなく、考えてもみなかったが、渋谷の交差点で千秋と行き合ったのは、本当に偶然だったのか。千秋はためらいもなく歩いてきて、ためらいもなくぼくと飲みなおした。翌日の誕生日をぼくたちは、一日中千秋のベッドで過ごした。千秋がぼくを誘った理由は、誕生日を誰でもいいから「無害そうな人」と過ごしたかったからという、それだけのことだったのか。 「そうか、そういうことか」 「え?」 「一人ごとさ」 「わたしの部屋で一人ごとは言わないで」 「悪かったな」 「あんたは礼儀を知らない」 「君が返事をしないから一人ごとが出た」 「忙しいの」 「さっきまでは暇だった」 「急に忙しくなったの」 「芸術家は気まぐれか」 「わたしの勝手よ。あんたのほうこそ、チアキの部屋で、好きなだけチアキのことを思い出せばいいじゃない」  面倒なやつ、と口には出さず、ぼくはため息を押し返す。沈んでしまった太陽が西の空を朱色に染め、窓に吹く風が耳たぶを冷たく過ぎていく。海が近いせいか、夕方になって、風のなかに潮の匂いが混じっている。 「わたしが高校へ行かない理由は……」  唐突に筆をおき、シートの上で尻をターンさせて、みかんが目をぼくの顔に据える。 「絵には関係ないの、勉強も嫌いじゃないの。学校へ行くと吐き気がして、心臓が苦しくなるの。だからあんたが思ってるほど、わたし、バカじゃないの」  返事を思いつかず、十秒ほど、ぼくは耳たぶに風を吹かせる。それから深呼吸をして、みかんの顔を見返す。 「人間にはいろんな体質があるさ。花粉にアレルギーを起こすやつも、学校にアレルギーを起こすやつも、電車のドアにもアレルギーを起こすやつもいる」 「………」 「本人が困らなくて、他人に迷惑をかけなければ、それでいいさ」 「本気で言ってるの」 「どうだかな」 「あんた、変わり者ね」 「そうかな」 「あんたみたいにヘンな人、初めて会ったわ」 「すぐ馴れるさ。おれは子供のころタコが怖かったけど、あんなヘンなものでも馴れれば美味《うま》い」 「わたし、タコは嫌いよ」 「他に嫌いなものは」 「ちくわ」 「ふーん」 「穴がイヤ。それに二年も前に別れた女に、いつまでも未練たらしい男も、大嫌い」  みかんがごろりと畳をころがり、タバコに火をつけながらベッドの端にもたれる。ポニーテールが乱れ、前髪が頬にかかり、パーカーの襟口にブラジャーが覗く。 「おれが千秋のことで思い出せるのは、アップルパイが好物だったことぐらいだ」 「なんの話よ」 「未練ではないということ」 「あら、そう」 「未練を感じるほどおれは千秋のことを、覚えていなかった」 「………」 「おれの姉貴、テレビ局の報道部に勤めててさ。千秋の事件も、君のことも、容疑者の尾崎のことも、みんな姉貴に教えられた」  タバコの煙が天井に流れて、空気がいやな肌触りに重くなる。みかんの視線が光りながら、きりきりとぼくの顔に集中する。 「君に会うことも最初は姉貴に頼まれた。探偵のまね事はいやだったけど、姉貴への義理で、関係者の話を聞いてまわった」  灰がこぼれ、しかしみかんは落ちた灰を払わず、目の色を深くしながら、じっとぼくの顔を睨みつける。 「君には初めから言うべきだった。黙っていたことで結果的に、君を騙してしまった。君がおれを信じなくなっても仕方はない」  みかんの膝が胸元に引かれ、タバコが灰皿でつぶされる。寒くはないはずなのに、みかんの足先が寒そうに痙攣《けいれん》する。 「事件に関わったのは姉貴への義理と、ただの好奇心だ。君が信じても、信じなくても、千秋への未練はなかった。君を騙していたことは謝る。でも君に誤解されたままだと、明日から油揚げがまずくなる」  灰皿でも飛んでくるか、絶叫でも飛び出すかと、ぼくは覚悟を決める。みかんの目は青い燐光をはなち、空気の緊張とみかんの鼻息が、ひりひりとぼくの背中を寒くする。  不意にみかんが腰をあげ、空気に亀裂が入る。みかんの躰から冷たい風が刃物のように吹き寄せる。平手打ちを覚悟し、窓から突き落とされないように、ぼくは背中の後ろで手すりを握りしめる。  息を止めてみかんがぼくの顔を睨み、ぼくの手に汗がにじむ。突然みかんの足が動き、戸口へ向かう。部屋を出ていくのかと思ったが、みかんはケースラックの前で足を止め、ラックからプラスチックの洗面器をおろしてくる。洗面器がなぜそんなところにのっているのか、この事態を予想して、ぼくに浴びせる水でも用意しておいたのか。  ぼくの戸惑いを無視して、みかんが洗面器を下におく。洗面器には一房の水草が浮かび、水草をとり囲んで糸屑ほどの黒点が漂っている。水は少し生臭く、洗面器にはアオコの汚れが見える。しばらく洗面器に意識を集中させ、そしてやっと、ぼくは糸屑の正体を理解する。 「メダカの仔か……」  みかんが池からすくっていたときは綿埃のようだった仔メダカが、今は糸屑ほどに成長している。あまりの混雑に数も知れないが、密度からして、百匹はいるだろう。 「大きくなった、君はメダカを育てる天才だな」 「………」 「だけど、こんなにたくさん、佃煮にでもするのか」 「あんた、窓から落とすわよ」 「だいじょうぶだ。さっきから手すりを掴んでいる」  薄っぺらいみかんの胸が、大きく息を吸う。目のまわりに赤みが浮かび、白い咽から唸り声がこぼれ出る。それでも目の殺気は消え、鼻息も穏やかな音に変わっている。 「ねえ、だけど……」  尻を窓際へ移動させ、肘をぼくの膝に引っかけて、みかんが洗面器を覗く。 「このメダカたち、どうしよう」 「佃煮でいいさ」 「まじめな話よ」 「江戸川にでも放してやるか」 「水が汚すぎる。せっかく生まれてきて汚い水で死ぬなんて、可哀そう」 「友達にでも……」  言いかけて、ぼくは自分の手で首の後ろを叩く。みかんに友達がいれば苦労はしないだろうに、膝におかれたみかんの肘が、ほんの少し、ぼくの常識を狂わせる。 「庭に新しい池を掘るんだな。大きく掘ってメダカの養殖業を始める」 「………」 「新種のメダカを開発して大儲けだ」 「新種のメダカって」 「鯉より大きくすれば魚屋に卸せる」 「あんたと話すと疲れるわ」 「うん、でもやっぱり、江戸川だな」 「どうせなら洗足池ね。あそこの池、川からきれいな水が流れ込んでいた。洗足池ならこの仔たちも生き残れる」  洗足池だって、みかんが言うほど、水はきれいでもないだろう。鯉やアヒルやトンボのヤゴや、敵も多くいる。そんなところで仔メダカが生き残るとも思えないが、みかんの気が済むなら異議はない。みかんの人生から一つでも屈託が消えてくれれば、ぼくの罪も少しは軽くなる。  みかんがふり返り、髪の匂いがぼくの顔に飛ぶ。理由の分からない苦笑が、ふとぼくの口からもれる。 「なあに」 「いや……メダカ、生き残るといいな」 「少しでいいの。何匹か生き残ればその仔たちがまた子供を産んで、わたしのメダカが増えていく」 「それで最後は佃煮か」 「あんた、撲《ぶ》つからね」  みかんの拳があがって鼻の穴がふくらむ。ぼくがその手首を掴む。歯をむき出したみかんの顔へ、ぼくが自分の顔を近づける。  みかんの拳から力が抜け、呼吸が止まって、目が怯える。 「前歯に煎餅の海苔がついてるぞ」 「え?」 「だけどいい差し歯だ。自分の歯と、区別できないものな」  窓の外でカラスが鳴き、目の前を秋のハエが飛ぶ。風がみかんのほつれ毛をゆすって、細いみかんの肩が瘧《おこり》のようにふるえる。  笑いだしたみかんが身をもがいてぼくの手をふりほどき、ベッドにダイビングする。みかんは背中を丸め、足をばたつかせ、両手で枕を叩きながら、カナリアとウミネコとコオロギが交互に鳴くような声で、壮絶に笑う。  ぼくは呆れながら安心し、戸口へ歩いて、部屋の電気をつける。みかんは笑いつづけ、ぼくは壁の風景画に向かい合う。古い行徳の町は瓦屋根も板塀も、手抜きのない筆致で繊細に描き込まれている。空は陰鬱な灰緑色で曇り空なのか夕景なのか、季節は分からない。かなりのテクニックとは思うものの、配色や構成にどんよりとした倦怠が感じられる。  気がついたとき、みかんは笑いを収めていて、上気した顔でベッドに胡座《あぐら》をかいている。目には涙がたまり、ごていねいに鼻水までたらしている。ぼくはベッドのみかんと、みかんが描いていたヒマワリの絵を見くらべる。 「君の絵と親父さんの絵、似てないな」  涙を拭きながら、みかんがベッドを端まで動いてくる。 「親父は天才だった。絵もうまかったし仏像なんかも彫れて、俳句も名人だった。ギリシャ哲学の本を翻訳したこともある」 「マルチ芸術家か」 「世間には認められなかったけどね。親父は売り込みが下手だった。才能は誰にも負けなかったのに、お人好しで、プライドが高かったの」 「おれは君の絵のほうが好きだな」 「わたしの絵はゴミよ」 「絵なんて見る側が気持ち良ければ、それでいいさ」 「さっきはタンポポだと言ったくせに」 「君の絵がタンポポでもタンポンでも、見てるだけで嬉しくなる。才能なんて、そんなもんだ」  何か言いかけ、みかんが口をつぐんで、両手で頬を挟む。みかんがぼくに対して照れてみせたのは、知り合って以来、初めてだろう。  芸術談義を打ち切り、ぼくは窓の外に目をやる。 「君、ビールは飲めるか」 「子供のときから飲んでる」 「そうか、タバコも吸ってるしな」 「不良だもの」 「生意気な不良だ」 「不良は生意気に決まってるわ」 「とにかくお祝いにビールを飲もう」 「なんのお祝い?」 「君の前歯が入ったお祝い」 「今夜はお袋の病院へ行くの」 「ああ、そうか」 「でも夕飯ならつきあう。あんた、ドジョウは好き?」 「たぶん、好きだと思う」 「駅のそばにおいしいドジョウ屋があるの。そこのドジョウ鍋はネギとゴボウとニンニクが入っていて、躰が温まるの」 「それは、よかった」 「わたしもしばらく行ってない。親父が生きてたころは……」  最後の言葉を濁して、みかんがベッドをおりる。部屋の電気に向かって羽虫が舞い込み、階下からは戸締りの音が聞こえてくる。 「ニンニク入りのドジョウ鍋、か。たしかに躰が温まりそうだ」 「骨煎餅だって美味しい」 「ドジョウ屋で油揚げを出すのか」 「油揚げは別。去年まで本行徳に手造り油揚げのお店があって、そこの油揚げは日本一美味しかった。あんな美味しい油揚げ、もう二度と食べられない」 「今、その店は?」 「お爺さんが死んでお店を閉めたの。その前の年は湊《みなと》の納豆屋も店じまいした。あそこの納豆も、日本一美味しかった」  畳からデイパックと帽子を拾いあげて、窓を閉めながら、みかんがうなずく。口元には生意気な微笑みが浮かび、目には素直な無邪気さが戻っている。戸口へ向かうみかんの背中に、ついぼくも笑ってしまう。  みかんが閉めたばかりの窓も、外はもう暗くなっている。   Interlude  ついにここまで来たか……と、クルーザーの操縦桿を握りながら、尾崎喬夫は前方の瀬戸大橋に目を凝らす。水平線と空の区別は曖昧で、靄《もや》った空に優美な橋貌が浮かんでいる。前方のタンカーは水島コンビナートへでも向かうのか、見渡すかぎり他に船はなく、瀬戸大橋をトラックと観光バスが豆粒のように走り去る。  下津井という港町で生まれた尾崎の夢は、自分のクルーザーを持つことだった。父親はガソリンスタンドの店員、母親も漁協のパートタイマーで、クルーザーとヨットに区別もつかない人間だった。そんな両親に生まれながら、尾崎は運が良かった。百八十センチを超える身長と端整な顔立ちは、中学時代から同級の女子に騒がれた。  一流大学を出て一流企業へ入り、社会の階段をのぼる。その過程では自分の外見が役に立つ。尾崎はそのときから人生の目標を定め、時間のすべてを勉強に費やした。親兄弟は呆れ、友達も陰口をきいたが、尾崎は人生が〔顔と学歴〕である現実を知っていた。アルバイトをしながら国立大学を卒業し、ファイン化粧品に入社してからは、すべてが順調だった。結婚相手はオーナー一族の娘、三十三歳でもうクルーザーを手に入れた。実際に今自分の手で操縦桿を握り、クルーザーの舳先を故郷の下津井港へ向けている。瀬戸大橋は尾崎を歓迎して満艦飾の明かりを灯し、金色の波がひたひたと押し寄せる。運もよかったが、やはりこれは、努力の結果なのだ。自分の人生設計は正しかった。人生はこれからも正しい方向へ進んでいく。このクルーザーを見たら、親や昔の友達は、腰を抜かして驚くだろう。  だけどクルーザーにしては、ずいぶん水面が近いな……と思ったとき、船がモーターボートに変身する。靄っていた瀬戸内海が河口湖の風景に変化する。  なんだ、夢だったのか。そういえばファイン化粧品の課長補佐ぐらいで、クルーザーなんか買えるわけはない。このモーターボートだって所有者は女房の実家、尾崎は別荘へ遊びにきて、ワカサギを釣っているだけなのだ。それでも、まあ、人生はそこそこ予定通りに運んでいる。四十歳までには部長になって、五十歳までには役員になる。そこで実績を残せば社長の椅子にも手がとどく。別荘ぐらいいくらでも買えるし、クルーザーも手に入る。そうやって下津井の故郷へ帰るときは、クルーザーに安彦千秋を乗せていこう。自分を狂わせ、人生を破滅させた女だが……しかし、自分の人生は、いつ破滅したのだろう。  そういえば、この浮遊感は、どうしたことだ。いくらちっぽけなモーターボートといえ、なぜ自分がこれほど濡れているのか。そうか、ここは、水の中か。水の中なのに呼吸は軽く、躰も魚のように浮いている。暗い水中に明かりが射し、パートの母親が自転車で帰ってくる。母親のうしろから沢山の魚がついてくる。尾崎は声に出して笑ってしまう。  魚の群れはまるでメダカの群れのように、ざわざわ、ごちゃごちゃ、はしゃぎながら母親を追ってくる。母親の自転車が目の前を通過し、メダカほどだった小魚の群れが変身する。魚たちはピラニアのような顔になって、はしゃぎながら、ざわざわ、ごちゃごちゃ、突如尾崎に向かってくる。  母さん、可笑しいよ。母さん、そんなことはあり得ないよ。  笑ったはずなのに、もう声は出ず、肺のなかに水が充満して、一瞬尾崎は、正気を取り戻した。   N  空気に湿度の重さはあるが、それでも淡色の陽射しは降りそそぐ。ネオマスカットの房が呑気にたれさがり、花壇の上をシロ蝶が往きすぎる。ぼくは葡萄棚の下にデッキチェアを引き出し、光の明暗を漫然と眺めている。腹の上には〔貴女と私の幸せ黒魔術〕が開かれていて、気が向いたときは意味不明な呪文が目に入る。目では文字面を追っているつもりでも、内容のばからしさに集中力が霧散する。  四十雀《しじゆうから》がちっちっと鳴いて、柿の木に目を向ける。まだ葉のしげる大木に小粒な柿が青い実を覗かせている。〔禅寺丸〕という品種の柿は死んだ祖父が植えたもので、樹齢は四十年を超えている。たいして甘い柿でもないが、次郎柿や富有柿が主流の現在では貴重な古品種だという。  柿の他にも庭には無花果《いちじく》、ブルーベリー、梅などの果樹が植わっている。棚作りにしているネオマスカットや孟宗の筍をふくめれば、春から秋まで結構な収穫になる。祖父が残したこれらの果樹に、水穂もお袋も興味を示さず、ぼくが一人で旬の味覚にほくそ笑む。葡萄や無花果の賞味はもちろん、春には筍を掘って刺し身や筍飯をつくり、梅も梅酒やシソ漬に始末する。水穂なんか、自分では庭木に手も触れないくせに、秋にはぼくの干し柿を督促する。  半分眠っていた頭に意識が戻り、ぼくはまた本に目を向ける。ページの途中には魔方陣や黒ミサのイラストが挿入されている。内容はオマジナイの羅列で、見出しには〔恋愛を成就させる法〕だの〔不倫を解消させる法〕だの、あざとい文句が並んでいる。なかには〔ストーカーを撃退する法〕とかいうのもあって、ちなみにそのオマジナイは〔まず沐浴して身を清め、白い清浄な下着をつけ、額の両端に火をつけたロウソクをくくりつける。それから針で指先に傷をつけ、出てきた血を三度すすって部屋を暗くし、呪文として「アドナイ・エロヒム・ツァバオト・シャダイの名において、全能の支配たる神の名において、我を悪意から遠ざけよ。我に害をなす者をこの世から放逐せよ」と唱え、そして精霊の浮遊する空気を腕いっぱいに抱き、また「エヘイエーにおいて、アナポディティオンにおいて、口には出せぬ神の名において、すべての邪悪なる者から我を遠ざけよ。我に敵対する反抗的な霊ども、すべて全能なる神の御元にひざまずけ」とつづけ、最後「アーメン」と唱えて十字を切る〕のだという。ストーカーが窓から覗いていて、女の子がこんな儀式を始めたら、たしかに恐れをなして退散する。これを魔術と呼ぶか、田舎芝居と呼ぶか、しかしストーカーの被害者の、誰がこんな黒魔術を試すのだろう。 〔借金苦から脱出する法〕、〔地位と名声を獲得する法〕と読みすすみ、目蓋からまた力が抜けかけたとき、書斎の窓からお袋が首を突きだす。 「広也くん、居間のテレビをつけてごらんなさい。水穂がどこかからレポートを送ってるわ」 「………」 「河口湖とかいってる。あらあら、いつかの殺人事件に関係したことらしいわ。水穂も入院したり出張したり、忙しい性格よねえ」  今日のお袋は家にいて、書斎兼仕事部屋で新しい猫グッズの試作をやっている。玩具メーカーとタイアップし、人間の声に反応するヌイグルミロボットを作るのだという。キャラクターはもう決まっているから、要点は猫の表情や首の角度、寝姿の体型や尾っぽの巻き方など、微妙な調節にあるらしい。  しかしもちろん、今の問題はお袋の猫グッズではなく、テレビに出ているという水穂のことだ。麻布の病院に入院しているはずの水穂が、河口湖なんかで、何をレポートしているのか。  支離滅裂な気分のまま、とにかく居間に戻り、リモコンでテレビをつける。すぐに画面があらわれ、なるほど、マイクを斜に構えた水穂が見事な化粧を見せている。大事件らしいから笑顔はないものの、声と表情には媚がある。黒のジャケットに大襟のブラウス、マイクを握る指にはさり気なくティファニーのリングを光らせる。  番組が途中だったので、内容が理解できず、ぼくは立ったまま画面に意識を集中させる。ワイドショーでの重大事件は名古屋の〔小学生首吊り殺人〕のはずで、しかし今水穂の送っているレポートは、その事件とは別らしい。  マイクを握った水穂の口から「尾崎容疑者」という言葉が吐き出され、ぼくの神経が収斂《しゆうれん》する。水穂の背後には湖面と森が見え、洗足池と同じ光がゆらゆらとゆれ動く。  VTRをまじえた水穂の報告は、次のようになる。  発端は今朝の午前八時ごろ、河口湖の周道を散歩していたリゾート客が湖岸近くに黒っぽい浮遊物を発見した。釣り人の捨てた衣類か、ゴミ袋か。そう思って凝視するうちに、なにやら人間のようにも見えてきた。リゾート客はあわててホテルへ帰り、従業員をともなって湖岸に戻ってきた。複数の目で眺めても、やはり人間らしく、従業員が携帯電話で一一〇番通報した。地元の警察が駆けつけ、ボートで浮遊物を回収、人間の遺体であることが確認され、山梨県警本部からも初動捜査班が到着した。現場で検証を始めてみると、遺体の身元は運転免許証と名刺から、尾崎喬夫と判明。尾崎は警視庁から放火殺人事件の重要参考人として指名手配されており、事件は急展開をみせた。警視庁からも担当捜査員が駆けつけ、尾崎の変死は東京の〔ソーシャルワーカー放火殺人事件〕と関連ありとして、県警と警視庁の合同捜査が開始された。尾崎の遺体に目立った損傷はなく、溺死と見られるが、詳しい死因は司法解剖の結果を待って報告される。  番組が芸能ニュースに変わってからも、ぼくはまだ立ち尽くしていた。軽い悪寒が首筋を圧迫し、口が乾く。入院しているはずの水穂が河口湖にいること自体が驚きなのに、千秋殺しの容疑者である尾崎喬夫の溺死というのは、どういうことか。現場の状況や尾崎が死に至るまでの経緯、その他一切が不明なのは、警察が発表を控えているせいだろう。  事故か、他殺か、自殺か。ぼくの背中には〔いやな感じ〕が、ムカデのように這いまわる。千秋の義父も、宮部という高校時代の男友達も、千秋殺しの犯人と目されている尾崎喬夫も、海と湖の相違こそあれ、すべてが溺死なのだ。  胃のあたりが不愉快になって、我に返り、ぼくは熱っぽくなった躰をソファへ凭《もた》れさせる。「殺されるとき、チアキなら犯人に呪いをかけたはず」と言ったみかんの台詞が、嘔吐のようによみがえる。ビニール袋の内側からぼくを見つめていたネズミのミイラ、訳の分からぬ文字を書きつけた二本のナイフ、甘ったるい匂いを放つ粘土状物質や大量の魔術本、それらの風景も同時によみがえり、手のひらに汗がにじみ出る。「まさか……」という言葉が、自覚のないまま、声になって口をつく。魔術や呪いはこの世に存在せず、三つの溺死事件はすべて偶然だとしても、千秋に関係した男たちの死因がここまで共通する確率は、果たして、どれほどのものか。かりに尾崎の溺死が千秋の呪いだったとすれば、清造や宮部の死は、なんの結果なのか。  そんな、ばかな……とぼくが一人ごとを言ったとき、お袋が仕事部屋から顔を出す。アフロヘアに草木染の長袖ブラウス、青紫のアイシャドウと口紅という出立ちも、本人にとっては無茶な配色でもないらしい。 「広也くん、テレビは見たでしょう」 「うん」 「不思議よねえ、水穂はまだ入院してるはずじゃない」 「そんなこと、知るかよ」 「病院から河口湖まで飛行機で飛んだのかしら」 「魔法の箒だろう」 「あら、そうなの?」 「冗談さ。三日の入院と言ってたけど、朝でも夜でも三日は三日だ」 「忙しい子よねえ。せっかくの入院なんだから、ゆっくり休めばいいのに」  そう思うのは、お袋やぼくのような一般人の発想で、水穂本人は自分を報道部のエースと信じている。病院から飛び出し、怒涛の迫力でメイクや衣装調達に奔走する水穂の活躍が、ぼくには目に見えるようだった。 「あらあら、もう三時になるの。広也くん、お紅茶でも飲む?」 「うん」 「シナモンティー? ミントティー?」 「ミントティー」  フレアスカートをゆすって、お袋がキッチンへ歩く。ぼくは胃に灰色の塊を飲み込んだまま、ソファの背もたれに頭を押しつける。失踪中の尾崎喬夫が捕まれば、千秋の事件に結論が出ると思っていたのに、その本人がいなくなって、事件はどこへ行くのか。警察だって、ただ怪しいから、というだけの理由で尾崎を追っていたわけではないだろう。物証とか状況証拠とか、何かはあったにちがいない。テレビのワイドショーもそんな観測を流していたし、尾崎犯人説は既定の事実だった。状況は尾崎だって知っていたはずで、無実なら出頭するか、マスコミに連絡をとったろう。逃亡をつづけていたこと自体尾崎が犯人であることの証拠で、そして尾崎は逃げきれず、自棄《やけ》をおこして河口湖へ飛び込んだ。簡単な結末ではあるが、容疑者の自殺で事件が決着する例はこれまでにもある。ぼくの胃を不愉快にしているのは、尾崎の死そのものではなく、〔溺死〕というスタイルだった。  考えても仕方ない。水穂のケイタイへ連絡してみるか、と思ったとき居間の電話が鳴って、受話器をとると、相手は当の水穂だった。 「あら、広也、昼間から家で何をしてるのよ」 「本を読んでた」 「相変わらず暇な子ねえ、お天気がいいんだから渋谷あたりでナンパでもしなさいよ」 「姉さんこそ、病院のはずだろう」 「寝惚けたことを言わないでよ、あんたもテレビは見たでしょう」 「うん」 「ビデオを撮ってくれた?」 「忘れた」 「もう少し気合を入れてよ、私のビデオはプレミアがつくんだから」 「ああ、そう」 「六時のニュースでまた実況する、今度はタイマーをセットして」 「分かった」 「それより私の髪形、どうだった?」 「よかったさ」 「なにしろ病院から直行でしょう。セットの暇はないしヘアメイクは連れてこなかったし、もうぐちゃぐちゃ」 「現場の緊迫感は出てた」 「お化粧のノリは?」 「完璧さ、またファンレターが殺到するな」 「どうしたのよ広也、あんた、今日はばかに正直じゃない」 「おれは、いつだって……」  言いかけて、ぼくは自分の用件を思い出し、受話器を構えなおす。 「姉さん、尾崎の死因、本当に溺死なのか」 「どうしてよ」 「気になるんだ」 「まだ司法解剖は始まってないの。でも鑑識のベテランには聞いてみた。尾崎は肺に大量の水を飲んでる」 「事故とか、自殺とか」 「それはまだ分からない。夕方には警察の発表があるから、そのときはっきりするわ」 「姉さんの感触では?」 「自殺じゃないかしらね。ばかばかしいけど、追い詰められた犯人が自棄を起こすって、よくあることだもの」 「女に未練たらしい男は人生にも未練たらしいと言ったろう」 「誰が?」 「姉さんが」 「あら、そう」 「だから……」 「でも今回は自殺で決まりよ、状況が揃いすぎてるもの。これで放火事件は尻つぼみ、やっぱり名古屋の首吊り殺人には敵《かな》わなかったわ」 「姉さん」 「なによ」 「安彦清造が海に落ちたとき、目撃者がいたんだよな」 「なんの話?」 「千秋の親父さんが死んだときの話さ」 「だから、それが何なのよ」 「その目撃者、名前とか住所とか、分かるかな」 「なにを面倒なこと言ってるの。そんなことが尾崎の溺死に関係でもあるの」 「それが……」 「はっきり言いなさいよ」 「うまく説明できないんだ、とくに電話では、言いにくい」 「目撃者の名前と住所を知りたいわけ」 「うん」 「調べるぐらいは簡単だけど」 「頼む」 「今すぐ?」 「できれば」 「十分で連絡するわ」 「ありがとう」 「ねえ広也、私も夜中前には東京へ帰るから、例の焼き鳥スナックで待ってなさいよ。あんたには入院のときも世話をかけたし、私も愛する弟と飲みたいわ」 「ふーん」 「十一時には戻れると思う」 「うん」 「目撃者の件は折り返し連絡する、それよりビデオのセットを忘れないで。背景の河口湖と衣装の関係をチェックしたいのよ。あんたは性格がウッカリだから、忘れないうちにタイマーをかけておいて」  返事もしないうちに水穂が電話を切り、ぼくも受話器をおいて、それから指令どおりビデオを六時のニュースにセットする。実況のVTRぐらいテレビ局で管理しているだろうに、水穂はあくまで「一般家庭に放映されたときの臨場感を検証したい」のだという。  キッチンから、お袋がアフリカ土産の盆を運んでくる。盆にはティーセットとザクロのフルーツクッキーがのっている。 「そういえば広也くん……」  ポットからカップにミントティーを注ぎ、足をゆっくり組んで、お袋が言う。 「今年はブルーベリーのジャムをつくらないの?」 「忙しいんだ」 「横倉さんのお嬢さんが楽しみにしてるのに」 「横倉さんって」 「川崎で食品会社をやってる人、ユズ入りのカマボコがヒットして大儲けをしたの。テレビでもコマーシャルをやってるじゃない」 「それが?」 「横倉さんのお嬢さん、鬱病がひどくて伊豆の病院に入院されてるのよ。今はいい薬があるはずなのに、よほど重症みたいね」 「それがブルーベリーのジャムと、なんの関係があるのさ」 「お嬢さんが広也くんのジャムを気に入ったらしいの」 「ふーん、そう」 「去年ね、私がたまたま横倉さんに差しあげた広也くんのジャムを、お嬢さんの病院へ届けたんですって。そうしたらお嬢さん、ジャムを一口なめて、ニッコリ笑ったんですって」 「………」 「お嬢さんが笑ったのは五年ぶりらしいから、よほど広也くんのジャムが気に入ったのよ。だから横倉さんも、今ごろ広也くんのジャムを心待ちにしているわ」  カップをとって、ミントティーを一口すすり、ついでにクッキーを口に入れる。庭の四十雀は梅の木に移ったらしく、葡萄棚の西側からちっちっと鳴きかける。来月にはツグミやジョウビタキも渡ってきて、洗足池も冬の支度を開始する。 「ねえ広也くん」 「うん?」 「欠伸なんて似合わないわよねえ」 「ええと、なに」 「メーカーの人が猫に欠伸をさせろと言うの」 「ああ、猫ロボットか」 「広也くんはどう思う?」 「カッポレでも踊らせたら」 「まじめな話なのよ。そりゃコンピュータが何かするらしいから、表情をつけるのは簡単よ。でも猫が欠伸をする顔って、可愛くないでしょう?」 「さあ、どうかな」 「欠伸をさせると牙が出てしまう、牙は肉食動物の獰猛《どうもう》さを感じさせるわ」 「どうせロボットさ」 「薄情な子ねえ。今度のニャン太に怖い顔をさせたら、これまでのイメージも壊れてしまうのよ」 「そうじゃなくて、牙のこと」 「牙の、なあに」 「ロボットに牙はいらない」 「あら」 「歯なんか本物に似せることはないさ」 「あら、そういえば、そうよねえ」 「どうせヌイグルミのロボットだ、欠伸をしたら顎がはずれるとか、小便をもらすとか、そっちのほうがお洒落じゃないか」  お袋のアイシャドウが目蓋の向こうにめくれ、目が丸くなって、青紫色の唇から吐息がこぼれ出る。ポットの湯気がミントの香りを飛ばし、アフロヘアが頭の上でちりちりと踊りだす。 「そうよねえ。私としたことが、何を考えてたのかしら。ニャン太は生まれたときから私が育ててきたんだし、牙みたいな醜いもの、あるほうが不自然よねえ」  ふわりと腰をあげて、お袋が仕事部屋へ歩きだす。もうぼくを眼中に入れず、フレアスカートを夢遊病のように運んでいく。ブルーベリージャムの件はどうするのか、ぼくは声をかける気にもならなかった。   O  正門の内でも外でも、軽装の学生たちが淡く夕日を受けている。芳山大学のお茶の水本校舎は、三年と四年と大学院生が利用する。狭い敷地に公団住宅を押し込んだような構造で、まだ学生気分の抜けないぼくも、正門をくぐると気分が重くなる。  正門から玄関ホールへ入り、東棟の三階へ向かう。卒業して半年、〔学生〕という存在を外側から眺めながら、大学院での勉強も悪くないかなと、ぼくはちょっと、そんなことを考える。  教授や助教授の研究室が並ぶ廊下に、〔増田教室〕と横札の掛かったドアがあり、ノックをしてドアを開ける。〔増田教室〕に入ったことはなかったが、間取りは他の研究室と似たようなものだ。ドアのすぐ内側がテーブルのあるディスカッションルーム、その向こうにガラスの衝立があり、衝立脇のデスクには女の助手が座っている。助手は縁無しメガネをかけ、虫歯を我慢するような顔でパソコンの画面を睨んでいる。歳は今年大学院を卒業したぐらいか、前髪を無造作にヘアピンで止め、化粧のない顔に真珠のピアスが瑞々しい。  その助手に会釈をして、ぼくは部屋を奥へ進む。増田正樹がデスクに片足を投げ出している。ぼくは増田に深く礼をする。 「今年史学科を卒業した山口です、お忙しいところをお邪魔します」  増田助教授が髯面を上向け、競馬新聞の端からぼくの顔を盗み見る。 「先生の〔貴女と私の幸せ黒魔術〕を読ませていただきました。その件で、お話をうかがえればと思います」  増田の不精髯がゆがみ、足の先で茶色の革サンダルが、面倒臭そうに上下する。 「山口くんといったかね」 「はい」 「そりゃあダメだよ、俺に言ってくるのは筋違いだ。君自身の精進が足らんか、呪文の言葉を間違えたんだろう」 「いえ」 「〔希望する企業へ就職する法〕を試したんだろう、それで効果がなかったから苦情を言いにきた。そういう学生に限って精進や集中力が足らんものさ。魔術を使いこなすには才能と経験が肝要だ。君も他人のせいにはせず、もうしばらく努力をしてみるといい」  魔術には経験と才能が必要、好結果が出れば魔術のせい、不首尾だったら本人のせいと、詐欺師に似た論法だ。増田としてはそれより方法はないのだろうが、呪文が効いたとか、効かなかったとか、本気で文句を言う人間がいるらしい。 「教えていただきたいのは……」  一歩前へ進み、逃げようとする増田の視線を、ぼくが追う。 「呪文やテクニックの問題ではなく、魔術の本質というか、意義というか、そういうことです」  競馬新聞の向こうから、ふと増田の落ちくぼんだ目が戻ってくる。ゆれていた革サンダルが机の下におろされ、尖った鼻が皮肉っぽく右へ曲がって、口に揶揄の笑いが浮く。 「君、本当に苦情ではないのかね」 「純粋な興味です」 「変わった学生だなあ」 「OBです」 「なぜブラックデビル・マスダを知っている?」 「テレビの深夜番組で拝見しました」 「ほーう、あの番組をなあ」 「偶然です」 「史学科といったか」 「はい」 「ゼミは?」 「日本の近世史を取りました。先生の西洋中世史の講義も、三年のときに受講しました」 「気の毒になあ」 「はい?」 「今どき芳山の史学科を出たって、就職もできなかろう」 「まあ、そうですね」 「就職浪人かね」 「本人は気にしていません」 「いい心掛けだ。大学を出てすぐ二十万も初任給を取ろうなんて、虫がよすぎる。寿司屋だってタクシーの運転手だって、一人前になるのに十年はかかる。ホームレスだってプロになるにはしきたりとか仁義とか、それなりの修業が必要だそうだ。世の中は若い連中が思ってるほど、甘くはないわけだよ」  何を言ってるのか、真意は不明だったが、増田もぼくの律儀さには好意を持ったらしい。もてあそんでいた競馬新聞を、ぽいとデスクに放り出す。 「そうか、君はあの本を読んでくれたのか。二千部も刷ったのに五百部しか売れなかった。今から思えばタイトルが甘かったかな。今度本を出すときにはもっとストレートに〔家庭内暴力から脱出する黒魔術〕とか〔黒魔術でリストラを蹴散らせ〕とか、大衆に迎合するタイトルにしてやろう」  増田が顎をしゃくって、ぼくにデスク前の椅子をすすめる。ぼくは浅く椅子に腰をおろす。ぼくの関心は〔この世に魔術は存在するか〕の一点だったが、そんな紋切り型の質問では失礼になる。〔貴女と私の幸せ黒魔術〕は眉唾でも、増田の専門は西洋中世史、魔術にもそれなりの蘊蓄《うんちく》はあるだろう。 「で、君の言う……」  デスクからタバコを取りあげ、火をつけながら、増田が落ちくぼんだ目を見開く。 「魔術の本質とか意義とかいうのは、どういう意味かね」 「魔術そのものが分かりません」 「何も分からんで質問にきたのか」 「定義というか、そのあたりから、教えていただけますか」 「定義といったって……」  天井に向かって長く煙を吹き、増田がぼさぼさの髪を指できあげる。胃の具合でも悪いのか、唇はささくれ、顔の皮膚も澱んだような灰色に見える。 「常識的にはありえない現象を作為的に創り出す技術を、一般的に魔術というだけさ。ただ、まあ、魔術を西洋起源のマジックに限定すれば、話はちがってくる」 「限定してもらえますか」 「変わった学生だなあ。オカルトおたくにも見えんが、こだわる理由でもあるのかね」 「彼女が魔術に凝っています」 「なーんだ、女のせいか」 「はい」 「就職もせんで女に現《うつつ》を抜かしていられるとは、いい世の中だ。もっともそういう学生のお陰で俺もこの椅子に座ってられる……人のことは言えんよなあ」  自嘲気味に笑って、タバコを灰皿でつぶし、増田が頬の不精髯をこすりあげる。口調に皮肉はあっても、目に邪気はなく、魔術の話題にも興味を感じたらしい。 「魔術に否定的な概念が加わったのは、中世にキリスト教が無茶な価値観を押しつけて以降のことだよ。それまでは魔術に白も黒もなかった。化学も医学も天文学も、みんな同等の�マジック�だったわけさ。アリストテレスの時代からヨーロッパ人が錬金術に凝ってきた歴史は、君も知っているだろう」 「はい」 「鉛や銅を金や銀に変えられると、十六世紀ごろまでは本気で信じてたんだな。中世ヨーロッパでもっとも偉大な錬金術師といわれたパラケルススなんておじさんは、同時にもっとも偉大な医者であり、もっとも偉大な化学者でもあった。そういうことで、それだけなら錬金術から化学や医学が発展して、めでたしめでたしだ。しかしそうは問屋が卸さんのが、歴史の面白いところだよ。カトリック教会という面倒な権威が顔を出すと、錬金術業界も様相が一変する。教会は錬金術を否定し、禁令を出し、錬金術を弾圧した。ところが錬金術師の多くはカトリックの坊さんでもあったから、法王庁は異端としてその坊さんたちを弾圧する。弾圧された坊さんたちは秘密結社のなかに逃げ込む……前置きが長くなったが、教会に弾圧された錬金術師が地下にもぐって、話がやっと魔術っぽくなるわけだよ」  一度言葉を切り、咳払いをして、増田が肘かけ椅子に深く座りなおす。 「教会は宗教的権威であると同時に、現世的な権力でもあるだろう。だから教会は威信をかけて錬金術を弾圧する。錬金術師たちはいよいよ地下にもぐり、怪しい実験や薬品の開発に専念する。その状況を端から見たら、どう見えるね。薄暗い穴蔵のような地下室で人目を避け、当時一般には無縁だったフラスコや蒸留装置で奇妙な薬をつくっている。錬金術師は医者でもあったから、薬草や動物や昆虫や、そんなものを鍋でぐつぐつ煮たりする。その薬をもらって飲むと、まぐれで病気が治ることもある。そういう連中を一般大衆から見れば、魔術師以外の何者でもない。医者のほうも自分を権威づけるため、魔術でつくった秘薬だとか、それぐらいの法螺《ほら》は吹いたにちがいないさ。大衆は医者を尊敬もし、恐れもした。そういう時代がしばらくつづいて、それからついに一四八四年、法王庁が〔緊急の要請〕という勅令を出したわけだ」  天井に向けて煙を吐き、眉間をゆがめて、増田が舌で唇をなめる。その灰色の皮膚に、いくらか赤みが浮かんでくる。 「愚かなことをしたもんだが、人間の歴史は愚かさの歴史でもあるんだよなあ」 「………」 「その勅令で、法王庁は、なんと魔女の存在を認めたんだ。それから二年で〔魔女の鉄槌〕という本が出されて、本格的な魔女狩りが始まった。この本を書いたのはドイツのドミニコ会士だった。下品で恐ろしくて邪悪な魔女、というイメージはこの本で定着したんだ。魔女狩りの対象になったのは、錬金術の流れをくむ民間医療師や呪術師だったが、それは最初のころだけで、あとはもう片っ端だ。教会に行かないとか、逆に行き過ぎて怪しいとか、手当たり次第に殺しまくった。魔女といっても犠牲者は女だけでなく、男も子供もいた。魔女裁判は拷問で自白を強要するだけ、自白をすれば魔女、自白をしなければ、自白をしないという理由でやはり魔女。そんなばかばかしい魔女裁判が十八世紀までつづいたという。ヨーロッパ人のこういうばかばかしい情熱には、まったく恐れ入る……と、まあ、前置きはこれぐらいにして、これからいよいよ、本題に入るわけだ」  さっきは錬金術の歴史を前置きと言い、今度は魔女狩りや魔女裁判の経緯を前置きと言い、そして本題は、これからなのだという。一口に魔術といっても、奥が深いものらしい。 「君も古代ユダヤのソロモン王ぐらいは知ってるだろう」 「はい」 「この王様、ずいぶんの知恵者だったそうで、行政的にも経済的にも、ヘブライ王国を一流国家に築きあげた。世にいうオカルト学を創始したのもソロモンだといわれてる。この王様が書き残した〔ソロモンの大いなる鍵〕という本が、古来からずっと、西洋魔術の原典といわれてきた」 〔ソロモンの大いなる鍵〕という本は、千秋の部屋にもあった本で、行徳でぼくもぱらぱらとめくってみた。内容もタイトルも意味不明だったが、あのソロモンは、このソロモンだったのか。 「ヨーロッパにおける魔術研究は、ほとんどこの本の解読か、呪術方法の検証に費やされてきたんだ。この本には悪魔を呼び出す方法とか、魔術道具の作製方法とか、そんなことが具体的に書いてある。実をいうと、俺が出した〔貴女と私の幸せ黒魔術〕も、だいぶこの本をパクっていて……それはいいとして、悪魔と契約して金持ちになる方法とか、惚れた女とセックスする方法とか、そんなことばかり書かれてるから、中世のインテリ連中も夢中になった。鉄や鉛を金に変えるのと同様、金持ちになったり他人を支配したり、そういうことは人間の基本的な欲望だものな。交霊術も黒ミサもセックス信仰も黒魔術も、現代のオカルティズムに通じる技術はすべてこの中世にできあがった」 「………」 「魔法本には必ず出てくるカバラという神秘思想も、ソロモン王がユダヤ教に伝わるカバラ原典を用いて地上と地獄を制圧したのが始まり、といわれている。カバラというのは一種の修辞学でな、言葉自体に力があり、言葉を支配することによって人間は神と同等の宇宙を創造できる、という思想だよ。このカバラ派はキリストよりも、知恵の化身である蛇を崇拝した。人間主義だからセックスも肯定する。絶対神であるエホバという言葉も、ヘブライ語の男根と女の象徴であるイブという文字の組み合わせからできている、と主張する。男女の交合が絶対神のエホバだというんだから、当然〔性の魔術〕も出現する。生殖を中心に据える〔性の魔術〕はまた、宇宙の発展段階にも通じる占星術と関係を持ってくるんだが、話が煩雑になるから、そっちは省略するとして、とにかくカバラや魔術の要点は、反キリスト教的、ということだ。キリストより蛇を崇拝したり、セックスを奨励したりエホバを貶《おとし》めたり、勝手に悪魔を呼び出して金儲けをしたり、カトリック側からすればたまったもんじゃない。キリスト教というのは、他の宗派では預言者の一人にすぎないキリストを神の位置にすえた宗教だ。そういう引け目があるから、反抗するカバラ派も魔術使いも、徹底的に弾圧する……どうかね、これはさっきの、錬金術の弾圧と同じ構図だろう」 「はあ、そうですね」 「そうなんだ。だからこれが君の質問に対する俺の答え、つまり魔術の本質は、アンチキリスト教の思想的原点、意義は人間主義の標榜と理性の解放と、まあ、そういった結論になるわけさ」  肩で息をついて、増田が椅子をすべらせ、新しいタバコに火をつける。教室での講義も今の講釈と同じぐらい情熱的なら、増田も学生に、もう少し人気が出る。  助手の女がカップを二つ運んできて、一つを増田の前に、もう一つをぼくの前におく。色や湯気の匂いから、インスタントコーヒーらしい。 「ま、概略はこんなところだが……」  湯気の立つカップに表情をゆるめて、増田が言う。 「君の彼女を理解するために、俺の話が役に立ったかね」 「はい」 「彼女がどんな子か知らんが、変わり者だよなあ。本気で魔術に凝るような女、俺ならつきあわんけどなあ」 「一つ教えていただけますか」 「占星術やタロットカードの話になると、また長くなるぞ」 「いえ、そうではなく、魔術の実例についてです」 「実例は多くの本に残っているよ」 「伝説や伝奇以外の実例です」 「そいつは……」  増田がカップを取りあげて、うまそうにコーヒーをすすり、髪を掻きあげながらゲップを吐く。 「魔術は証拠が残らん。それに有能な魔術師は魔女狩りで、みんな殺されてしまった。今となっては証明も無理だろうよ」 「しかし実例は、あったと?」 「ちょっとした魔術ならいくらでもあるだろう。中世の魔術書にも〔居ながらにして女の部屋を覗く法〕だとか、〔女を裸にして踊らせる呪文〕だとか、アホウな魔術が腐るほどのってる」 「呪いをかけて、他人の命を奪うとか」 「それが魔術の本道だよな。有史以来人間の歴史は怨念と策謀の泥沼だ。大は国家権力から小は男女の嫉妬まで、呪いの例には事欠かん。日本の天皇家も代々の将軍家も、呪いに関しては本職じゃないのかね」 「効果があったという例は知りません」 「当然だろう。呪詛で相手を殺せれば、誰も戦争なんかやらんよ。古代から現代まで戦争が絶えんのは、呪術に効果がないことの証拠じゃないか。怨念で人が殺せるなら、今ごろ全ヨーロッパ人は、アラブ人に呪い殺されているさ」 「………」 「と、そうはいっても、恨む相手を呪い殺すという発想に、どんな民族も魅力を感じるんだなあ。アマゾンやパプアニューギニアの原住民も、西洋人も東洋人も古代人も現代人も、みんな殺しの呪術を持ってる。中世ヨーロッパで流行ったのは蜜蝋で相手の人形をつくって、それに針を突き刺したり魔法のナイフで傷つけたり……まあ、その前に蛇やネズミの生贄《いけにえ》をささげるとか、羊皮紙に魔法の呪文を書きつけるとか、いろんな儀式はあるんだけどな、とにかくそんなことで、恨む相手を殺せると思ってたわけさ」 「蜜蝋というのは?」 「蜜蜂の巣から出る残滓《のこりかす》だな、ヨーロッパ人と蜜蜂の関係は歴史的にも密接なんだ。連中は蜂蜜にもプロポリスにも蜜蝋にも、神秘的な力があると信じてる」 「それを、魔法のナイフで?」 「ナイフには黒ナイフと白ナイフがある。両方ともアラビア語の呪文を書きつけておくんだが、白ナイフは白魔術に、黒ナイフは黒魔術に使う。もっとも、刃物に摩訶不思議な神秘性を感じるのは西洋人だけじゃない。刀に怨霊や精霊を宿らせるのは、日本人のほうが得意なぐらいだろう」  千秋の部屋で見た小箱の中身が目に浮かび、ぼくはただ苦いだけのインスタントコーヒーを、一息に飲みほす。小箱の中身は魔術道具だろうと見当はついていたものの、具体的な用途を教えられると、やはり背筋が寒くなる。 「どうしたね、君の彼女が誰かに呪いでもかけてるのかね」 「いえ」 「仮にそうだとしても心配はいらんよ。人を呪い殺しても罪にはならん。魔女狩りの時代をのぞいて、魔術が裁判にかけられた例はないし、警察も手は出さん」 「………」 「今のは冗談だ。いずれにせよ、伝説の時代は終わった。現代は魔術も枯渇した。今の時代にあるのは見せ物の透視術とか、テレビでスプーンを曲げてみせるぐらいのことさ」  念力でスプーンを曲げたり、目隠しをしてクルマを運転したり、それぐらいの魔術や超能力ならぼくも恐れない。しかし千秋の収集していた蜜蝋や魔術ナイフの幻影が、ぼくの常識に、いやな痛みの針を刺す。 「結論として、先生は、魔術を否定されるわけですか」 「そういうことだな」 「超能力も、ですか」 「超能力にオカルトに魔術に奇跡に新興宗教……人間は誰でも理性的でありたいと望みながら、その理性が自らの理性を否定する」 「形而上学的な思弁ではなく、現実での現象です」 「現実の現象……ふん」  またうまそうにコーヒーをすすってから、唾でも吐くような口調で、増田が言う。 「俺は若いころ、リュックを担いで、インドの行者を訪ねたことがある」 「はあ」 「ヒンドゥーの行者には変わり者が多くてなあ、何十年も片足で立ったままとか、何十年も木に登ったままとか、何十年も手足の爪を伸ばしたままとか、とにかく、何十年もナントカというつまらん行者が、町にも村にも溢れている。そういう行者も十年を超すと聖者と呼ばれるようになって、そこそこにお布施が入るわけさ」  目を細めてぼくの顔を見おろし、不精髯の浮いた頬を、増田がにやりと笑わせる。 「ほとんどの行者はただの変わり者だ。しかし俺は、百キロもありそうな太った行者が、二十センチほどふわりと浮いた場面も見た」 「はーあ」 「山口くん、俺の話を信じていない顔だなあ」 「あ、いえ」 「信じようと信じまいと、君の勝手だ。ただ俺が言いたいのは、魔術でも超能力でも、その程度のものだということさ。行者の爺様だって二十センチの高さに浮きたければ、二十センチの台に載ればいいだけのことだろう」 「そうですね」 「コップのなかのコインを動かしたければ、指で押せばいいじゃないか。透視術だか何だか知らんが、クルマを運転するのに目隠しをするバカが、どこにいるね。科学では説明できない、なんてことは、常に〔現在の科学では〕という注釈がつく。浮揚現象だってサイキックだって、あと二、三十年もすれば、どうせ物理学的に説明がついてしまう」 「それを承知で、なぜ先生は、黒魔術の本を出されたんです?」 「分からんかなあ」 「はい」 「ロマンだよ」 「はあ?」 「人生にはロマンが必要なんだ。世間には実力もないのに、無茶な高望みをする人間がいる。頭が悪くてもいい大学には入りたい。笑えるほどのブスでも恋はしたい。悪党でも天国へは行きたいし、男なら女湯を覗きたいと、まあ、人間というのは、存在そのものがロマンなわけさ」 「でも先生は黒魔術を……」 「信じるもんかね。呪文が効くか効かないか、そんなことも問題じゃない。あの本のコンセプトは、ずばり、�癒し�なんだから」  助手が席を立って、部屋を出ていき、閉まったドアとぼくの顔を見くらべながら、増田が両手で髯面をこすりあげる。 「山口くん、どうやら君は、主知主義者らしいな。癒しも奇跡も宗教も、君には無縁だろう」 「はい」 「いわゆる〔救われない性格〕というやつだ」 「自分では困りません」 「君は困らなくても世間はみんな困ってるんだよ。人間は理性だけじゃ生きられんものさ。インドの浮きあがる爺様だって、村人はありがたく拝んでいる。イワシの頭で癒される人間もいれば、天国や地獄を信じる人間もいる」 「………」 「宗教は麻薬というだろう。宗教なんかみんな迷信、宗教を信じる人間は愚昧の徒、たしかに、愚かといえば愚かなんだが、その愚か者の心を救うことにこそ、宗教の意味があるわけだ」 「………」 「麻薬だって、瀕死の病人にとっては、苦痛をぬぐう霊薬だ。宗教やオカルトはたしかに麻薬ではあるが、心の病人にとっては、やはり必要な薬ということさ」  増田が新しいタバコに火をつけて、デスクに片肘をつき、肩の凝りでもほぐすように、ぐるりと首をまわす。錬金術に魔術に宗教に超能力にオカルトに、すべての現象を総花的に解説しておきながら、結論が〔癒し〕では、笑ってしまう。 「若いときは誰でも……」  疲れたように瞬きをして、増田が長く煙を吐く。 「若さというのは物事を潔癖に考えさせる。それはそれで貴重なんだが、人生には矛盾もある。人間には曖昧さに平和を感じる心情もある。結論としては、無知の知を知れと、そういうことだなあ」  釈然とはしなかったが、釈然としないことに不満はなく、ぼくは椅子を立って、増田に頭をさげる。窓の外はいつの間にか暗くなり、窓ガラスが研究室の書架を雑然と映している。 「貴重なご意見を、ありがとうございました」 「まあ、なんだか知らんが、彼女とは仲良くやりたまえ。俺もまた新しい本を出すから、その節はよろしく頼むよ」  増田が競馬新聞に手をのばし、ぼくはもう一度頭をさげて、研究室を出る。廊下にも灯が入っていて、学生や教授たちが三々五々行き過ぎる。そろそろ夜間部の授業が始まり、閑散とした校舎も、またしばらくは活気をとり戻す。  廊下の向こうからさっきの助手が、颯爽と歩いてくる。助手はぼくの前で足を止め、奇麗な顔を秘密っぽく近づける。部屋にいるときは若く見えたが、目尻には細い皺がクモの巣のように走っている。 「ねえ君、増田先生の言うこと、信じちゃダメよ」 「はい?」 「癒しだなんて言うけど、本当はお金のためなの」 「はあ」 「あの先生、サラ金にすごい借金があるんだから」 「そうですか」 「本が売れたら大金持ちだなんて……あんな本、売れるはずないのに」 「………」 「それに君もマヌケだわよ」 「はい」 「この世に魔術なんか、あるはずないでしょう。あれば馬券も当たるし、増田先生だって、とっくに教授になってるわ」  ウィンクを残して、助手が足早に去り、ぼくはその後ろ姿に、深々と頭をさげる。 「インスタントコーヒーを、ご馳走さまでした」   P  浦安も戦前までは〔ベカ舟〕という小型漁船が集まり、前海はアサリやハマグリの好漁場だったという。江戸川をさかのぼれば行徳河岸があり、市川、松戸をへて利根川に通じている。鎌倉時代は行徳に船関所がおかれたという記録もあって、柴又の近くには今でも〔鎌倉〕という地名が残っている。  その歴史とは無関係な繁華街を、ぼくは駅前から堀江方向へ向かう。浦安駅周辺の賑わいも歴史には関係なく、漁場を埋め立て、地下鉄を開通させた以降のことだという。  街灯と商店の連なる道を、堀江三丁目から二丁目へと歩き、住宅街へ入る手前に〔磯野酒店〕を見つける。それはまったく、見事なまでに寂れた店で、以前は商店間口だったらしい場所をビールやタバコの自動販売機が占め、店への出入口は一枚のガラス戸になっている。店内には暗い蛍光灯が灯っているが、商売をやっているのか、店を閉めているのか、判断に困るような店構えだ。駅から住宅街へ向かう道路沿いだから、そこそこに人通りはあるのに、まるで商売の熱意を感じない。外壁は色の分からないモルタル、建物も築三、四十年はたっている。  ぼくはたった一枚のガラス戸を開け、店内へ入る。ビールケースの向こうから仔牛ほどにも太った男が、ずんぐりと顔を覗かせる。頭が異様に大きく、顔の肉は蒸《ふ》かし饅頭のように厚く、薄暗くて表情は見えないが歳は三十前だろう。 「ぼく、山口といいます。磯野澄夫さんは、いらっしゃいますか」  細い目をいっそう細くし、頭を重そうにかしげて、男が通路の側へのっそりと歩いてくる。 「俺が澄夫だけど……」 「今晩は」  夜釣りなんかする男は年寄りだろうと思っていたが、この相手が磯野澄夫だとすると、安彦清造の事件を目撃した当時はまだ二十二、三歳か。その年齢の意外さに、多少ぼくは当惑する。 「突然に失礼します。六年前の事故のことで、お話をうかがえればと思います」  ぼくを店の客ではないと理解したらしく、磯野が簡単にうなずく。肉の厚い顔に白い歯がこぼれ、顔と体型は威圧的でも、性格は案外に無邪気らしい。 「六年前の事故っていうと、オジサンが溺れ死んだときのかい」 「はい」 「なんで今ごろ?」 「事情があります」 「俺はたまたま見ただけのことだけどね」 「たまたま見た、そのときのことを、詳しく聞かせてもらえませんか」  鼻と頬を目一杯にふくらませ、磯野が巨体を奥へ運ぶ。店との境にある框に腰をのせ、肩と胸を喘がせる。背負い込んだ脂肪が心臓を圧迫するのか、暑くもないのに、ロゴ入りのTシャツが汗で背中に張りついている。 「山口くんといったっけ」 「はい」 「そこのさあ、ほれ、ビールのケースにでも座りなよ。よかったら缶ビールを飲んでくれていいよ。俺もさあ、配達でくたびれちまって、動きたくねえんだ。店も俺一人だから、奥へも入れないしさあ」  肩を喘がせているわりに、磯野の口調は穏やかで、細い目にも人のいい光を覗かせる。 「それで、なんで山口くんが、あのことを訊きに来たわけ」 「実は……」  どうにでも演技は可能だが、面倒になって、ぼくは相手の善意を期待する。 「磯野さん、二週間ほど前、落合のアパートで放火殺人があったことは、ご存じですか」 「落合の……」 「若いソーシャルワーカーがアパートで焼き殺された事件です」 「ああ、テレビで見たよ。ずいぶん奇麗な子だったのに、可哀そうになあ。そういえばあの女の子を殺した犯人、今日どこかで自殺しなかったかい」 「河口湖だそうです」 「そうだそうだ、昼間は忙しくてよく見なかったけど、ひどい事件だよなあ。犯人ってやつ、女房や子供もあるって話じゃないか。不倫の果てに女を殺すなんて、許せないやつだよなあ」 「実はぼく、被害者の安彦千秋と交際がありました」 「へーえ、そうかい」 「交際したのは二年前で、事件のあったときは別れていました」 「ふーん、そうなの」 「安彦という名前で、思い出しませんか」  厚ぼったい磯野の顔がかすかに表情をつくり、肉に被われた目蓋の内側に意識らしいものが動く。 「ああ、そうか、六年前に防波堤から落ちたオジサンの名前も、安彦だったよなあ」 「安彦清造は安彦千秋の父親です。千秋は再婚相手の連れ子です」 「そうかい、あの二人が……」 「連れ子ですから二人に血のつながりはありません」 「だけど家族は家族だろう。六年前に親父さんが死んで、今度は娘かい。安彦さんていう家も、気の毒になあ」 「家は行徳の伊勢宿にあります」 「そういや思い出した。あの事件のあと、奥さんって人が俺んとこにも礼に来たっけ。礼なんか言われてもさあ、俺はただ警察へ連絡しただけだし、オジサンも助けられなかった。なにしろ俺、泳げないだろう、海へ飛び込んだらこっちが死んじまう。目の前で人が溺れてるのに、助けられなくて、俺もしばらく悩んじまったよ」 「そのときの様子を詳しくうかがえますか」  ビールのケースに腰を寄せて、ぼくは磯野の顔をうかがう。内面には何らかの感情もあるのだろうに、脂肪と贅肉が顔の表情を吸収してしまう。 「だってさあ、山口くん、あの女の子がオジサンの娘だったとしても、防波堤の事故とは関係ないだろう」 「不幸な事件が重なって、気になります」 「そうかなあ。そりゃオジサンも娘さんも気の毒だけど、あっちは六年前の事故、こっちは不倫での殺人だろう。ただの因縁じゃないのかい」 「因縁、ですか」 「よくあるんだよ。親が癌だと子供も癌になったり、親が交通事故で死んで、何年かして、また子供が交通事故で死んだりさ。そういう家はどうせ、先祖に祟られてるんだ。もっと仏様とか神様とか、拝まなくちゃあさ。俺んとこの店もね、本当はコンビニにしたいんだけど、祖母ちゃんが許さないんだ。九十を過ぎてるのに元気でさあ、コンビニなんかにしたら、先祖に申し訳ないとかってね」 「安彦清造さんとは、顔見知りでしたか」 「ええ?」 「釣り場でよく顔を合わせたとか、釣り仲間だったとか」 「ああ、そりゃあ無いよ。あっちはベテランだったらしいけど、俺は始めたばっかしでさ。それにあの事故があってから、俺、釣りはやめちまった。あのときの光景が目に浮かぶし、自分が海に落ちたときのことを考えると、ゾッとするもんなあ」 「事故があったのは、六年前の今ごろでしたね」 「そう、ああ、そうだった」 「時間は夜中の……」 「二時半か、三時か、そんなところだったよ」 「安彦さんは酒を飲んでいたと聞きましたが」 「そうらしいなあ。だけどそれは、あとで警察から聞いたんだよ。俺と安彦さんは三十メートルぐらい離れてた。あの夜は他にも二人ぐらい釣りをやってて、みんなそれぐらい離れてたよ」 「その人たちも、安彦さんの落ちるところを、目撃したんでしょうか」 「直接に見たのは俺一人だった。あとで聞いたら、みんなそう言ってたな」 「落ちたときの様子は、どうですか」 「様子って」 「安彦さんの近くに人はいませんでしたか」 「いなかった、それは間違いないよ。俺だって餌を付けかえようとして、たまたま目が行っただけなんだ。安彦さんが椅子から腰をあげて、歩きかけて、そうしたらさ、ふわっと躰が浮いた感じで、あとはもう海の向こうさ。何が起こったのか、俺には見当もつかなかった」 「安彦さんは、椅子を立って、歩き始めた?」 「そんな感じだったな」 「歩きかけて、よろけた?」 「よろけたというより、だからさ、ふわっと浮いた感じだった。紙屑が風で飛んだりするだろう、つまりは、あんな感じさ」 「そのとき、風が?」 「風なんかなかったよ。俺も不思議でさあ、他の人にも聞いたけど、あのとき防波堤に風は吹いてなかった。だけど見たのはほんの一瞬だし、暗かったし、本当のところは、どうだったかな。なにしろ俺、人があんなふうに落ちるのを見たの、初めてだろう。それでふわっと、浮いたように見えたんだな。警察に話したら、やっぱりそう言われたよ」 「風もないのに、ふわっと……」  寒けを感じ、腕に浮いた鳥肌を、ぼくは手のひらで包み込む。ぼくの目のなかで、風もない堤防から、安彦清造がふわりと落ちていく。 「安彦さんは、落ちるとき、何か言いませんでしたか」 「何も言わなかったよ」 「叫び声とか……」 「声は出さなかったなあ。考えたら不思議だよなあ、普通あんなふうに落ちれば、何か声を出すはずなのになあ。声を出さなかったから、他の人は気づかなかったんだろうな」 「………」 「釣りをしてた他の二人は、水の音がするまで、まるで気づかなかったらしいや。俺が声をかけて、みんなが安彦さんの落ちた場所に駆けつけて、下を覗いてみた。なにしろ防波堤の上からは十メートルもあるし、懐中電灯で照らしても見えるのは泡ばっかし。いくら待っても安彦さんは浮いてこなくて、みんなで釣り糸を投げたりしてみたけど、それもダメでさ。一緒にいた年寄りなんか、俺の見間違いだとか言いだして、ヘンな顔しやがるの。だけど水の音はしたし、安彦さんの釣り道具は残ってる。それにいくら暗くても、俺はちゃんと見たんだ。だからすぐクルマに乗って、電話のあるところまで行ったよ。警察と消防に連絡して、防波堤でずっと待ってて、だから結局、安彦さんが海からあげられたのは、落ちてから二時間もあとだった」  安彦清造の死因は、溺死というから、心臓マヒや他の発作ではないだろう。〔ふわりと浮いた〕こと自体が不可解なのに、十メートル下の海面に落下するまで、清造はなぜ、声を発しなかったのか。清造が無言だったのも、風もないのにふわりと浮いたことも、引きあげられるまで水面に姿を見せなかったのも、みんなただの偶然、夜釣りや溺死には、そんなこと、いくらでもあることなのか。 「まさか……」 「なんだい?」 「いえ……」 「山口くん、本当に缶ビールでもどうだい。そっちの冷蔵庫に入ってるやつ、冷えてるからさあ」 「いえ、もう、失礼します。お忙しいところを、ありがとうございました」 「なーんだ、もう帰るのかい。だけどあの放火事件で死んだのが、安彦さんの娘さんとは気づかなかったなあ。業《ごう》の深い家ってのは、不幸がつづくもんだよなあ。俺ん家《ち》の祖父さんなんか……」  磯野がまだ何か言っていたが、ぼくは大仏を拝むように頭をさげ、吹いてきた風に押されて、ふわりと店を出た。自分の常識に自信はあるはずなのに、心臓がどうにも重苦しい。鳥肌はまだ皮膚にざらつき、歩いても体重を感じない。往来の人やクルマは影絵のように実感がなく、足が勝手に四次元の世界を彷徨《さまよ》っていく。 「まさか、嘘だよなあ……」  声に出して言ってみたが、自分の言葉すら、ぼくの耳には聞こえなかった。   Q  焼き鳥スナック〔ピエロ〕には、水穂のほうが先についていた。  席はカウンターの奥から二番目、他には常連らしい客が競馬の話題で騒いでいる。水穂も今日はぽつねんとカウンターに座り、その美貌を冷たいバリアがとり囲む。衣装は河口湖で着ていた黒のテイラード、艶のあるストレートヘアは少し乱れ、顔も青白い。救急車で運ばれたり河口湖からトンボ返りをしたり、性格というより、宿命なのだろう。  ドアを開けたぼくを目で誘い、水穂がとなりの席へ促す。店には今日も焼き鳥が匂って、ぼくは家を出てからの空腹を思い出す。浦安で磯野澄夫の話を聞いたときから、ぼくは食欲を忘れていた。 「姉さん、早かったな」 「クルマを飛ばせば一時間半よ、あんたこそこんな時間まで、どこを放《ほ》っついてたのよ」 「いろいろさ」 「ビデオはだいじょうぶよね」 「うん」 「あとで考えたら、このジャケット、ちょっとダサかったわ。河口湖なんだからブルーかピンクが似合ったはずなのにね。病院のベッドなんかに寝ていて、しっかりセンスが狂ったわ」  芋焼酎をウーロン茶で割って、水穂がぼくに渡す。ぼくはウーロン茶割りで咽を湿らせてから、水穂の焼き鳥を平らげる。顔色は冴えないが、水穂の口調に疲労感はなく、ぼくは本心から安堵する。 「だけど、姉さん、病院はいいのかよ」 「誰があんなところ……あんな病院に入院したら、病気になってしまうわ」 「休んだほうがいいのにな」 「この事件が片づいたら休暇をとるわよ、ハワイの彼からも誘われてるし」 「ハワイの彼」 「向こうでショッピングセンターを経営してる青年実業家、日本とアメリカのハーフなの。顔はイマイチだけどお金と体力は抜群よ」 「いい彼氏がたくさんいて、よかった」 「そんなことより……」 「分かってる。その前に、尾崎の事件から聞かせてくれ」  カウンターの向こうに、ぼくは|おまかせ《ヽヽヽヽ》の焼き鳥を注文し、自分と水穂のグラスに焼酎とウーロン茶をつぎたす。香坂司郎とモデルとの交際が発覚して、そのショックで貧血を起こしたはずなのに、水穂の快復力は人知を超えている。ここで早川美波が香坂のガーデニングを請け負った件を聞かせてやったら、水穂は、どんな反応を示すか。 「それで、尾崎の事件は……」  水穂のプアゾンから顔をそむけ、焼酎で酔いを急がせて、ぼくが言う。 「やっぱり自殺だったの」 「解剖は済んでないけど、状況から警察はそう見てるわ」 「意外というか、やっぱりというか、ヘンな感じだな」 「安彦千秋の事件も解決よ。私もついてないわ」 「どうして」 「容疑者死亡で一件落着だもの。そりゃ警察の手間は省けるだろうけど、ニュースとしてのインパクトは落ちてしまう。少年犯罪ならともかく、草臥《くたび》れたオヤジが自棄をおこしただけでは誰も同情しない。あんたの彼女も殺され損で、可哀そうよねえ」 「その……」 「私が特別に入手した情報では、尾崎、ウィスキーと睡眠薬を大量に飲んでたらしいわ。千秋さんも睡眠薬を大量に飲まされていた。尾崎は医者から睡眠薬の処方を受けていた。これが両方ともハルシオンで、薬物も一致、要するに一種の、無理心中だったわけね」 「心中……か」 「池のそばにウィスキーの空きビンとハルシオンの空パックが落ちてた。両方から指紋も出てるし、遺書はないけど、自殺で決まりよ」 「不審《おか》しいところは?」 「ないわね」 「簡単だな」 「尾崎の足取りはまだ掴めてないらしいけど」 「足取りって」 「クルマがないの。尾崎も東京から河口湖までは歩かないでしょう。電車だとしたら前日の夜までには河口湖へついて、ホテルか旅館に泊まったはず。警察がローラーをかけて調べたのに、その形跡がないのよ」 「尾崎は金を持っていなかったろう」 「その気になれば空別荘にでももぐり込めるわ。それに河口湖には奥さん方の別荘があるのよ。今は使ってないけど、尾崎が立ち寄る可能性はあった。警察もちゃんと見張りをつけていた。だから尾崎はその別荘に隠れようと河口湖まで行って、警察の見張りに気づき、逃げきれないと覚悟を決めて自殺した……私の推理では、そんなところね」 「尾崎が失踪してどれぐらいだっけ」 「四日か、五日」 「その間の消息は?」 「掴めてないらしい。今の警察って、ボケが入ってるわ。簡単に失踪されて、自殺なんかされて……けっきょく逃げ切られたのと同じことよねえ」  カウンターに焼き鳥が並び始め、ぼくは空腹を満たしつつ、アルコールの酔いに耳を澄ます。尾崎喬夫の死は千秋の呪いだったと、口に出すには、まだ焼酎が薄すぎる。 「なあ、姉さん」 「テレビの話題は名古屋の事件に攫《さら》われる、私もいい面《つら》の皮だわ」 「尾崎は自分でウィスキーと睡眠薬を飲んで、自分で湖に入ったのか」 「あんたもくどいわねえ。目撃者はあらわれないけど、尾崎なんか、誰も殺したいとは思わないわよ」 「一人、いるんだけどな」 「なんの話よ」 「尾崎を殺したいと思ってる人間」 「尾崎の奥さんは論外よ。浮気の証拠は興信所を使って押さえたそうだし、離婚の調停も弁護士まかせ。私も会ってみたけど、嫉妬で亭主を殺す|たま《ヽヽ》じゃなかったわ」 「おれが言ってるのは、もっと直接の動機があるやつ」 「千秋さんの家族とか?」 「千秋本人だと言ったら、姉さん、笑うよな」 「本人……」  水穂の手のなかで、グラスの氷が鳴り、プアゾンがぼくの顔に殺到する。説明したところで理解されるはずはなく、水穂に偶然だと一蹴されることを、ぼくも心の中で願っている。 「広也……」 「やっぱり、ヘンだよな」 「落合のアパートで死んだのが、千秋さんではなかったとか?」 「警察も検視はしてるだろう」 「当然よ」 「それならアパートで死んだのは、千秋さ」 「あんた、もう酔ったの」 「早く酔いたいのに、頭の芯が冷えて、考えただけでも寒けがする」 「はっきり言いなさいよ」 「呪いで人が殺せるなんて、素面《しらふ》じゃ言えないさ」 「呪い?」 「姉さんも素面では聞けないだろう」 「冗談はやめなさいよ、まったく……」  グラスを口の前に構えたまま、水穂がぼくの顔を睨む。睫毛のカールは完璧だが、目が赤いのは疲労のせいだろう。 「尾崎はウィスキーと睡眠薬を飲んで入水した。でも死因そのものは、溺死だ」 「それは、そうよ」 「千秋の親父さんも夜釣りで溺死した」 「だから?」 「千秋の高校時代、男友達が自殺したというけど、それも溺死だった」 「あんた、正気なの」 「自分ではそのつもりだ」 「何を言いだすのよ。溺死がどうとか、呪いがどうとか、彼女が魔術みたいなもので、尾崎たちを殺したとでも言うわけ」 「分かりやすい意見だろう」 「どこが……」 「千秋は自分を殺した犯人に、自分で仇を討った。千秋ならそれぐらいの呪いを、かけられたかも知れない」 「あんたは幽霊もオカルトも、UFOも超能力も宗教も、信じなかったはずでしょう」 「怨念は別さ」 「怨念で、人が殺せる?」 「たぶん、な」 「よかったわねえ。それなら私も遠藤京子を呪い殺してやるわ」 「姉さんは素人だ」 「私にできないことが、あんな小娘にできたの」 「千秋には特別な能力があったと言う」 「誰が」 「千秋の妹」 「あの頭のおかしい子?」 「知ってるのか」 「どこかの記者が言ってたわ。取材を申し込んだだけで、警察を呼ばれたって」 「彼女は頭もおかしくないし、見かけほど変わり者でもないさ」 「どうでもいいわよ」 「妹のことはともかく、千秋の魔術は本物だった」 「冷静になりなさいね。そりゃ世間ではオカルトやホラーが流行ってる、だけどそれは閉塞社会での逃避心理なの。今の若い子たちには将来に希望がない。だからオカルトや新興宗教に逃避するの。未開の社会につまらない迷信が蔓延するのと、同じ現象よ」 「社会学者みたいな意見だ」 「たんなる常識よ。今はサイババの奇跡だってインチキだとバレてる。空中から聖灰を取り出すところをビデオに撮って、分析してみたら、しっかり手品を使ってたわ」 「サイババだって毎日奇跡の安売りをしてたら、疲れるさ」 「あんた、あんなものを信じるの」 「インドには空中浮揚術を使う行者もいる」 「見たこともないくせに」 「おれは見ていない。でも磯野澄夫は、見ていた可能性がある」 「磯野……」 「姉さんに教えてもらった、安彦清造事件の目撃者さ。さっき磯野に会って、そのときの様子を聞いてきた」  水穂が目を丸くし、その目を細めて、皮肉っぽい唇に焼酎を流し込む。グラスに添えた真珠のような爪が、暗い店内に、ぎらりと反射する。 「安彦清造が海に落ちたのは、夜中の二時か三時ごろ。その夜、そのとき、防波堤に風はなかった。でも清造の躰は紙屑が風に舞うように、ふわっと浮いたという」 「あら、そう」 「磯野の見間違いかも知れない。清造は酒に酔って、よろけただけかも知れない。ただ清造は、十メートル下の海に落ちるまで、声も出さなかった。落ちたあとは死体が引きあげられるまで、一度も海面に浮かなかった……みんな、偶然なのかな」 「偶然に決まってるわ」 「姉さんには実感が湧かないだろう。だけどおれは千秋の妹に会っている。千秋の実家で魔術の本も見た。その本の量や質は常識を超えていた。それに集めていた魔術の道具も、本物だった」 「私だって仕事で、魔術関係の本ぐらい読むけどね」 「千秋の魔術や、三人の男が溺死したことや、そういうことがみんな、ただの偶然なのか……」  グラスをゆすっていた水穂が、顎の先に窪みをつくって、ふんと鼻を笑わせる。 「広也、それは、ダメね」 「なにが」 「怨念とか呪いとか、深夜番組の捨てネタとしては面白いけど、昼のワイドショーでは、無理よ」 「そういう問題じゃない」 「そういう問題でしょう。この世に呪いがあるのか、ないのか、そんなことは知らない。でもネタがテレビに使えなければ意味がない。バラエティーならともかく、ニュースやワイドショーで、尾崎の自殺は千秋さんの呪いだったなんて、放送できる? そんなことをしたら抗議が殺到して、私は局を追い出される。私の目的は遠藤京子を追い出すことで、自分が失業するなんて、まっ平ご免だわ」 「ジャーナリストの良心はないのか」 「あるからオカルトネタは扱わないの。だいいち広也、尾崎と清造と男友達を、千秋さんが呪い殺したなんて、どうやって証明するのよ。彼女の霊を呼び出して、再現実験でもやらせる? そんなことが出来れば特別番組をつくって、あんたにピュリッツァー賞をもらってやるわ」  無茶な言い方ではあるが、水穂の意見が妥当であることは、ぼくにも理解できる。尾崎の入水はどう考えても自殺、六年前の清造も不注意での転落、千秋の同級生なんか、なんで死んだか理由も分からない。たとえ千秋の魔術が本物だったとして、それらの事件と千秋を結びつける証拠はない。千秋はすでに死んでいて、その千秋を殺した尾崎も自殺し、関係者はもう、全員が死んでいる。  気がつくと、二つのグラスが空になっていて、ぼくは水穂の鼻息に耳を澄ましながら、ゆっくりと焼酎のウーロン茶割りをつくり直す。水穂の焼酎はうすく、自分のグラスには焼酎を濃く入れる。 「広也、あんたも……」  グラスの氷をごろんと鳴らし、鼻の穴をきれいに見せて、水穂が言う。 「奇妙なことを考えたわねえ。あの千秋さんが三人の男を魔術で呪い殺した、それも最後の一人は、自分を殺した男に死んだあとで復讐した……出来の悪いホラー映画だわ」  反論はせず、グラスをあおって、目の前の焼き鳥に手をのばす。自分の推理が奇妙であることも、滑稽であることも、ぼくが一番よく知っている。超常現象なんか信じない自分が、千秋の魔術だけを肯定しようとすることに、内心でも不愉快な葛藤がある。 「そうだよな、これは、無理だよな」 「あたりまえよ。あんたが何を血迷っても構わないけど、私に恥をかかせないでよ」 「おれも人には言えない。言ったところで、誰も信じない」 「一見クールなくせして、あんた、本当にドジなんだから」  カウンターから焼き鳥が姿を消して、ぼくはマスターに声をかける。 「おれ、手羽先とジャーマンポテト」  水穂が眉をひそめながら、じろりとぼくの顔を見おろす。 「よく食べるわねえ」 「探偵のアルバイトも終わった」 「あら、あんたがどんな探偵をしたのよ」 「尾崎の自殺はおれのせいじゃないさ」 「スクープも空振りで事件は尻切れトンボ、あんたにはバイト料をふんだくられて、私、踏んだり蹴ったりだわ」 「姉さんならきっとキャスターになれる」 「分かってるわよ」 「姉さんは美人で才能があって頭もよくて、それに、性格もやさしい」 「そんなことも分かってる。だけど、くやしいじゃない」 「なにが」 「遠藤京子がまたのさばるのかと思うと、腹が立つわ。あの女を一生便秘にしておくような魔術、どこかにないかしら」  相槌を打ちかけ、さすがにばかばかしく、ぼくは欠伸をする。中世にも〔居ながらにして女の部屋を覗く法〕や〔女を裸にして踊らせる呪文〕とかはあったらしいが、はたして〔恨む相手を一生便秘にしておく魔術〕なんか、存在したものか。  アルバイトは終わった……ということが、事件そのものの終了と同義であることは、もう分かっている。尾崎喬夫の溺死を知り、磯野澄夫から清造の死に様を聞いて、たしかに動揺した。しかし水穂の顔を見てアルコールに神経を慰められると、日向で洗濯物が乾くように、じわりと緊張が退いていく。千秋にどんな過去があろうと、どれほど不可解な死に関わろうと、ぼくの人生に、なんの関係がある。サイババはインチキかも知れないし、本物かも知れない。この世のどこかには錬金術に成功した人間がいるかも知れないし、神や仏の存在だって、ヒステリックに否定するほどの価値はない。増田助教授の台詞ではないが、他人を呪い殺したところで罪にはならず、魔術が裁判にかけられる時代でもない。気分は中途半端であっても、決着は決着なのだ。  手羽先が焼け、頬張りながら、ぼくは明日以降のことを考える。まだアルバイトを探す気分ではなく、事件を忘れるためにも、みかんを旅行にでも誘ってみるか。まさか温泉というわけにもいかないから、行くとすれば、みかんの好きな神社巡りか。 「ねえ、広也……」 「うん?」 「あんた、千秋さんのこと、本当に知らなかったの」 「最初にそう言ったさ」 「これからは気をつけなさいね」 「なにを」 「女は見かけより、ずっと怖いんだから」 「うん」 「あんたも別れておいて正解だったわ」 「偶然さ」 「まじめそうな子で、育ちの良さは感じられたし、頭だって良かったはず。尾崎みたいな男とドロドロになるなんて、彼女のタイプじゃなかったのにねえ」 「千秋にも都合があった」 「どんな」 「知らない」 「敬愛会病院では模範的なソーシャルワーカーだった」 「そうらしいな」 「それでいて大学時代の友達には、評判が悪い」 「だから……」  最後に千秋のアパートに泊まった日の、トルコ桔梗が思い出され、色の白い憂鬱な横顔が目に浮かぶ。今になって、千秋の孤独は理解できても、それはもう、終わったことなのだ。 「私ね、思うんだけど……」  グラスの縁でこつこつと前歯をたたき、ぼくの手羽先に流し目を送って、水穂が言う。 「千秋って子、今から考えれば、不審しかったわ」 「どうでもいいさ」 「まじめに聞きなさいよ」 「姉さん、おれも千秋におれの知らない面があったことには、少し驚いた。だけどそれは、それだけのことだ」 「薄情な男ねえ」 「姉さんだって、テレビに使えなければ意味がないだろう」 「私は広也のために言ってるのよ」 「おれは忘れたいな」 「あんた、フロイトの初歩も知らないの」 「なんだよ」 「忘れるためには分析と認識が必要なの。広也はそうやって、いつも現実から逃げようとする。だからあんたは、いつまでもロクデナシの就職浪人なのよ」 「姉さん……」  もともと千秋のことなんか忘れていたぼくを、無理に事件に巻き込んだのは、水穂ではないか。忘れていた千秋をもう一度忘れることの、どこが薄情で、どこがロクデナシなのだ。 「要するにね、私が言いたいのは、『千秋さんは多重人格者ではなかったか』ということなのよ。彼女の行動や他人との関係を見てると、そんな気がするわ」 「それは、ないよ」 「どうして」 「千秋が多重人格なら、おれでも気がつく」 「この病気はもっと複雑なの。どうせあんたの手には負えないだろうけど……」  周囲をはばかる必要もないのに、黒目がちの視線を、水穂が秘密っぽくカウンターに巡らせる。 「私、その方面の専門家を取材したことがあって、いくらか知ってるの。専門的には乖離《かいり》性同一性障害とかいうらしいけど、多重人格は一種の舞台症候群なのよ。つまり意識的な人格変換の要素が大きいわけね」 「どういうことさ」 「そういうことよ」 「分かるように言ってくれ」 「一人の人間のなかに五人も十人も、多いときには二十人も三十人もの人格が共存するの。私なら疲れちゃって、口をきくのも面倒だわ」 「誰にでも逃避願望はあるさ」 「多重人格症はその逃避願望が極端なの。本人は二十歳の女の子なのに、突然十六歳の暴走族が出てきたり、三歳の幼児が出てきたり、またちょっとすると、八歳の帰国子女になったりね。本人も疲れるでしょうけど、つきあう相手はもっと疲れるわ」 「要点を……」 「言ってるじゃない。つまり、見かけの人格は三歳の幼児でも、その人格や名前を他人に説明できる、意識のある本人がいるわけ。多重人格症で狂うのは頭ではなく、心のほうなの」  記者からニュースキャスターを目指すだけあって、水穂もいろんなことを知っている。男を手玉にとる技術に優れているだけでは、なるほど、花形記者はつとまらない。 「だけど姉さん、千秋は暴走族にも、帰国子女にもならなかった」 「広也に対しては育ちのいい優等生になったでしょう」 「一応は、そうかな」 「他の友達に対しては?」 「まあ……」 「尾崎喬夫に対しては?」 「………」 「躁病患者の家田浩二だって、本当はどっちが手を出したのか、知れたもんじゃないわ。千秋って子、もしかしたら、病気の人間をいたぶって快感を得る特異性格だったのかも知れない。魔術とか呪いとかって聞いたら、なんとなく、そんな気がしてきたわ」  カウンターの客が帰り、店内には焼き鳥の煙が残る。マスターは競馬新聞を読み始め、換気扇の音がからからと空気をふるわせる。  水穂の手のなかで、グラスの氷がごろんと音をたてる。 「同じ多重人格でも形態はさまざまなのよ。テレビで流行ってるような突発性の多重人格もあれば、もっと周期の長い多重人格もある。たとえば詐欺師なんかには……聞いてるの?」 「聞いてるさ」 「詐欺師なんかにはね、パイロットのふりをするとき、本物のパイロットになったと思い込む人間もいるらしい。要するにつきあう相手によって意識的に人格を変えるタイプの多重人格なのね。この前もあったでしょう、通産省の女性官僚が夜は安売春婦に変身して、どこかで殺された事件が。似たような例はいくらでもあるわ、禅宗の坊さんがアダルトビデオの男優だったり、五つもの名前と職業を使って多重結婚をしていたり。安彦千秋もたぶん、相手と状況によって人格を変えるタイプだったのよ」 「………」 「手のつけられない不良のときもあれば、貞淑なお嬢さんのときもある。正義感の強いソーシャルワーカーのときもあれば、冷酷な淫乱女のときもある。今流行ってる単純な多重人格より、そっちのほうが始末が悪いわ」 「………」 「いずれにしても広也の手に負える相手ではなかったわけ。殺されたのは可哀そうだけど、これも彼女の宿命だった気がする。あんたも勉強になって……あら、どうしたのよ」 「うん?」 「ジャーマンポテト、冷めちゃうじゃない」 「ああ、そうか」 「あんた、就職もしないで食欲だけは一人前なんだから。いっそのことラーメン屋の屋台でも引いたら?」 「それも、いいかな」 「だけど広也もラッキーよねえ。お袋は過保護なぐらいに甘やかすし、姉さんは美人で聡明な有名人、煙ったい父親はアフリカのニジェールで、家はそこそこの小金持ち。あんたそのうち、罰《ばち》が当たるわよ」 「ラーメン屋……か」 「冗談よ。あんたにそんな甲斐性はないわ」 「かりに、千秋が……」 「彼女のことはもういいの。あんたも悪い夢を見たと思って忘れなさいよ。千秋さんが多重人格だったということは、殺されたのは広也の彼女だった安彦千秋ではなく、あんたの知らない別な女の子だった……そう考えれば気も楽でしょう」 「まあ、そうかな」 「ただ多重人格って、さっきも言ったけど、意識のある逃避的な人格変換なのよね。アメリカの統計では多重人格症の患者の、九十八パーセントが幼児期に虐待を経験しているの」 「九十八パーセント?」 「幼児虐待よ。ほとんどが暴力かセックス、殴ったりタバコの火を押しつけたり、世の中にはひどい人間がいるものよ。だから多重人格を精神病とは認めず、外的要因によるヒステリー性の人格障害と定義する医者もいるぐらい」 「姉さん」 「本当のところは分からない。でも千秋さんも、どうせ……」  ぼくの手からジャーマンポテトがこぼれ、膝に落ちて床に落ちて、ぐちゃっと形を変える。それまで無害だったアルコールが、突如悪意を発揮する。言葉はなく、味覚もなく、ウーロン茶で割った芋焼酎が粘っこく咽を流れていく。 「可哀そうだけど、千秋さんもどうせ……」  耳鳴りはアブラ蝉のように賑やかで、聴覚の失せたぼくの耳に、水穂の言葉がテロップのように谺《こだま》する。目には白くてなめらかな千秋の尻が浮かび、その尻にカメラのレンズがズームする。レンズは尾てい骨の左下に、火傷痕のような赤い痣を映しだす。 「広也、どうしたのよ」 「………」  吐き気が限界を超え、ハンカチで口をおさえて、ぼくはトイレのドアに突進する。視界に千秋の痣が拡大され、子供時代の千秋が、目に涙を溜め、ぼくに向かってその細い腕を、おずおずと伸ばしてくる。 「姉さん、それは、ないよ」  叫んだところで、言葉が現実を否定しないことは、もう分かっている。分かっていながら、ぼくはこみ上げる嘔吐物と一緒に、その言葉を吐きつづける。 「姉さん、それは、ないよ……」   R  福島側から栗子トンネルを抜けると、山形新幹線は簡単に米沢盆地へ入ってしまう。ここまで東京から二時間、車窓には稲穂の連なりが黄色く波うち、遠く吾妻山の方向には果樹園らしい森がうずくまる。稲刈りの始まった田圃にはコンバインや小型トラックが入り込み、カマボコ型のビニールハウスは艶々と秋の陽射しをはね返す。それらの風景は一瞬に車窓を過ぎ、またトタン屋根の農家や果樹園が単調にあらわれる。  宇都宮あたりで駅弁を食べてから、みかんはずっと座席の肘掛けに頬杖をついている。今日はミニスカートをはいていて、上はTシャツにチェック柄のブレザー、髪は肩まで素直にたらし、唇にもパールピンクの口紅をつけている。服装だけなら修学旅行の女子高校生だが、みかんの横顔には大人の憂いがある。それが自分の責任なのか、他の人間の責任なのか、ぼくは鬱々と後悔をくり返す。  米沢盆地か……窓の外に目をやっているあいだに、新幹線は呆気なく米沢駅へすべり込む。江戸時代なら十日もかかった旅程が、今は二時間半しかかからない。  情けないほど近代的な米沢駅前から、ぼくらはタクシーに乗り、十五分で米沢市石垣町という地区に行きつく。途中にはうらぶれた商店や町工場が目立っていたのに、このあたりでは風景にリンゴ園が混じってくる。住宅街のなかを牛が歩き、田圃と住宅地と工場地が違和感なく共存する。  タクシーをおり、吾妻山方向の空を見あげて、ぼくとみかんは立ち尽くす。そうやって言葉もなく、十分ほど空を見あげる。最初は脱穀機から吐き出された藁屑《わらくず》かと思ったが、目の前を羽音も高く飛びまわっているのは、数も知れぬ赤トンボだった。 「すごい……」  みかんが両手で頬をはさみ、憂鬱を忘れた顔で、ぽつりと呟く。赤トンボぐらい洗足池にも飛んでくるが、このコンピュータグラフィックを見るような風景は、どういうことか。米沢でアキアカネの大発生なんて、ニュースにも聞かないし、すぐ近くを自転車の年寄りが飄々と過ぎていく。天地を圧するような赤トンボも、この季節のこの地方では、季節風程度に当然のことらしい。  赤トンボを見ただけで米沢まで来た甲斐があった。そうは思ったが、今日のぼくには千秋への義務がある。 「なあ、みかん、ちょっと向こうに、神社があったろう」 「なあに」 「この道を二百メートルぐらい戻ると、左側に小さい神社があった」 「それが?」 「神社で待っていないか」 「どうして」 「竹俣さんには、おれが一人で会う」 「どうして」 「そのほうがいいからさ」 「住所はわたしが調べたのよ。わたしには会う権利がある」 「権利ではなく、気分さ」 「わたしの気分はわたしのもの、あんたが心配しなくていいの」  赤トンボの風景が議論を許さず、ぼくらは竹俣安市の家を探し始める。道の右手は稲穂の実った田圃、左手側には古い市営住宅の一画がある。ほとんどの家は柊《ひいらぎ》の生け垣で囲われ、内側からは柿や李《すもも》の枝が覗いている。関東なら生け垣は青木か檜葉《ひば》だろうに、柊が多いのは、やはり土地柄か。今のところ気温は東京と変わらないが、十一月になれば、米沢にはもう雪が降るという。  埃っぽい陽が射す住宅地のなかを、五分ほど歩き、板壁のつづきに〔竹俣〕の表札を見つける。一画はすべて同じ構造の木造住宅で、一棟に左右二世帯、それが幾筋かの路地をはさんで二十棟ほどかたまっている。竹俣安市の家も例外ではなく、柊の生け垣にガラス格子の引き戸、壁は板張りで屋根には焦げ茶色のスレート瓦をのせている。建築当時はモダンな市営住宅だったろうに、今は古さと安普請だけが目立っている。  みかんの表情が硬くなり、目尻がつり上がって、呼吸の音に雑音が混じる。ぼくはみかんに構わず、ガラス格子を開けて家の奥に声をかける。待つうちに気配がして、仕切りの襖戸がおずおずと開かれる。顔を見せたのは、白髪頭を坊主刈りにした、表情のない男だった。千秋の実父だから歳は六十前後のはずだが、しなびきった顔が年齢を不詳に見せている。 「突然にお邪魔します。ぼく、東京から来た山口といいます。安彦千秋さんとは、生前に交際がありました」  安市の目に心の動きが見えるまでに、どれほどの時間がかかったものか。やがて安市が長い顎を間延びさせ、皺深い目を、怪訝そうに瞬かせる。 「ほーお、東京がら……俺さ用でもあんながした」 「千秋さんの件で、お話が伺えればと思います」 「千秋の……んだが、はあ俺、何年も会ってねえがら」 「何年か、というのは、どれぐらいですか」 「兄《あん》ちゃ、東京がら、そがなごど聞ぎさ来たながあ」 「はい」 「わざわざ、この俺さ?」 「そうです」 「千秋が兄ちゃさ、俺のごどでも話しだんだが」 「いえ。ただ千秋さんは、いつも、自分の実家は山形県の米沢市だと言ってました。交際していた間も、千秋さんの実家が行徳にあることを、ぼくは知りませんでした」 「千秋は、実家を……」  安市の乾いた顔に、初めて表情が浮かび、顎の先が二、三度上下する。襖から覗く右腕は膝におかれ、右足も向こう側に投げ出されている。腕にも足にも、右半身には麻痺が見えている。 「んだが、千秋がなあ」  ぼくのほうへ顔をあげ、そのときやっとみかんに気づいたように、安市の背中がむっくりと伸びる。 「彼女は千秋さんの妹の、安彦みかんです」 「妹? ああ、んだったながあ、おめえが」  安市が目だけを動かして、みかんの足元から頭の先へ、幾度か視線を往復させる。ミニスカートへの反応というより、石仏でも観察するような視線が、淡々とゆれ動く。みかんが仏頂面で、ぺこりと頭をさげる。 「見だとおりだあ。中風《ちゆうぶ》さなって、躰が動がね。構いもさんにげんど、あがってけろ」  安市が動く腕で手招きをし、ぼくとみかんが玄関に靴を並べる。  襖の奥が六畳の和室、その向こうにも襖で仕切られた和室がある。襖の隙間からは敷いたままの布団が覗いている。手前の六畳が茶の間らしく、コタツ兼用のテーブルと茶箪笥が置かれ、茶の間にはテレビと小仏壇と雑貨棚がある。部屋のとなりは台所、その向かいが狭い縁側のついた庭、庭には洗濯物のない物干しポールが立っている。畳も縁側も日に黄ばんでいるが、部屋は意外なほど片づいている。玄関には女物のサンダルがあったから、一人暮らしではないらしい。 「婆《ばば》あが農協さ行ったがらよ、夕方になんねきゃ帰ってこねえ。座布団はそごさあっから、勝手に敷いでけろ」  一人ごとのように呟いて、安市が座椅子にもたれる。みかんは出入口の前、ぼくは縁側に近い場所に腰をおろす。部屋の隅に座布団はつんであるが、みかんは相変わらずの仏頂面で、ぼくも座布団の必要は感じない。狭い庭には日がかたむき、物干しポールと生け垣に赤トンボが花吹雪のように舞い狂う。安市の言った「婆《ばば》あ」が再婚相手なのか、他の身内なのか、ぼくはちょっと考える。  安市がジャージの右足を投げ出したまま、左手をテーブルの茶桶にのばす。テーブルや茶箪笥は安物だが、茶桶は黒漆塗りの見事なもので、「婆《ばば》あ」が出掛けに用意していったものだろう。  みかんが無言で膝をつめ、安市にかわって茶の支度を始める。茶桶のなかには急須や湯呑、茶筒や湯こぼしや茶托が納まり、テーブルには新しい電気ポットがある。みかんも行徳の家でぼくに煎茶をいれてくれたから、茶の支度だけは得意なのか。それともやはり、緊張で咽が渇くのか。  茶の支度をみかんに任せて、安市が左手で顔の皺をこすり、視線を庭へ向ける。〔酒乱の道楽者〕と横山タネ子が断言したイメージとは、風貌も表情もそぐわない。 「今日もテレビでやってだげんども……」  みかんから湯呑をうけとり、視線を庭へ向けたまま、一人ごとのように安市が言う。 「犯人どがいうやづ、自殺したみでえだなあ」 「はい」 「どがな因果だべなあ、俺も中風《ちゆうぶ》さなって罰《ばち》が当だった思ったげんども、千秋さ罪はねえべに。なんで千秋ばっか、不幸な目さ遭うんだべなあ」 「………」 「俺が競輪で身を持ち崩さねがったら、孫の顔も見られたべがなあ……兄ちゃ、ソーシャルワーガーつうのは、如何《なじよ》な仕事だべ」 「病人や老人の、心を介護する仕事です」 「心を、なあ」 「はい」 「観音様の手伝いみでえなもんだべが」 「そうですね」 「えらい仕事しったのに、訳が分がんねなあ。罰だったらば俺さ当でだらいいのによう、観音様も血迷ったんがい。俺さえ身を持ち崩さねがったら……」  骨太の爪の大きい指で、安市が湯呑をすすり、庭に目をやったまま下唇をゆるめる。風貌に千秋の面影はなく、骨格や体型も無骨で土臭い。脳溢血の後遺症さえなければ、頑健な体質だろう。  ぼくはたった一つの質問を胸に秘めたまま、安市の問わず語りに耳を澄ます。みかんのいれた茶は香りも上品で、贅沢な味と色がある。 「俺もなあ、今は見だとおりの様《ざま》だげんども、昔は在郷《ざいご》さ田畑《でんばた》持ってで、千秋が生まっちゃ頃はずいぶんな羽振りでよう。そいづが競輪さ取り憑がれで、地獄を見だっげな。競輪はどごでもやってっから、福島がら青森、函館まで、毎日競輪さ付いでまわったんだごで。今がら思うど、なんでそがに狂ったんだが、自分でも分がんねなあ。バクチ狂いさ理由などねえべげど、終わってみっと田畑を他人様さ渡しで、真木子がらも愛想尽かしされたべに。俺は身がら出だ錆だど覚悟はでぎっけんども、真木子と千秋さは災難だったべなあ。俺はほんどに、鬼みでえな人間だったべ……兄ちゃ、真木子は、如何《なじよ》な加減でいんだべなあ」 「体調を崩して、入院しているそうです」 「入院があ。昔がら弱えどごあった女《おなご》だがらよ、今度のごどが躰さこだえだんでねがい」 「そのようです」 「俺が言わっちゃ義理でもねげんど、気を落どさねで、養生するように伝えでけろ」 「はい」 「死ぬまでにいっぺん、千秋の墓さ参りてえげんど、俺みでえなもんが行ったら、千秋も迷惑だべなあ」  安市のしなびた顔が動いて、視線が仏壇へさまよう。締りのない口からぶつぶつと念仏がこぼれ出る。小さい箱型の仏壇には、どこで手に入れたのか、ジーンズをはいた千秋のスナップ写真がおかれている。珍しく写真の千秋は笑顔をつくっていて、年齢は中学生ぐらいだろう。 「これまでは横山の家さ憚《はばか》っで、しまっといだげんど」  仏壇の写真へ顎をしゃくって、また安市が湯呑をすする。 「もう人様の目え気にするごどもねべし、写真ぐれえ、千秋も怒んねえべ」 「千秋さんは……」 「辛え目さ遭わせで、本当に俺、後悔してんなだ。だげんど人の噂に真木子が再婚した聞いで、正直、嬉しがったなあ。聞いだらば千葉のほうの資産家《だんなし》だいうしよ、安彦の家も遠い縁つづぎだいうべし。俺などど暮らすよっか、真木子と千秋が幸せになっごどは決まってっぺえ。俺は本心がら、真木子の再婚を喜んでだんだあ」 「………」 「そいづが最後になったっきゃ、こがな始末だべした。どがな因果だべなあ、観音様も、血迷っだどしか思わんになあ」 「千秋さんは、米沢に、帰っていたらしいですね」 「気持ぢの優しい子供《おぼご》だったず。俺さなど構うな言ったげんども、暇あ見づけっど顔を見に来てくれたべし。俺が卒中で倒れだどぎ、三日も病院さ付き添っでくだった。本当に千秋は、気持ぢの優しい子供《おぼご》だった」 「最後に会ったのは……」 「卒中んどぎだがら、んだなあ、二年ぐれえ前でねがい。ソーシャルワーガーどがいうになっだつうのは、電話で聞いでだげんどなあ」  安市の落ちくぼんだ目に涙がたまり、湯呑を持った左手がふるえて、丸刈りの白髪頭が前にくず折れる。脳溢血の父親に東京から三日も付き添いにきた気持ちの優しい娘。冷淡で年寄りには無慈悲で、淫乱で魔術趣味に陥っていた千秋に、また別な顔が加わる。千秋の帰郷は予想していたが、ここまで安市と親密な関係を持っていたとは、考えていなかった。千秋が卒業後の職場として敬愛会病院を選んだ理由は、あるいは、安市の病気が動機になったのか。 「仏壇の写真は、中学生ぐらいですか」 「それぐらいになっぺがなあ。夏休み、ふらっと来たがらよ、そごの庭で撮ったんだあ」 「千秋さんが最初に訪ねてきたのは、いつのことでしょう」 「ああ?」 「竹俣さんご夫婦が離婚されたあと、最初に、という意味です」 「んだがら、そいづは……」  涙の浮いたままの目で、安市がみかんの顔色をうかがう。安市は湯呑をテーブルにおき、わざとらしく視線を庭へ移す。 「横山の家さも、安彦さんの家さも、憚りがあっこどだがらよう。こがな家さ、来んなっで言ったんだげんど、千秋は、真木子の目え盗んだんだが、一人で遊びさ来でだんだあ」 「………」 「俺がこの家《うち》さ越しできたなは、真木子さ愛想尽かさっちゃ後だがら、なんで千秋さこの家が知れだんだが……真木子が安彦さんど縁があっでよ、それがら二、三年も後だったがない。盆のころだったべがなあ、家の前さ、千秋がぽづんど一人で立ってでよう。横山の家は駅の向ごうだがら、バスさ乗ってきたんでねがい。誰に聞いだんだが、この家もずいぶん探した様子でなあ、婆《ばば》あが西瓜を切っでやっだら、物も言わねえで、半分も食ったんだっけ」 「小学校の、一年か二年のとき?」 「そがなもんだっけがなあ」 「米沢に帰省したとき、横山さんの家から、ですか」 「んだがら俺は、横山の家さ電話すっぺど思った。千秋が来てくれだのは嬉しいげんど、俺はそがな資格はねえ。今さら子供《おぼご》さ会わっちゃ義理でもねえべしな。んだげんど、千秋が電話はすんな言うなだあ。すぐ帰っから、こごで遊ばせろってよう。オレも愛《めんご》くてなあ、二度と千秋さ会わんにど思ってだずば、あっぢがら会いに来てくれだべ。安彦さんどが真木子には済まねえ思ったげんども、情に負げだんだべなあ。考えでみっど、あんどぎ俺が、追い返しておげば良《い》がったあ。んだがらぜんぶ、俺の責任なんだあ」 「一つだけ、教えてください」 「なんだべなあ」 「千秋さんの腰に、古い火傷の痕があったことは、ご存じでしたか」  安市の顎が、押されたように前に落ち、麻痺している右手が膝の上で、激しく痙攣を始める。目は空洞のように見開かれ、唇には粘っこく唾液がたまってくる。  いつまで待っても、安市に言葉はなく、ぼくは正座したみかんを息苦しく眺める。みかんはミニスカートの膝の上で、黙々と湯呑をゆすっている。湯呑は右手の親指と中指で支えられ、左右前後、その底をゆらゆらと振っている。みかんのつり上がった目は祈るように湯呑を睨み、への字に結んだ唇には頑固な力が入っている。これと同じゆすり方を、いつか、どこかで、ぼくは見た覚えがある。 「兄ちゃは……」  咽に痰をからませ、顔を紅潮させて、安市が言う。 「兄ちゃは、そいづを、俺さ訊ぎに来たなが」 「はい」 「聞いで、どうすんなだい」 「千秋さんの供養にします」 「供養……」 「千秋さんには、いろんな噂がありました。いい噂も悪い噂も……つきあっていたぼくにも、彼女の素顔は分かりません。死んでしまって、手遅れでしょうけど、少しでも彼女の素顔に近づければと、心から思います」  安市の尖った咽仏がクルミを飲んだように上下し、涎《よだれ》が顎を伝わって、動かない右手に濁った糸を引いていく。みかんは膝の上で湯呑をゆすりつづけ、庭では赤トンボが藁屑のように飛び狂う。胸に秘めてきた質問を言葉に出してしまった以上、安市の答えがどんなものであれ、ぼくはそれを、正面から受けとめる。この場にみかんを立ち会わせたことが、正解か、不正解か、そんなことは、みかんが決めることだ。 「千秋には、実際、ひでえ目さ見せでしまっだ」  自分に言い聞かせるように、安市がしつこく、間延びした顎をふるわせる。 「俺は鬼みでな人間だっだがらよう。競輪さ負げで、酒さ狂っで、罪もねえ千秋さひでえ折檻をすたんだ。俺の後生は地獄ど決まってんなだ、俺……俺は千秋の尻さ、タバコの火まで押っつげだんだ」 「………」 「千秋さ、どがな噂があったが知らね。東京でどがに暮らしっだが、そいづも知らね。テレビだど千秋ど尾崎どがいう男の関係どが、千秋がああだらこうだら、ずいぶん言うべした。田舎さいる俺さは、何も分がんねえ。千秋が落ち度のねえような娘っこだら、人様に殺される目えにも遭わねえんでねが。んだげんど、東京で何があったどしでも、そいづはぜんぶ俺の責任だごで。子供《おぼご》のごろがら辛え目えを見せで、千秋の気持ぢをグレさせだ。ほんでも千秋は俺を恨まねで、こがな年寄りを田舎まで見舞ってぐれた。兄ちゃどもどがな経緯《いきさつ》があっだが、迷惑かげだがも知んに。んだげんど千秋は、本心、気持ぢの優しい子供《おぼご》だったべし」  安市の視線は、ぼくにもみかんにも向かず、抑揚のない嗄れ声が陽射しを受けた縁側へ、淡々と吐き出される。  誰が千秋の尻にタバコの火を押しつけたのか、安市にその質問をし、安市の口から答えを聞くための、たった一つの目的で東京から出掛けてきた。その目的を果たした以上、千秋への供養は、もう九分通り終わっている。  みかんが湯呑をテーブルに戻して、ぺこりと頭をさげる。仏頂面は異様に白く、唇はかすかにふるえている。みかんはそのまま、無言で玄関に向かう。玄関でも声を出さず、靴をはいてガラス戸を開け、ぷいと姿を消していく。  みかんの消えたガラス戸を見守ったまま、安市が皺にとり囲まれた細い目を、一度だけ、強く瞬かせる。 「千秋どは、似でねえなあ」 「彼女も気持ちが疲れています」 「んだべなあ。そいづもこいづも、ぜんぶ俺の罪だず。なんで世の中、こがいに、塩梅悪りいんだべなあ」 「今日は、ありがとうございました」 「礼を言うのはこっちだべえ。米沢じゃあ、千秋のごどは誰も知らね。千秋の妹さんさも会わっちゃし、兄ちゃさも会わっちゃし、なんぼが俺も後生が良《い》いべしなあ」  放心顔の安市に、頭をさげて、ぼくは玄関へ向かう。 「兄ちゃ……」 「はい」 「千秋は本当に、『実家は米沢』ど言ってだんだが?」 「はい」 「哀れな娘っこだなやい」 「はい」 「本当に、千秋は、哀れな娘っこだったず」 「………」 「死ぬまでにいっぺん、墓参りさ行っでやりでえげんど……」  右足を投げ出したまま、麻痺した右半身を縁側へ向け、安市が鼻水をすする。安市はもう顔をあげず、ぼくも黙礼をして、外に出る。玄関の前を子供の自転車が走り、どこかで赤ん坊が泣いている。風景だけなら、洗足池も行徳も米沢も、住宅街なんて、みんな平和なものなのだ。  遠くに吾妻山が霞んで見えるから、空は南側に開けている。稲穂の連なる向こうに小学校らしい建物が見え、電線には見事に雀が並んでいる。相変わらず赤トンボが舞うなか、仁王立ちで腕を組むみかんは、小癪でもあり、健気でもある。子供のころ、こんな風景に身をおいた気がするのは、もちろんデジャ・ヴュだろう。枯れ芝臭い空気がふとぼくの意識をうすれさせる。  みかんの横顔を記憶に納めて、となりへ歩く。たまにはクルマが通る道でも東京の裏道よりは静かで、風が吹くたびに稲穂の波が潮騒のような音をたてる。 「どうする、お袋さんの実家へ寄っていくか」  みかんが空を睨んだまま、首を横にふる。うすい胸に溜まっていた空気が、ほっと吐き出される。 「お祖母ちゃんは行徳だし、会いたいやつもいないわ」 「タクシー、通らないな」 「田舎だもの」 「少し戻ればバスがあるか」 「うん」 「歩いてもたかが知れてるしな。東京へは、今日中に帰ればいい」  うなずいただけで、みかんは動かず、小学校の方向を怒った顔で睨みつける。その仏頂面にも口調にも、混乱は見られず、とりあえずぼくは安堵する。 「どうしたの」 「なにが」 「さっきからわたしの顔、じっと見てるじゃない」 「そうかな」 「じろじろ見られるの、いや」 「ミニスカートが珍しいんだ」 「オヤジみたい」 「痩せっぽちのくせに、足は太いよな」 「背がまだ伸びてるの」 「今でも百七十はあるだろう」 「去年も三センチ伸びた」 「大変だな」 「どうして」 「あと十年で、二メートルを超えてしまう」  みかんが顔をふり向け、鼻の穴をふくらませて、ぷいと歩きだす。まさか駅まで歩くつもりでもないだろうが、来た道を戻ればバス通りにたどりつく。田圃の畦にはコスモスが咲き、頭上を雀がぱらぱらと散っていく。  ぼくはみかんに肩を並べ、市街地の方向へ歩いていく。竹俣の家で感じた緊張が嘘のように思えるのは、空を高く飛ぶ赤トンボと、排気ガスのない空気のせいか。こんな風景のなかで三歳まで暮らし、為す術もなく行徳へ転居していった千秋の心には、どんな思いが残っていたのか。千秋が「実家は山形県の米沢市」とくり返した理由は、ただの郷愁ではなかっただろう。他人にその言葉を聞かせ、自分に言い聞かせることで心の平和を保っていた。高校卒業と同時にアパート暮らしを始めたのも、みかんとの不和が理由ではなかった。千秋は行徳で暮らした一切の時間に抹殺をこころみた。魔術趣味への傾倒だって、心を防衛するための、必死の抵抗だったにちがいない。  安彦清造が継子《ままこ》の千秋に、どんな虐待を加えたか、それは竹俣安市の言葉が物語っている。ぼくが「腰の火傷痕」と言っただけなのに、安市は「自分がタバコの火を千秋の尻に押しつけた」と証言した。安市の善意には感謝しても、言葉は素直に受け取れない。もし虐待者が本当に安市だったら、いくら故郷とはいえ、実父が恋しかったとはいえ、千秋が安市の元へ帰るはずはない。小学生になったばかりの千秋が母親の目を盗んで、場所も知らぬ安市の家を、たった一人、なぜ訪ねたのか。千秋はそこで安市に、何を訴えたのか。  安市が清造の罪を被った理由は、みかんへの配慮か、それとも自分が千秋の人生を狂わせたことに対する罪滅ぼしか。千秋は義父の虐待を母親に告げられず、空想と魔術と米沢への郷愁に、じっと息をひそめていた。千秋の心がどれほど辛く、どれほどの恐怖に満ちていたか。泣く千秋に声を出させなかったのは、千秋の性格ではなく、千秋の宿命だったのだ。  安市が最後に言った「哀れな娘」という言葉が、ぼくの胸に、痺《しび》れるような怒りを植えつける。終わったはずの事件が、まだ終わっていないことも、同時にぼくは意識する。 「サクランボが食べたいな」 「うん?」 「夏だったらサクランボ、お腹一杯食べられたのに」 「ああ、そうか」 「米沢なんてサクランボがあるだけ、あとは何もないの」 「東京だって人間がいるだけで、何もないさ」 「どこか遠くへ行きたい」 「米沢へ来ている」 「こんな町、嫌い」 「好きな町は?」 「ない」 「いつかそのうち、好きな町が見つかる」 「南の島がいい」 「ふーん」 「一年中ヒマワリが咲いてて、一年中サクランボが食べられて、それで、美味しい油揚げ屋さんがあるような島」  みかんにだって、米沢に来た理由も、安市に会った理由も分かっている。安市が清造やみかんを庇った心情も、みかんは気づいている。本当なら泣き崩れてもいいみかんが健気にも膝をつっぱり、大股に歩いている。そのみかんの肩に赤トンボが止まって、風がみかんの髪を吹き流す。 「この米沢盆地って、昔は湖の底だったらしいな」 「そう」 「和田川とか吉野川とかが、たくさん流れ込んでるだろう。ああいう川の水が、昔はみんな盆地に溜まっていた」 「昔って」 「何万年とか、何十万年とか、そんなもんかな」 「けっこう昔ね」 「おれたちは今、昔湖の底だった場所を歩いている、考えたらヘンな気分だよな」 「何を考えるの」 「ロマン」 「考えても湖には戻らない」 「それは、そうだ」 「それに湖の底では、サクランボが採れない」 「ロマンのないやつ」 「あんたはいい歳をして、ロマンチックすぎるわ」 「うん、反省しよう」  みかんが足を止めて、ぼくの肩口から道の右手を覗き、背伸びをして顎を尖らせる。顎が示す先には古い石の鳥居があって、苔むした石段が十メートルほどもつづいている。両側は熊笹と椿の混成林、扁額も由緒書もなく、ここからでは神社の名前も分からない。石段の奥も無人らしいから、近所の鎮守かなにかだろう。  みかんが当然のような顔で鳥居に足を運び、石段の上を睨みながら肩で息をする。神社を見ただけで気合が入ってしまうみかんの体質も、大きなお世話ながら、困ったものだ。 「神様はいそうか」  うむと、力強くうなずき、みかんが石段をのぼりはじめる。今日の自分がミニスカートであることを、みかんは忘れている。今朝東京駅で会ったときも、意外にむっちりした太ももがぼくを困惑させた。それがまたこんな角度になったら、限度を超えてしまう。礼儀上目をつぶったものの、その光景がぼくの目に、しっかりと焼きつく。  ぼくはみかんの跡を追う気にならず、踵を返して石段に腰をおろす。目の前には赤トンボが吹雪のように舞い、コスモスの咲く田圃道をトラクターが悠々と渡っていく。薄ぼんやりした陽射しでも稲穂は金色に輝き、吾妻山の稜線へ筋雲が流れ去る。 「これから、どうするか」  頭のなかで言った一人ごとは、みかんのパンティーがピンク色だったことへの困惑ではなく、もちろん、新たに姿を見せた、千秋の死に対する疑問だった。  いくらなんでも、という一人ごとは、ぼく自身、もう自分で聞き飽きている。 「だけど、いくらなんでも……」   S  絵の具の匂いに、混濁した意識がうっすらと反応する。頭のなかの画面ではみかんが絵筆を握り、キャンバスに向かって目尻をつり上げている。みかんの指はしなやかで細く、小さい爪が真珠色に光っている。絵筆の先はヒマワリの輪郭を描き、風が渡るたびに絵のなかのヒマワリが、ざわりとゆれ動く。  それにしてもみかんは、なぜピンク色のパンティーだけでキャンバスに向かっているのか。  情景のばかばかしさが、不意にぼくを現実へ引き戻す。ぼやけたぼくの目に、美波の後ろ姿がにじんでくる。美波は仕事に戻ったらしく、肩の動きと鼻唄がリズミカルに連動する。美波の使う絵の具は水彩だから、油絵のようにテレピン油は使わない。そんなことは承知しているはずなのに、絵の具の匂いについ、ぼくはみかんを思い出す。  眠ってしまった……と、美波の背中を眺めながら、ぼくは自分の呑気さに呆れてしまう。この三日間ろくに眠ってはいなくても、ここまで昏睡するのも大人げない。美波の部屋へ来たのが午後の八時ごろ、それからチーズオムレツと梅干しと秋刀魚の塩焼きを食べ、ビールとワインを飲んでからセックスをした。壁の時計はもう一時を過ぎていて、少なくとも二時間は眠ったろう。しかしぼくの疲労はセックスやワインのせいではなく、もちろん、睡眠不足と脱力感のせいだった。  ぼくの呼吸に気づいたのか、美波が筆を動かす手を止め、回転椅子をくるっとふり向ける。ライトには庭の写真やスケッチが浮かび、棚からは相変わらず資料のケースが溢れ出ている。 「仕事をしているのに、ごめん」 「広也くんだって働いたじゃない」 「うん?」 「さっきはいい仕事をしてくれたわ」 「ふーん、そう」 「冗談よ。あなた、本当に疲れてたのね。広也くんの鼾《いびき》なんて、初めて聞いたわ」 「鼾、か」 「寝言も言ってたわよ」 「まさか」 「やっと終わったとか、なにか、そんなようなこと」  たった二時間眠り込んだだけで、まさか寝言を言うとも思えないが、夢のなかのことは分からない。美波の顔を見て緊張も弛んだろうから、あるいは事件のことでも、口走ったか。 「広也くん、蜜柑が食べたいの?」 「なんのこと」 「寝言で言ってたわ」 「何を」 「蜜柑がどうとか」 「覚えていないな」 「自分の寝言なんか、誰だって覚えていないわよ」 「咽が渇いてオレンジジュースが飲みたくなったとか、どうせ、そんなことさ」  ベッドに躰を起こし、自分が裸であることを思い出して、ぼくは毛布の下を覗いてみる。ペニスはきれいに始末され、これまでなら微笑ましく感じた美波の行為が、この瞬間はなぜか、切なくて鬱陶しい。 「一時……か」  わざと声に出して言い、ベッドを抜け出してトランクスをつける。相手が美波でも部屋の向こうから観察されていると、やはり裸が頼りない。トランクスにつづけて、コットンパンツとシャツも身につける。部屋の窓には新宿の高層ビルが浮かび、高速道路が渋谷の繁華街へオレンジ色のライトを引いていく。  美波が椅子を立って、ベッドルームの境まで歩いてくる。美波は水玉模様のパジャマを羽織っている。 「広也くん、寝てればいいのに」 「社長が働いて社員が寝ていたら、民主主義に申し訳ない」 「それが資本主義の原則よ」 「おれは心情的な共産主義者でさ。人が仕事をしているところを見ると、落ちつかないんだ」 「強がりはいいから、寝ていなさいな」 「一時を過ぎたし、やっぱり、帰る」 「帰っても家で寝るだけでしょう」 「まだ姉貴のバイトが残ってる」 「寝言で終わったと言ってたじゃない」 「終わったけど、終わってない……そういえば、あれ、どうした?」 「なんのこと」 「香坂司郎の仕事」 「契約したわよ」 「そうか。落ちついたら、姉貴にも話してやろう」 「タレントのゴシップなんかに、水穂は興味ないでしょう」 「ああ見えてミーハーでさ。面倒ではあるけど、そこが姉貴の、可愛いところなんだ」 「広也くん、本当に……」  そのとき、電話が鳴って、美波がベッドルームで受話器をとる。ぼくは床に座り、飲み残しの赤ワインに口をつける。セックスのときどんな体位をとったものか、右足太ももの裏筋が、へんな感じに引きつっている。 「広也くん、あなたに」 「うん?」 「で、ん、わ」  ぼくに受話器を渡して、美波が右目をしかめ、ベッドに躰を投げ出す。ぼくがこの部屋にいることなんか誰も知らないはずなのに、電話とは、どういうことか。 「もしもし……」 「あら、広也、元気そうじゃない」 「姉さん」 「なにが『姉さん』よ。だからケイタイを持つように言ったじゃない。あんたみたいな極楽トンボにこそ、ケイタイは必需品なの。あんたのお陰で私がどれほど人生を無駄にするか、少しは考えなさいよ」 「ここにいることを、どうして?」 「広也ねえ、私のことを素人だと思ってるの」 「………」 「あんたが美波と寝てることぐらい、ちゃんと知ってたわよ」 「すごいな」 「いつだったか洗足池の駅前で会ったとき、あんたの髪からシャンプーが匂ったわ」 「ああ、そう」 「でも相手が美波なら、じょうずに遊んでくれると思ったの。あんたは女に不器用だし、それに私の弟だから、一応は可愛いしね」 「そんなことはいいけど……」 「もちろん急用よ。あんたと美波の仲にヤキモチなんか焼かないわ」 「姉さん、なあ?」 「分かってるって。用件はね、横山という人から家に電話があったらしいの。母さんが受けたんだけど、大事な用みたい」 「横山……」 「母さんが心配して局へ電話してきたのよ。こっちは例の事件で忙しいのに、いい迷惑だわ。美波のことは知ってたけど、広也だってまさか、母親に電話されたらマズイでしょう」 「姉さん、借りだ」 「あんたなんか生まれたときから借りばっかりよ」 「それは、そうだ」 「横山さんのことはいいわね」 「うん」 「なんだか知らないけど、大事な用らしいわ。母さんへは広也に用件を伝えたと、私から電話をしておく」 「ありがとう」 「頼りない弟をもった姉の宿命よ。だけど、広也……」 「なんだよ」 「あんたもいい度胸してるわ。美波に手を出すなんて、無茶したわよねえ。二軍の選手が一軍のゲームで、サヨナラホームランを打ったようなもんだわ」 「姉さん、電話、切るぞ」 「こっちのほうが早く切りたいわよ。それじゃね、とにかく、美波にもよろしく」  同時に電話を切って、ぼくはシャツの袖で額の汗を拭い、乾いた咽を残りのワインで潤す。水穂に美波との関係を知られたって、困るわけでもないが、それでも冷や汗は浮かんでしまう。実質的にはセックスの現場を押さえられたようなもので、これでまた当分、水穂には頭があがらない。  ベッドで鼻を曲げている美波に、ぼくは目で合図を送る。水穂や美波に対する感想はともかく、今の問題はやはり、横山タネ子だろう。手の中にある電話で、行徳の番号をプッシュする。  一度のコールで受話器が外され、タネ子の声が吃音まじりに聞こえてくる。 「ああ、兄ちゃがい、もしかすてよう、みかんごど知らねが?」 「はあ?」 「みかんだず、うぢのあの孫娘だあ」 「彼女が、なにか」 「帰って来《き》ねなよ、夕方家を出はってがら、どごがさ行ったんだず」 「でも、まだ、一時を過ぎたばかりです」 「正月でもねえべし、一時過ぎだらみんな寝っぺしたよ」 「まあ、そうですね」 「みかんは臆病だがらよ、あがな顔しでっくせに、夜がおっかねえなだ。真木子の病院さ行ったどぎも、まんず九時には帰ってくんなだ。そいづが十二時過ぎても帰んねえ。もしがすっと、兄ちゃと一緒でねえべがど思ったんだごで」 「この三日間、彼女とは会っていません」 「んだが。やっぱし、こいづは、人さらいでねえがい。おらはこっちさ知り人もいねえし、まんず、どうすっぺ、警察さ頼むべが」 「おばさん……」  美波に顔を見つめられたまま、ぼくは瞬間に状況を検討する。これは意外に大事件かなと、すぐに結論を出す。タネ子の混乱は尋常ではなく、みかんの性格も半端ではない。夜を怖がるほど臆病とは知らなかったが、みかんに繁華街を徘徊する姿は似合わない。今の十六歳には当然のことでも、みかんだからこそ、異常なのだ。 「おばさん、ぼく、行きます」 「何処《どさ》?」 「そちらへ」 「ああんだが、そうしてくだい」 「警察へ届けるのは早いと思います。届けても何もしてくれません。彼女もひょっこり帰ってくるかも知れないし、とにかく、これから、そちらへ行きます。三十分か、一時間か……とにかく、すぐに行きます」  途方に暮れた横山タネ子の顔が浮かび、ふて腐れたみかんの顔が浮かび、電話を切ったぼくの手に、いやな汗がにじみ出す。みかんを米沢へ連れていったことの後悔が、今ごろになって、じわりと首筋を寒くする。  ぼくは一分ほど、赤トンボを睨んでいたみかんの顔を思い描き、深呼吸をして、床から腰をあげる。  美波がベッドに躰を起こして、石膏像のような顔に皮肉っぽい笑みを浮かべる。 「ええと……」  家に帰るつもりでいたから、部屋を出ていくことに、躊躇《ためら》いはない。しかし水穂から電話があって、みかんも行方不明となると、さすがにぼくも後ろめたい。 「行徳まで、もう電車はないよな」 「行徳って千葉県の?」 「うん」 「無理でしょうね」 「タクシー、何円《いくら》ぐらいだろう」 「深夜割り増しに高速代もいれて、二万円ぐらいかな」 「二万、か」  水穂からのバイト料があるとはいえ、都内を動きまわって米沢まで出掛けて、残りはたかが知れている。帰りのことは行徳で考えるとしても、持ち金で、行徳まで行きつけるか。 「済まないけど……」 「これから行徳へ行くの」 「急用なんだ」 「広也くんが顔色を変えるなんて、珍しいわね」 「面倒が起きた」 「タクシー代?」 「バイト料を、一万円だけ、前借りさせてくれ」  美波が唇をすぼめて、鼻で笑い、化粧棚からハンドバッグを持ってくる。水玉のパジャマ姿でも雰囲気は妖艶で、なるほど一軍選手かと、ぼくは緊張する。  ハンドバッグを開いて、美波が二つ折りの財布を取り出す。片頬を笑わせながら、三枚の一万円札を抜き出す。 「広也くんに恥をかかせられないわ。タクシー代が足りなかったら、みっともないものね」 「ありがとう」 「そのかわり広也くん、来月はコマネズミよ」 「奴隷みたいに働くさ」 「期待してるわ、だけど……」 「うん?」 「広也くん、好きな子ができたのね」 「ごめん」 「謝る必要はないの。私たち、大人のつきあいじゃない」 「うん」 「お互いさまよ。私も島田から結婚を申し込まれているの、あいつも今度は本気みたい」 「それは、よかった」 「でも私たちの関係はこれまでどおり。どうせ水穂にも、知られたわけだしね」 「うん……」 「それに私から見て、あなた、本当にガーデニングの才能があるんだから」  ぼくは三枚の紙幣をズボンのポケットにしまい、そのまま背中を向けて、玄関へ歩く。水穂にはシャンプーの匂いで勘づかれ、美波には顔色だけで見抜かれる。二人とも只者でないことは承知していても、あまりにも存在の軽い自分が、自分でも情けない。 「電話、待ってるわね」  背中に美波の声を聞きながら、ぼくはドアを開け、ドアを閉める。焦る気持ちが寒けに変わり、緊張が冷や汗に変わる。荷物を背負い込んだような、逆に肩の荷がおりたような、中途半端な気分が鬱陶しい。これまで無自覚につきあっていた美波が、ぼくの肺のあたりで、にわかに影を大きくする。 「面倒なやつ……」  ぼくが舌打ちをしたのは、しかし美波にではなく、行方不明になっているみかんに対してだった。   T  美波のマンションを出たところでタクシーに乗り、平和島インターから高速湾岸線を経由する。都心を抜けるものとばかり思っていたぼくにとって、この経路は意外だった。かかった時間は三十分、料金も一万二千円ほどで、行徳の伊勢宿についたときはまだ二時前だった。  路地口でタクシーをおり、安彦の家へ急ぐ。二階の部屋に明かりが見え、板塀の破れ目からも居間の明かりがもれている。二階はみかんの部屋だから、ぼくがタクシーに乗っている間に帰ってきたのか。そういうことなら心配した自分が間抜けだったが、それならそれで、みかんにはゲンコツのひとつも食らわしてやる。  格子戸を開けると、同時に廊下の奥から横山タネ子がすべり出る。タネ子が口をもぐもぐやりながら、おかっぱ頭を座敷童子のように振りまわす。みかんが帰っているのか、いないのか、タネ子の仕種では分からない。 「彼女は……」  上下に動いていたタネ子の頭が、左右のゆれに変わる。みかんの帰宅を期待していたぼくは、一気に落胆する。  タネ子に促されて、居間へ入る。みかんも自殺までは考えないだろうが、この三日間みかんを放置していたぼくには、タネ子以上の責任がある。  座布団に婆さん座りで正座し、タネ子が茶の支度を始める。目はしょぼつき、しゅっと鼻水がすすられる。 「よぐ来でくだったなす。はあ、おら如何《なじよ》していいが分がんねぐてよう、まんず困っていだんだず」 「電話もありませんか」 「そがなものあったら心配しねべした。兄ちゃ、警察は、やっぱしダメだが?」 「子供ではないし……」 「十六つったらじゅうぶん子供でねえながい。こいづが米沢だったらよ、隣近所で山狩りでもしてくれっぺし」 「渋谷とか、新宿とか、今の時間、彼女ぐらいの子供がいくらでも遊んでいます」 「おらもテレビで知ってだ。んだげんどみかんは盛り場など寄りづがねえべ。人出が嫌《やん》だ性格でよう、昼間ほっづき歩ぐのも野鳥の森どが、川っ端《ぱた》どが、とにがぐ人さ会いだがんねえんだ。みかんがこがな時間、どごさ行ったんだが、さっぱし分がんねえ。クルマさ轢《ひ》がれだんでねえど、いいなだげんどなあ」 「お母さんの病院には聞きましたか」 「真木子はまだ具合が悪《わり》ぐてよ、まんず薬で眠ってんなだあ。内緒で病院さ電話してみだんだげんど、今日はいっぺんも、みかんは行ってねえど」 「他に、彼女の友達とか……」 「知らねなあ。みかんの部屋も覗いだげんど、手紙どが、人様の電話番号どが、なにも見つかんね。こがなごどだったら、不良の友達どでも遊んでくれだほうが、気も楽だったず」  タネ子のいれてくれた茶で、唇を湿らし、ぼくは仏壇をあおぎ見る。千秋の写真が冷淡な目でぼくを見返してくる。タネ子がみかんの無事でも祈ったのか、線香が薄青く煙をのぼらせている。花瓶には中輪の菊が黄色くあふれ、秋蠅が一匹、花瓶の前を歩いていく。 「なにか、彼女に、変わった様子はありませんでしたか」 「変わったって……みかんはいづだって、変わっていたべし」 「まあ」 「んだげんども、そういえばよ、あいづは四、五日も前だったがい。みかんが奇妙に化粧《めが》して出掛けてなあ、珍しいごどもあんなど思っだげんど、おらには何も言わねえ。考えでみっど、あいづは、ヘンだったない」  四、五日前といえば、ぼくと米沢へ出掛けた日のことだ。ミニスカートにブレザー姿だったから、みかんにしては確かに「めかして」いた。しかし行き先をみかんがタネ子に告げていない以上、ぼくが白状してはルール違反になる。千秋の実父に会って、千秋が子供のころに虐待を受けた事実を確認してきたなどと、タネ子に言えるものか。入院中の真木子に対しても、「あなたは清造の行為を知っていたか」と問うほどの神経はない。真木子にしても、どこかで気づいていた可能性はあるし、もしそうならそれを止められなかった罪は真木子にある。安市にも、出戻りの真木子を受け入れなかった横山タネ子にも、真木子の兄弟たちにも罪はある。  この三日のあいだ、ぼくは図書館に寄って〔幼児虐待〕関係の雑誌に目を通してみた。統計では年間に五〇件ほどの虐待死報告があり、死に至らないものなら、その何十倍か何百倍だという。再婚家庭では義父が継子を虐待するケースがほとんどで、実母が虐待する場合でも、大方は男側の意向にそった犯行だ。  猿と同じか……それが、統計を見たときの、正直な感想だった。チンパンジーの群れではボス猿が交代するとき、群れ内の幼児猿はすべて殺される。虐殺の理由はメス猿を早く生殖態勢にもっていくためと、新しい優性遺伝子をすみやかに群れ内に定着させるため、といわれている。そういうチンパンジーの生殖パターンと、人間の再婚家庭における幼児虐待と、生物学的には同根の現象なのだ。  安彦清造も猿の本能に勝てなかったと、簡単にいってしまえば、簡単すぎるか。  ギリシャ哲学を翻訳し、絵を描いて俳句をひねって歴史を勉強して、清造もインテリではあった。実生活者としては無能だったにせよ、粗野な人間ではなかった。千秋への虐待に罪の意識を感じ、精一杯の自制もこころみた。それどころかみかんの目には、千秋を偏愛したようにさえ見えた。清造の中ではボス猿としての本能と、美しいものを愛する常識的な本能とが、極端な振幅でゆれ動いた。性的な暴力までは考えたくもないが、その可能性だって、なくはない。それを清造の罪というなら罪、宿命というなら宿命で、しかし一言で片づけてしまったら、人間の理性に対して失礼になる。そんなことは承知していながら、他にどんな解釈が可能なのか、考えても、ぼくには分からない。  茶を半分まで飲み、思考を整理しながら、ぼくは千秋の写真に目を合わせる。安彦の家にくり返されてきた悪循環をどこかで断ち切らなければ、みかんまで宿命の犠牲になる。 「彼女は……」  湯呑をちゃぶ台に戻し、千秋の写真とタネ子の顔を見くらべて、ぼくが言う。 「今日は、いつごろ、家を出ましたか」 「夕方だったず。まんずこご三日ぐれえ、部屋さ閉じこもったまんま、一歩も外さ出ねがったな。そいづが今日、おらが台所さいだどぎに、ぷいど出はったんだあ。真木子の病院さでも行ったんだべと、気にもしねがった。いづもは九時になれば帰んなだげんど、十一時さなっで十二時過ぎでも、戻んねべした。もしかすっど兄ちゃど一緒でねえべがって、ちょぴっど望みを持ってだげんどなあ。なんだべなあ、みかんがどげなごと考えでいだんだが、おらさは、まんず、さっぱす分かんねえ」 「彼女の部屋、見せてもらえますか」 「なんぼでも見でくだい。年寄りが見で分がんねごどでも、兄ちゃが見だらば、何が気がづぐがも知《し》んにし。おらはこっちさ知り人もいねし、兄ちゃだけが頼りだず」  千秋の写真が、仏壇から、じっとぼくの顔を見つめる。写真に意志があるように、冷淡な千秋の目が懇願の色に変わる。ぼくは座を立って廊下へ向かう。廊下から階段を駆けあがり、みかんの部屋へ入る。廊下にも階段にもみかんの部屋にも、煌々と明かりが灯り、家全体に溢れる明かりに、みかんを待つタネ子の心情が感じられる。  部屋の中央で立ち尽くし、窓のカーテンからパステルカラーの壁紙、ベッドやケースラックや衣類ハンガーなどを、ぼくは慎重に見くらべる。ロータイプのベッドには皺だらけのカバーが掛かり、床に散らばったCDコンポや少女雑誌も変わらない。壁にはヒマワリの絵もあって、前に見たときよりも花弁の輪郭が明瞭になっている。キャンバスに絵の具の塗りむらがないから、この絵はこれで完成か。  ぼくは腰をかがめて、ヒマワリの絵からとなりに目を移す。そこにはもう一枚新しい絵が立てかけてある。初めは海かと思ったが、どうやら池か湖の水中風景らしい。笑えるのは泳いでいるメダカがピラニアのように太っていることで、こんなメダカを養殖したら、本当に魚屋が買っていく。大胆な構成に繊細な筆使い、色彩もブルーとグレーの淡彩ながら、よく見れば味がある。さっき美波の部屋で寝惚けたとき、キャンバスに向かうみかんを思い出したのは、あれは、たんなる偶然か。  ふとキャンバスの横に目をやり、ぼくはその違和感に目を凝らす。家具も雰囲気の雑然さも、何も変わらないのに、何かが変わっている。清造のサインが入った風景画が見えないのだ。前回はそこに、暗い色調で描いた清造の絵が主のように納まっていた。今は部屋のどこにもあの風景画はなく、みかんが清造の絵を始末したことも、その理由も、もう明白だった。  清造の絵を思い出したぼくの記憶に、みかんの顔が、生意気によみがえる。同時にぼくはみかんのデイパックと、赤いキャップを思い出す。フックにはあのバッグと帽子がなく、ハンガーにカーゴパンツとピンク色のパーカーも見当たらない。今日のみかんはお得意の、あの散歩ルックなのだ。  さてそれでは、どこへ行ってしまったか。普段着だから遠出ではなく、〔お客〕に行く友達もないだろう。学校と聞くだけで心臓が苦しくなるみかんが、繁華街を彷徨うはずもない。人さらいに遭う年齢とも思えないし、あんな生意気なふて腐れ面、さらう人間もいないだろう。とすれば、考えられるのはやはり、交通事故か。デイパックは背負っていても学生証はなく、定期券も持っていない。もし交通事故で、口がきけないほどの重体だったらと、考えるだけで胃が痛む。  当惑して部屋を見まわしたとき、記憶が一瞬、逆にまわる。線香花火のような閃きが、ぱちっと脳裏を横切る。ビニールのビーチシートには絵の具箱があり、その上にプラスチックの洗面器がおいてある。白い変哲もない洗面器は、前はたしか、ドア横のケースラックにのせてあった。そしてみかんは、その洗面器をおろしてきて、無数の仔メダカを得意そうに示したのではなかったか。今絵の具箱に重ねてある洗面器は、口を上に向けているものの、水も水草も、もちろんメダカも入っていない。あのときは糸屑のような仔メダカが、洗面器一杯、気の毒なほどの密度で泳いでいた。  空っぽの洗面器を睨んだまま、ぼくは一分ほど腕を組む。ヒマワリの絵の横には池の絵があって、そこにはばかでかいメダカが泳いでいる。ぼくはこめかみを指でもみ、池の絵と洗面器を見くらべ、それから自分の頬を、ぴしりと平手で打つ。  部屋を飛び出し、階段を駆けおりながら、よーし、みかんを見つけたら本当にゲンコツを食らわしてやるぞと、ぼくは鼻息で一人ごとを言っていた。   U  高速湾岸線の照明灯が、どこまでもオレンジ色につづいていく。タクシーの左窓には東京湾があって、遠くから赤い船灯をにじませる。ぼくはバックシートに腕を組んで、運転手の後頭部を睨んでいる。中年の運転手はぼくの目付きが不気味なのか、行徳でぼくを拾ったときから口をきいてこない。湾岸線は進路をひたすら直線に描き、どこまでもぼくの雑念を阻害する。東京からこんな距離をトンボ返りする自分の間抜けさが、腹立たしくもあり、嬉しくもある。  タクシーは無言のまま平和島インターをおり、環七を北上して中原街道を左折して、無言のまま洗足池駅前にすべり込む。ぼくが考えていたのは、一時間で行徳まで往復したなという、それだけのことだった。  池沿いに並んだ柳の葉が黄ばんで見えるのは、街灯のせいか、季節のせいか。中原街道にもクルマは少なく、タクシーばかりがびゅんびゅんと行き過ぎる。ぼくは歩道を池畔の道へくだり、街灯の下を左まわりに歩きだす。一時前なら駅から急ぐ人もいるし、夏ならアベックがはしゃいだりもする。しかしもう彼岸を過ぎて、時間も午前三時、あと二時間もすれば新聞配達のバイクがやって来る。こんな季節のこんな時間に洗足池をうろつくのは、泥酔したときの水穂ぐらいだろう。  葉の落ちかけた欅の下を歩き、自宅の前へ来る。山茶花の生け垣をすかし、居間と二階の部屋を観察する。門灯と玄関灯以外に明かりはなく、客間に人の気配はない。お袋の仕事部屋は閉店で、水穂も帰っていないらしい。本当ならぼくだって、今ごろは自分のベッドで爆睡中のはずなのだ。  ぼくはため息をついて、山茶花の蕾を指ではじき、それから道を池月神社の方向へ辿ってみる。池に沿って水銀灯はあるものの、人影も物音もなく、波のない水面は黒く眠っている。カラスですらまだ起き出さず、犬の遠吠えも聞こえない。アヒルや鯉だって物陰で寝ているはずで、対岸に見えるサラ金のネオンだけが、毒々しく華々しい。  ぼくは息を殺し、耳を澄まして木橋を渡る。神経を池畔の道に集中させてみたが水銀灯だけが青白く、昼間は感じない池の水がうっすらと生臭い。  まさか、とは思いながら、ぼくは神社の石段をのぼる。境内を確認し、拝殿の縁側や賽銭箱の裏を点検する。霊気を感じないぼくの神経は夜を恐れず、ひたすらみかんの姿を追い求める。最近はホームレスだって神社なんか利用しないが、みかんなら何をするか分からない。みかんの意見では、この池月神社に、どうやら神様がいるらしいのだ。  ひとまわり境内を歩いて、探索を切りあげ、傍道《わきみち》を池畔に戻る。相変わらず街灯だけが白々しく、波のない水面がべったりとわだかまる。花見の季節ならテキ屋の屋台が連なる道に、今は紙屑も落ちていない。せめて猫でも徘徊してくれれば、気分もまぎれるだろうに、深々とした静寂がいっそうぼくの神経を苛立たせる。みかんを見つけたら、首に鎖でもつけてやるかと、なかば本気で考える。  ベンチや傍の草むらを確認しながら、池沿いを弁天島まで進む。弁天島の境内も一周して、また池畔の道に戻る。みかんは匂いすらないが、自分の確信に疑問はない。一見混沌としたみかんの行動パターンも、分かってくれば単純で、酒場で酔いつぶれたりナンパされて海を見に行ったり、そんな洒落たことは、まずしない。  鉤形に曲がった木道を海舟神社側へ渡り、暗さに慣れた目で、ついにぼくは遺失物を発見する。こんなことなら池を逆にまわればよかったが、順序としては仕方ない。ピンク色のパーカーを着たみかんが公園のブランコに鎮座し、居眠りでもするように背中を丸めているのだ。  ぼくは松林を抜けたところで、呼吸をととのえ、ブランコへ歩く。ほっとした気分と腹立たしさと、ばかばかしさと愛しさと、あとはもう分からない。神経が活性化したのか、視界が真昼のように光りだす。  ゆっくり歩いたはずなのに、足は瞬時にみかんの前へ進んでしまう。みかんは顔をうつむけて、背中を丸め、帽子の庇を膝に触れさせたまま、肩も動かさない。ぼくにこれほど心配させておきながら、自分はしっかり、居眠りを決めている。 「おまえ、なあ」  みかんの帽子を突きあげ、ゲンコツを食らわせようとして、ぼくの手が空中で躊躇する。みかんの目がふだんの倍ほどにも見開かれ、水銀灯を暗く反射させて、まっすぐぼくの目を見返してくる。顔は青いほど白く、唇はかすかに開かれ、鼻からは子供のように鼻水がたれている。  狂ったかと、ぼくのほうがパニックを起こしかけたとき、みかんの目から一気に涙が溢れだす。両足がばたつき、帽子は後ろへ飛んで、食いしばった歯からウミネコのような声が吐き出される。いくら付近に人がいなくても、地の果てではなし、こんな場面を誰かに見られたらぼくは近所を歩けない。  ぼくがみかんの肩に手をかけたとたん、ブランコの鎖が鳴って、みかんの拳がぼくの腹を急襲する。つづけて体当たりがくり出され、足蹴りまで披露される。ぼくは正面からみかんの肩を抱きとめ、必死の力で防戦する。みかんは平手でぼくの尻を叩き、額でぼくの顎を突き、踵でぼくの足を踏みつける。  池にでも放り込んでやりたい衝動をおさえ、ぼくは辛抱強くみかんの肩を押さえつづける。五分か、十分か、二十分か、攻防が延々とつづく。そのうちみかんの足踏みが止まり、頭突きが止まり、平手打ちが止まって、泣き声が唸り声に変わる。肩からも力が抜けて、平べったい腹がぐったりとぼくの胸にもたれかかる。ぼくの神経も不思議なほど平和になって、無事にみかんを発見した安堵が、しみじみと気分を温める。  しばらくみかんを抱きしめてから、ぼくは躰を離す。みかんは性懲りもなく、まだ目で泣いている。人相は感心するほど崩れ、ポニーテールも崩れている。ぼくはシャツの裾でみかんの顔を拭い、ハンカチで洟《はな》をかませる。それからちょっと考えて、鼻の頭にキスをする。 「メダカ、放したのか」  みかんがコックンとうなずき、残った涙をパーカーの袖で拭く。 「元気に生きるといいな」  またうなずいたみかんを、ぼくはブランコに座らせ、地面からみかんの帽子を拾う。洗足池なんかで仔メダカがどれほど生き残るものか、結果は知らないが、みかんの気が済めばそれでいい。この池がみかんのメダカで溢れる光景を想像し、ぼくは可笑しさをかみ殺す。  帽子をみかんの頭に戻して、ぼくもとなりのブランコに腰をおろす。メダカぐらいのことで行方不明になったみかんに腹は立つが、責任はぼくにある。 「寒くないか」 「うん」 「腹、へったろう」 「うん」 「今夜は家《うち》へ泊まるといい」 「うん」 「いつからここに居るんだ」 「八時か、九時」 「それからずっと、か」 「わたし、疲れた」 「おれも疲れた。お祖母さんも心配していた」 「家へ行ったの?」 「だからメダカのことが分かった。おまえ、おれが見つけなかったら、どうする気だった?」 「電車が動けば帰ったわ」 「お祖母さんにはおれが電話をする。今度家出をするときは、ちゃんと言ってくれ」  みかんが下唇を噛んで、鼻水をすすりながら、またコックンとうなずく。こんな家出を何度もされては堪らないが、みかんがうなずいたのは、そういう意味ではないだろう。 「わたし、本当は……」  ブランコをゆすり、首をうなだれたまま、みかんが言う。 「もっと遠くへ行きたかった。でも行くところが思いつかなかった」 「これからはおれの家に来ればいい。姉貴とお袋だけだから、気楽なもんさ」  暗いことでもあるし、赤面したって、どうせみかんの視界はぼやけている。それにぼくが物好きな性格であることも、一応は、宣言の必要がある。 「おれの彼女なら、みんな大歓迎だ」  ブランコが大きくゆれて、みかんが尻をすべらせる。重心をたてなおす仕種に、鎖がぎくしゃくと反応する。ぼくの顔にも血がのぼり、脇の下に酸っぱい汗がにじむ。水銀灯の闇に二つのブランコがゆれ、お互いがお互いの呼吸に、じっと耳を澄ます。 「わたし……」  乾いたはずのみかんの目から、また涙が流れだす。  涙を流しているくせに口調は冷静で、声にはふて腐れた感じが戻っている。みかんのゆするブランコが、錆びた鎖の音を、しつこく響かせる。 「わたし、あんたに隠してることがあるの」 「そうだろうな」 「ちゃんと聞いてよ」 「聞いてるさ」 「あのね、わたし……」  膝のあたりを見つめたまま、みかんが帽子で顔を隠し、思いつめたように息を吐く。 「わたし、親父を殺したの」  頭にのぼっていたぼくの血が、すっと退いていく。鋭くなった聴覚がみかんの心音を、正確に聞き分ける。唐突な告白ではあるが、その内容のほどに、ぼくは動揺を感じない。 「チアキばっかり贔屓《ひいき》するから、憎らしくて、親父を殺してやったの」 「呪いをかけたか」 「うん」 「千秋の部屋から魔術の道具を持ち出して、親父さんに呪いをかけた」 「うん」 「そうしたら親父さんが、海で溺れた」 「うん」 「尾崎喬夫にも、死ぬように呪いをかけた」 「うん」 「そうしたら尾崎が、河口湖で自殺をした」 「うん」 「魔女は千秋でなくて、おまえだったのか」  うなずきかけ、途中で仕種を止めて、みかんが鼻水をすする。池の遠くで水がはねる。うっすらとした水銀灯が黒い波紋をささやかに白くする。朝の早い鯉が目を覚ましたのか、それとも池の底から、メタンガスでも噴きあがったか。  みかんを抱きしめてやりたい衝動と、清造に対する怒りを抑えて、ぼくはみかんの額に人指し指を突きたてる。 「自分の彼女が魔女でも、おれは構わないけどな」 「本当に?」 「おまえに魔術が使えれば、見せ物小屋で大儲けだ」 「わたしの言うことを、信じてない」 「信じてるさ。おまえの言うことは理解できるし、魔術のまね事をしていたのも知ってる」 「知ってる?」 「この前借りた〔貴女と私の幸せ黒魔術〕という本、発行日を見たら、まだ二年もたっていなかった。あの本と〔思いどおりの貴女になれるカンタン魔術〕の二冊は、考えてみたら、他の本とはタイトルがちがっていた。専門書のほうは千秋が勉強したもので、二冊のばかばかしい本はおまえが読んだ。おまえは単純だから、それで自分が魔術を使えると思い込んだ……おまえのそういうところも、おれは、好きなんだけどさ」  みかんの肩が崩れて、ポニーテールが、ぴょんとはね上がる。尖った目が食いつくようにぼくの顔を見つめる。その目にふと、困惑と羞恥の色がまぎれ込む。 「おれも、正直に言うと……」  ゆっくり腰をあげて、ぼくが後ろから、みかんのブランコをゆする。 「魔術や呪いを、少し信じかけた。千秋が尾崎を呪い殺したのなら、それでもいい。親父さんや宮部とかいう同級生に、もし千秋が魔術を使ったというなら、それでも構わない。証明はできないし、千秋にしてみれば当然でもあった……だけど、それはないんだ」 「魔術を信じないの」 「信じない。おまえは自分の呪いが尾崎を自殺させたと思い込んだ、もしそうなら、親父さんのときもおまえの呪いで、おまえは魔術の名人になってしまう」 「わたし、本当に呪いをかけたもの」 「小学生のときだろう。千秋の部屋から魔術道具を持ち出して、『お父さんなんか死んでしまえ』とか、たぶん、そんなオマジナイを唱えた。だけど人間が、そんなことで死ぬと思うか」 「だって……」 「おれも子供のころ『姉さんなんか死んでしまえ』と、よく呪いをかけた。だけどうちの姉貴は、宇宙人より元気に生きてる」 「………」 「呪いやオマジナイで、人間は死なない。親父さんが死んだのは、本物の、ただの事故だった。そして尾崎の死は、自殺ではなかった」 「………」 「尾崎は自殺したんじゃない。犯人がちゃんといて、尾崎にウィスキーと睡眠薬を飲ませ、クルマで河口湖へ運んで溺死させた。もちろん、そいつは、千秋を殺した犯人でもある」  帽子がずれて、鼻の穴をふくらませたみかんが、下からぼくの顔を見つめる。目にもう涙はなく、口からは短い吐息がこぼれ出る。 「犯人って」 「おまえの知らないやつさ」 「その人が、本当に?」 「当たり前だ。おまえの呪いでも、千秋の呪いでもない……千秋はアパート暮らしを始めるとき、魔術を封印した。千秋に魔術が使えたとも思えないけど、いずれにしても千秋は、新しい生活を始める前に魔術趣味を封印した。段ボール箱や小物箱に貼ったガムテープは、十字架形だった。千秋にさえ使えなかった魔術が、インチキ本を二冊読んだだけのおまえに、使えるはずはない」 「………」 「親父さんの死は事故、尾崎の死は殺人だ。魔術も呪いもおまえ自身も、こんな事件とは、なにも関係ない」 「わたしは、関係、ないの」 「保証する。おまえはただの、単純なあわて者だ」  みかんの皮膚のうすい顔が、夜目にも赤くなり、唇が怒った形に結ばれる。それでも目が怒らないのは、さすがに疲れのせいだろう。 「わたし、ずっと、自分が親父を殺したと思ってた」  ぼくはみかんの頭を撫でて、ブランコをまわり、正面からみかんの肩を抱え込む。 「米沢のことはおれが悪かった。おまえを連れていくべきではなかった。人間には我慢の限界があるものな」  みかんが額をぼくの腹に押しつけ、シャックリをするように、何度か息をする。みかんだって竹俣安市に会うまで、千秋と清造の関係は知らなかった。一見親密に見える二人に嫉妬を感じ、いたずら心で清造に呪いをかけた。そこに海の事故が重なった。それでもみかんは父親を愛し、尊敬もしていた。そういう微妙なバランスで成立していたみかんの心が、この事件で崩壊した。洗足池への家出ぐらいで事態が収拾されるなら、考えてみれば、奇跡のようなものだ。 「わたし、知らないで、チアキを憎んでいた。親父にオマジナイをかけたのも、わたしなのに、それもチアキのせいにした。みんな、親父を一人占めにしたチアキが悪い。チアキは魔術で、親父を奪った。チアキは魔術で、ずっとわたしを苦しめていた。わたし、チアキなんか、死ねばいいと思っていた。だからチアキが死んだのも、自分のせいかと思っていた」 「もう言うな」 「わたし、知らなかった。親父のことも、チアキのことも、何も知らないでチアキを憎んでいた」 「おまえのせいじゃないんだ。おまえは、何も悪いことをしていない。人を憎んだり、恨んだり愛したり、そんなことは誰でもする。この世に魔術を使えない魔女なんか、いるはずはない。だからおまえは、千秋にも、尾崎にも、親父さんにも……」  言いかけて、ふと浮かんだその思いに、ぼくは言葉を飲む。魔術や呪いを否定した今、清造の溺死はたんなる事故と判断していたものが、疑問に思えてくる。実際の状況はともかく、磯野澄夫に聞いた事故の光景に、不自然さは残らないか。もしかしたら清造の死は、自殺ではなかったか。千秋に対する行為、みかんや真木子に対する裏切り、そんなことを清造は、自覚できない人間だったのか。自覚があっても抑制できない自分の人生を、清造は、自分で清算した。少しばかり同情的すぎる推理ではあるが、その可能性も、なくはない。今さら証明不可能な推理ではあっても、偶然の事故と考えるより、いくらかはぼくの怒りを慰める。 「千秋だって……」  清造の死には触れず、ブランコからみかんの腰をすくって、ぼくが言う。 「千秋だって、今ごろおまえのことを心配しているさ。あいつはきっと、妹のおまえを愛していた」 「そうかなあ」 「米沢で分かったろう。千秋は見かけより気持ちの優しいやつだった」 「うん」 「いろんなことがあって、千秋も混乱はした。見かけほどの優等生でもなかったし、他人に冷酷な面もあった。それに千秋には、多重人格症的な部分もあった」 「………」 「分かるよな」 「なあに」 「多重人格さ」 「分からない」 「まあ……とにかく、魔術も人格変換も、千秋にとっては、自分を守る手段だった。千秋はそうやって、自分と闘っていた」  正確に言えば、千秋が闘っていたのは自分ではなく、自分が清造から受けた心の傷、なのだ。心に傷のない千秋は米沢で生まれ、米沢で育って米沢で生きていた。東京の千秋はいつも、米沢の竹俣千秋に戻ろうとしていた。その葛藤が他人からは不可解に見え、ぼくに千秋の孤独を感じさせた。水穂の言う『千秋多重人格者説』に異論はないが、実際はどの程度のものだったのか。千秋は自分の病気を知っていた。その自覚の上で病気と闘っていた。綱を渡っていたが、綱からは落ちなかった。安市と会っているときの千秋の人格が最後まで安定していたのは、千秋が綱から落ちなかったことの証拠ではないのか。 「千秋は……」 「なによ」 「いや……」  千秋が綱から落ちたか、落ちなかったか。そんなことはぼくの推測で、その推測をみかんに説明したところで、意味はない。 「千秋はおまえが思っていたより優しくて、頑張る人だった」 「うん」 「姉さんの墓、もう一度、行こうな」 「うん」 「子供のころ虐待されたとか、苛められたとか、親が早く死んだとか、今はそういう心の傷に甘えることが、恰好いいらしい」 「なんの話?」 「それだけの話さ。世間で流行っていても、おまえが真似る必要はない。……ただ、それだけのことだ」  分かったのか、分からないのか、みかんがコックンとうなずく。二人の額が音をたて、自分たちが正面から抱き合っていることを、ぼくたちは同時に思い出す。  みかんが涙の乾いた目で、ぼくの目を覗き、にっと笑う。パーカーの襟からみかんの汗が、甘酸っぱく匂う。 「お祖母さんに、電話をしよう」  自分の額をさすり、みかんの手をとって、ぼくは家の方向へ歩きはじめる。後ろでブランコの鎖がきしみ、風もないのに、ブランコがゆれる。  足を止めて、みかんがふり返る。 「どうした」 「ちょっと……」 「なんだよ」 「今、そこに、チアキがいた気がする」 「ふーん」 「でも、気のせいね」 「決まってるさ。おまえに六時間も座られて、ブランコも疲れたんだろう」  みかんの手を引いて、ぼくはまた木道へ向かい、松林を抜けて木道を渡り、弁天島の前まで戻る。夜は明ける気配を見せず、犬も猫も散歩の年寄りも、カラスも雀もアヒルも見当たらない。みかんを連れて帰ったらまた水穂に皮肉を言われるだろうが、水穂が思っているより、ほんの少しだけ、ぼくは大人になっている。  太鼓橋を家の側へ渡ったとき、またみかんが足を止め、帽子を突きあげてぼくの胸に鼻をうごめかせる。 「女の匂いがする」 「うん?」 「いつかと同じ匂い」 「家が近いせいだろう」 「そうかなあ」 「家にいるのは姉貴とお袋だけで、姉貴なんか、化粧品の問屋みたいな女でさ。おまえも仲良くなったら、化粧を教えてもらうといい」  いくら水穂の化粧が濃くても、百メートルは匂わない。そんなことはぼくも承知で、もちろんみかんにも分かっている。さっきまでは単純で素直だったみかんが、また面倒なみかんに変わってしまう。お袋と姉貴に加え、みかんまで家に住みつく事態になったら、ぼくは相当に辛くなる。 「まあ、いいか」 「なあに」 「なんでもない。おまえ、また背が伸びたか」 「まさかね」 「そうだよな。二メートルを超えてしまったら、キスするのが大変だ」  みかんの腰に腕をまわして、ぼくは家へ向かう。みかんがぼくの脇の下に鼻を押しつけて、また匂いを嗅ぐ。ぼくはみかんの鼻をつまんで、頭にゲンコツを入れてやる。みかんが心の傷に甘えて生きるか、闘って生きるか、そんなこと、心配の必要はないだろう。  人のことより、心配なのは、ぼくのほうではないか。   Epilogue  アパートやマンションばかりで、こんな町、どこが面白いのか。繁華街でもないのにバス通りの人波はとぎれず、コンビニや居酒屋が点々と並んでいる。傍道《わきみち》へ入れば果てしなく住宅街がつづき、何丁目の何番地なのか、家並を見ても分からない。西の空には吉祥寺の照明がネオン色に反射し、澱んだ空気に生ゴミの臭いがまぎれ込む。西荻窪というから、昔は荻でも密生した窪地だったのか。今はフリーターの大量供給地で、ぼくと似たような連中が駅や歩道にたむろする。  ぼくは北銀座通りと西荻北三丁目の路地を幾度か往復し、今はコンビニ前の歩道にしゃがんでいる。道端には他にもバカがしゃがんでいるから、立って待つより、このほうが目立たない。時間はもう十一時に近く、バス通りにバスは走らない。  二時間も待ったころ、駅の方向から牧瀬杳子がベージュ色のカーディガンであらわれ、見向きもせずに三丁目の路地へ消えていく。ぼくはその後ろ姿を見送って腰をあげ、計算した速度で杳子の後を追う。今日は六時に仕事を終えたはずだから、帰宅までの五時間、杳子も新宿あたりで二十三歳の時間を過ごしてきたのだろう。  角を曲がって路地を二百メートルほど進み、杳子のアパートが見えだす手前で、杳子に追いつく。街灯があり、狭い駐車場があり、たまには人も行き来する。ブロック塀の向こうには明かりのついたアパートが見えている。  ぼくが声をかけ、杳子がふり返る。小柄な杳子が肩をすくめて、じっとぼくの顔を見つめてくる。 「あなた、いつかの……」 「そこのコンビニで待っていた」 「私を?」 「事件のことが分かったら、教えてくれと言われたからさ」 「でも……」 「君から電話がないので自分で来た。おれ、就職浪人で、暇なんだ」  いくらか警戒を解いたように、杳子が口をすぼめ、背筋をのばしてぼくのほうへ距離を詰めてくる。ベージュ色のカーディガンに紺のタイトスカート、ショートカットの髪に把手のついたハンドバッグをさげて、知らなければ学生かOLかも分からない。男によっては、こんなタイプを彼女に欲しいと思うだろう。 「私のアパート、よく分かったわね」 「西荻窪と聞いたしさ。それにマスコミの友達がいて、調べるのは得意なんだ」 「でも、安彦さんの事件は、犯人が自殺して決着したんでしょう」 「一般には知られていない事実がある。君が聞いたら仕事の参考になると思う」 「それで、わざわざ?」 「千秋の思い出も話したいしさ。君以外に相手が思いつかなかった」 「そうなの、そんなことで、私を待っていたの」  杳子が一度アパートの方向をふり返って、ハンドバッグを抱えなおし、小首をかしげながらぼくの顔を見つめる。視線は下から届いてくるのに、目の圧迫感が、小柄な杳子を倍ほどの背丈に感じさせる。  胃の痛みを我慢し、肩の力を抜いて、ぼくが言う。 「時間はかからない。ここで話してもいいし、どこかでビールを飲んでもいい」 「私、見たいテレビがあるの。よかったら部屋へ来ない?」 「だけど……」 「名古屋の事件が解決したでしょう。ソーシャルワーカーとして詳しい事情を知りたいの」  杳子の丸い目が鉛色に光り、ぼくは息をついて、自分のためらいに動揺する。杳子を二時間も待っていながら、まだ覚悟を決めていなかった自分が、我ながら疎ましい。 「遠慮はいらないわ。安彦さんの元彼なら、私にもお友達ですもの」  目を細めて笑い、杳子が先に歩きだし、ぼくは黙って後につづく。空気は皮膚に感じるほど湿っぽく、星も月もない空に、吉祥寺の方向にだけネオンの色が赤く見える。 〔ヴィラ武蔵野〕は上下八部屋ずつの、平凡なモルタルアパートだった。杳子が郵便受けを覗いて、二階の二〇二号室へ進む。ドアの内は細長いワンルームで、沓脱の左手が狭いキッチン、右側がトイレ兼用のユニットバス、居室部分は六畳程度だろう。フローリングの床にはペルシャ風のカーペットが敷かれ、ベッドと丸テーブルと整理ダンスとテレビがおかれている。収納部分は押し入れだから、和室を洋室風に改装したものか。  杳子がぼくに窓を背にした場所をすすめ、台所でウーロン茶を用意してから、戻ってきて丸テーブルの向かいに膝をそろえる。病院の制服より印象が艶《なまめ》かしく、ぼくはいやな緊張と、不思議な無力感に襲われる。 「山口くん、テレビをつけていい? やっぱり昼間の事件が気になるの」  ぼくの返事を待たず、杳子がテレビのスイッチを入れる。目のまわりが赤いのは、酒のせいだろう。  テレビでは十一時のニュースが始まっている。名古屋で起きた小学生首吊り殺人の続報を、現地へ飛んだキャスターが地元の警察署前から中継を送っている。 「さすがに遠藤京子よね、大きい事件では自分で現場へ飛んでるわ」 「ふーん、これが」  遠藤京子は髪を短くカットし、地味なテイラードスーツに、指にマニキュアも光らせない。声も低く、口調も落ちついていて、貫禄だけなら水穂の比ではない。それでもメイクの下に大量の小皺を感じるのは、ぼくに水穂への義理があるせいか。 「大変よねえ、知ってた? 犯人はまだ未成年ですって。猫を殺したり子供を階段から突き落としたり、前から問題のあった子らしいわ」 「人間なんて、みんな問題があるけどな」 「でもみんなが犯罪者にはならないでしょう。それにここまで残酷な犯罪は特殊よ。交通事故で人を殺すのとは訳がちがう。私、こういう少年の生活環境に関心があるの。両親は離婚して、母親と二人暮らしでお金には困らない生活。甘やかされて放任されて、それでいて、心は孤独なの。この少年を異常犯罪者と決めつけるのは簡単だけど、問題は両親や家庭にあるのよね」 「犯人に責任はない、か」 「犯人にも責任はあるけど、社会全体の責任でもあるって、そういう意味よ」 「福祉は愛だっけな」 「強い人は一人でも生きていける、でも弱い人間は生きていくのに誰かの助けが必要なの。この少年の場合も誰かが心のケアをしていれば、ここまでの犯罪は犯さなかったはずだわ」 「千秋のことを話したい」 「いいわよ。テレビを見ながらでも構わないかしら」 「まず……」  ぼくはウーロン茶のコップをとりあげ、口をつけずにテーブルへ戻す。自分から話を切り出しておきながら、頭のなかのストーリーに躊躇する。テレビでは遠藤京子が首吊り殺人の報告をつづけ、杳子はそのテレビに、寛《くつろ》いだ横顔を向けている。  二つ並んだウーロン茶のコップを見くらべ、手前のコップに意識を集中させて、ぼくが言う。 「まず、君と千秋が病院へ勤めてからの知り合いではなく、もっと前からの友達だったことを、確認したい」  顔をテレビの画面に向けたまま、杳子が視線だけをぼくに巡らす。 「山口くん、なんの話?」 「君の実家が浜松にあることは、最初の日に聞いた。でも中学を卒業するまで、君は千秋と同じ行徳に住んでいた。浜松へ移ったのは親父さんが転勤したせいだ」  床のハンドバッグから、杳子がタバコとライターを取り出し、テレビを見ながら火をつける。 「就職浪人って、本当に暇なのねえ」 「真実は暇な人間が発見する」 「そんな真実の、どこが面白いの」 「敬愛会病院で偶然同僚になった二人のソーシャルワーカーが、実は中学時代の同級生だった。しかもそのことを病院では誰も知らない……面白いと思わないか」 「それ、ただの思い出話? それとも他に、目的があるの」 「目的はある。君が千秋を殺したことを、これから証明する」  杳子の口から吐かれた煙が、ぼくの顔をかすめる。ぼくはその煙を、杳子のほうへ吹き返す。アパートの前でぼくが声をかけたときから、杳子にだって、予感か胸騒ぎはあったろう。 「山口くん、私、明日は朝が早いのよね。あなたのように暇な人と、これ以上つきあえないわ」 「もう出勤の必要はないさ。警察が来るまで、君はいくらでも寝ていられる」 「冗談を言わないで」 「真面目な話さ」 「だって、そんなこと……みんな知ってるじゃない、安彦さんを殺したのは尾崎とかいう中年男で、その尾崎は河口湖で自殺した。テレビでも事件は解決したと言ってる」 「おれの姉貴はテレビ局に勤めてるけど、テレビは信用するなと言う」 「………」 「この名古屋の事件だって、犯人は前から分かっていた。犯人の同級生や近所の主婦には事前の取材がしてある。今画面に出ている映像も、幾日か前のVTRだ……もっとも千秋の事件だけは、関東テレビのスクープになる」 「あなた、本気で言ってるみたいね」 「残念だけど、頭は正常らしい」  タバコを左の指に挟んだまま、杳子が右手でウーロン茶のコップを取りあげる。杳子はそのコップの底を、胸の前で、上下左右、ゆらゆらとゆすりはじめる。目と唇に、薄笑いが浮かぶ。  しばらくコップをゆすってから、杳子が一息にウーロン茶を飲む。 「そのオマジナイ、効《き》くのか」 「え……」 「効くとは思えないけどな。そんなオマジナイが効くなら、神社も苦労しない」 「………」 「君は緊張すると、無意識にそのオマジナイをする。敬愛会病院でも君はアイスティーの缶をゆすっていた。缶の底で何か文字を書いている感じはしたけど、ただの癖だと思って気にしなかった。でもそれは、ただの癖じゃない。それは千秋が中学のとき君に教えた、身を守るオマジナイだ」  その事実を、ぼくだって、初めは知らなかった。竹俣安市の家でみかんが同じように湯呑をゆすり、それがぼくの意識に留まった。みかんが千秋から教えられた保身のオマジナイとは、自分に悪意のある相手、困難な状況、不幸や悲運を空中に文字書きし、茶やコーヒーやジュースで、一気に飲み込むのだという。そんなオマジナイが効くはずもないが、問題はたった半年間千秋と同僚だっただけの牧瀬杳子が、そのオマジナイを行った事実だった。 「後から考えれば、不審《おか》しいことが、いくつかあった」  表情の消えた杳子の顔を、遠く感じながら、ぼくは背筋に力を入れる。 「君は千秋を知りすぎていた。尾崎との関係を、たとえ酒の上とはいえ、千秋が君に話すのは不審しい。男がいるとか別れたとか、相手の仕事とか家庭の事情とか、千秋は他人に話す性格ではなかった。家田という躁病患者のことだって、考えてみれば、不審しい。家田につきまとわれたことは事実にしても、それは、それだけのことだ。家田がアパートへ押しかけたとしても、千秋はドアを開けなかったろう。千秋に睡眠薬を飲ませるには何かに混ぜる必要がある。千秋が部屋に入れ、気を許す相手でなくては、犯行に睡眠薬は使えない。部屋へ入れない家田には不可能だ。それを承知で、君は家田の存在を言いふらした。警察にも証言し、おれにも話した。あとから考えれば、君の言うことは少しずつ不審しかった」  一度言葉を切り、ぼくは息を止めて、杳子の表情を観察する。杳子はタバコを吹かしながら、淡々とテレビに視線を向けている。 「千秋は実家を山形県の米沢市だと言っていた。友達にも敬愛会病院でも、普段は米沢市と言っていた。でも今の実家が行徳にあることを、中学時代の同級生である君が知らないはずはない」 「………」 「千秋には千秋の事情があって、実家の問題を隠していた。それなら君にどんな問題があったのか……君に問題はない。君が隠す理由は何もない。君が隠したかった事実は、千秋と中学が同級だったという、そのことだけだ」  テレビに顔を向けたまま、杳子がふっと、タバコの煙を吐く。 「あんな……」 「あんな、なに」 「あんな悪魔みたいな女、死んで当然よ。尾崎という人が千秋を殺したくなったのも、分かる気がするわ」 「千秋は君に憎まれていることすら、知らなかったろうな」 「そういう無神経な性格だったわ」 「無神経で冷酷で、サディスティックでか」 「知ってるんじゃない」 「千秋は無害だというだけの理由でおれを誘い、退屈だというだけの理由で離れていった」 「ありそうなことね」 「おれは気にしなかったけど、普通なら、冷酷な仕打ちだ」 「………」 「おれにしたのと同じ仕打ちを、千秋が宮部という高校の同級生にしたことは想像できる。宮部勇司の自殺を、少し調べてみたんだ」  表情のないまま、杳子の指が灰皿の上で、タバコの灰を落とす。 「千秋が宮部を翻弄したことは、何人かの友達に聞いた。千秋の冷酷さを非難するやつも、宮部の意気地なさを非難するやつもいた。千秋を無神経だというなら、宮部も無神経だ。ふられたぐらいで自殺したら相手が困る。千秋がどれほど罪の意識を感じるか、宮部は考えなかった。逆に千秋は自分の冷酷さを自覚していた。だからこそ千秋は自分を変えようとした」 「山口くん」 「うん?」 「あなた、いい人なのね」 「常識家さ」 「それなら常識で考えなさいよ。人間の本質が、簡単に変わると思う? 病院での千秋は仕事熱心に見えた。でもあれはそういう芝居だったのよ。あの女は病人や精神障害者をいたわるふりをして、本当は陰で虐待していたの。家田浩二のケースも、千秋はただ遊んでいたの。他の人の目はごまかせても、私は騙されなかった」 「そういう議論はしたくない」 「議論ではなく、事実よ」 「千秋が天使のように高潔だったとは言わない。冷酷な部分もあったろうし、性格に問題があったことも認める。だけどそんなことは、君が自分の裁判で証明すればいい。おれが証明するのは君の悪意だ」 「私の、悪意?」 「なぜ君が千秋を憎んだのか。中学時代の君は宮部とつきあっていた。高校生になって浜松へ転居してからも、君と宮部は東京で会っていた」  杳子が灰皿を引き寄せ、小首をかしげながら、しつこくタバコをつぶす。スカートの膝が割れ、頬に片笑窪が浮きあがる。 「そんなことで、なんの犯罪が証明できるの。私と千秋が中学の同級だったことが分かったからって、誰が褒めてくれるわけ」 「おれが自分を褒めてやる」 「千秋に遊ばれた男の子や千秋を憎んでる人間は、いくらでもいる。あなたもあの女に遊ばれて、恨んでるじゃない」 「おれは千秋に遊ばれていることに気づかなかった。だから千秋は、おれに退屈した」 「それはあなたと千秋の問題よ」 「宮部はおれより繊細で、純情だったか」 「彼と私は小学校から一緒で、お互いを信じ合っていた。宮部くんはお医者になる夢を持っていて、まじめに勉強もしていた。将来は二人で福祉の充実した病院を開こうと話し合っていた」 「偉いんだな」 「千秋は宮部くんと私の夢を踏みにじったの。あの女は他人の幸せが我慢できない性格だった。私と宮部くんの交際を知っていて、千秋は面白半分で宮部くんを誘惑したの」 「千秋が宮部を誘惑したのか、宮部が勝手に千秋に惚れたのか、それは知らない。だけど惚れたり憎んだり、つきあったり別れたり、そんなことは、誰の責任でもない」 「宮部くんを、侮辱する気?」 「おれは誰も侮辱しない。おれが言ってるのは、男と女のことだ。たとえば今、こんな時間に、こんな狭い部屋で、君みたいに可愛い女の子が、こんな近くにいる。でもおれは君に惚れない。それは君の責任ではなく、おれの責任でもない。君に惚れるか惚れないかは、おれの勝手さ」  ライターを握った杳子の指が、その場で固定され、炎のなかに浅い息がくり返される。杳子の胸が意外な豊かさで、淫靡に盛りあがる。 「山口くん、それで、気が済んだわけ?」 「君が千秋を憎んでいたことは、確認できたと思う」 「宮部くんのことで私は千秋を憎んでいた。でもそれは、私の勝手よ。あなたの言うとおり、惚れたり憎んだり、そんなことは誰の責任でもない。たとえ私が千秋を憎んだとしても、犯罪にはならないわ」  杳子の顔とウーロン茶のコップを見くらべ、コップを指で弾いて、ぼくが言う。 「ウィスキーがあったら、ロックでもらいたい」 「悪いけど、私、ウィスキーは飲まないの」 「尾崎には飲ませたはずだけどな」  杳子の眉がゆがみ、一瞬頬に走った痙攣が、じわりと微笑みに変わる。 「山口くん、本当はもう、酔ってるんじゃない?」 「酒さえ飲まなければ、尾崎にも魅力があったんだろうな」 「それがどうしたのよ」 「さっきも言った。尾崎が化粧品会社に勤めていることや、女房子供がいること、それにそういう男と自分がつきあってることを、千秋が他人に話すはずがない。千秋からではないとしたら、君は誰から聞いたのか……相手は一人しかいない」  ぼくの顔を目の端で眺めながら、杳子がゆっくりとタバコに火をつける。目のまわりからは赤みが消え、首筋も白くなっている。 「君、尾崎の奥さんには会ってないだろう」  テレビではニュースがつづき、杳子の指からはタバコの煙が流れて、部屋の空気が粘っこく固着する。ウィスキーなんか飲みたくもないが、緊張がぼくに酒の酔いを要求する。 「尾崎の奥さんが言うには、今年の二月ごろ亭主の浮気に気づいたそうだ。気づきはしたけど、高をくくっていた。尾崎は女で家庭を壊すタイプではないし、仕事にも支障はない。相手が看護婦か薬剤師か、敬愛会病院に関係のある女らしいことも分かっていた。でも亭主の浮気なんか、どうせすぐに終わる。家庭が壊れなければそれでいい……ところが、尾崎の浮気は止まらなかった。いつもの浮気とは様子がちがう。ただの勘ではあったけど、奥さんは念のため、興信所に浮気調査を依頼した。それが五月の初め、調査の結果は二週間後に出て、以来尾崎の家では地獄がつづいたそうだ」  ウーロン茶に手をのばしかけて、自重し、ぼくは唾液だけで咽を潤す。 「興信所が報告してきた浮気相手は、看護婦や薬剤師ではなく、安彦千秋というソーシャルワーカーだった。だけど、それは、不審しい。千秋が病院へ勤め始めたのは四月からなのに、尾崎はその前から敬愛会病院の女と浮気をしている。つまり、同じ敬愛会病院の女ではあったけど、浮気相手は途中で変わった。初めに尾崎とつきあっていたのは君、千秋を尾崎に紹介したのも君だった……おれの推理が間違っていたら、訂正してくれ」  杳子の口からぷかりと煙が吹かれ、ぼくは押し寄せる無力感を、首をふって追い払う。 「尾崎は死ぬ五日前にマンションから失踪して、以降は行方が知れなかった。警察もマスコミも尾崎が逃亡したと考えた。逃亡したからには千秋殺しの犯人は尾崎だと思う。誰が考えても、その通りのはずだった。だけど、尾崎は、事件から逃亡したわけではなかった。尾崎はただマスコミや警察に煩わされることなく、酒が飲みたかった。あいつの希望はそれだけだった。尾崎のマンションへ行ったとき、おれも尾崎の口から聞いたのに、忘れていた。あいつはもう人生を投げ出して、ひたすら酒が飲みたかった。尾崎は世間から姿をくらまし、気が済むまで、ひたすら酒を飲んだ。飲みながらもテレビを見れば自分のおかれた状況は分かる。自分が犯人扱いされていることも知っていた。だけど尾崎は気にしなかった。尾崎はテレビやマスコミの騒ぎを楽しんでいた。自分が犯人でないことは、尾崎自身が知っていたからだ。テレビのバカ騒ぎを横目で見ながら、尾崎はどこで酒を飲んでいたのか。ホテルや旅館ではなかった。通報されたらそれまでだし、金もなかった。尾崎が失踪中の四日間、どこに隠れていたか、どこで酒を飲んでいたか……」  タバコをつぶして、杳子が不意に腰をあげ、ぼくを無視してキッチンへ歩く。小柄なわりに足は肉感的で、引き締まった足首も美しい。  キッチンから戻ってきて、杳子が元の場所に座り、目の高さにビールの缶を振ってみせる。 「一本しかないの。このビールは私が飲ませてもらうわ」  杳子がプルトップを引いて、ビールを口に運び、細めた目でぼくの顔をうかがう。ぼくは腰をあげず、背中を窓枠にもたれさせる。 「どうしたの、もう戯言《たわごと》は終わりなの?」 「君次第さ」 「私は退屈で眠くなったわ。本当に私、明日は朝が早いのよ」 「おれだって早く帰りたい」 「どうぞご自由に。それとも帰る道が分からない?」 「道は分かってる。このアパートへ来るのは、今日で三度目だ」 「三度目……」 「一昨日なんか、朝の六時から、ずっと下の道に立っていた」 「どうして」 「君がこの部屋を出たのは朝の七時二十五分、不燃物回収の日だったから、君は角の回収場にゴミ袋を捨てていった。おれも自分がゴミを盗む人間になるとは、思ってもいなかった」 「………」 「ストーカーみたいだけど、成果はあった。ウィスキーを飲まないという君のゴミ袋から、ウィスキーの空きビンが五本も出てきた。それはおれが尾崎のマンションで見たのと同じ銘柄だった。警察へ渡したから、もう指紋の照合も終わったろう。だから君がゆっくり寝られるのは、今夜一晩だ」  杳子の口から、音もなく、乾いた息がもれる。 「不燃物の回収が週に一度だけで、運が良かった。もっとも警察がその気になれば、君と尾崎の関係ぐらいすぐに突きとめる」 「山口くん」  そのとき、テレビの音が変わって、画面に『緊急特報』というタイトルが映し出される。アナウンサーが「河口湖変死事件に新展開……」と、宣言する。杳子の膝で、ビールの缶がまた何かの文字を書き始める。  画面に報道部の山口記者が、颯爽と登場する。水穂は自分で『勝負服』と呼んでいるグッチのスーツに身を包み、スーツの袖からカルティエの腕時計をきらめかせる。背後にはレンタカー会社のネオンがにじんでいる。 「はい、報道部の山口水穂です。私は現在、都内某所にあるレンタカー会社の前に来ております。河口湖の溺死事件に急展開がありました。これは関東テレビの独占スクープです」  口調は冷静さを装っているものの、水穂の目は普段の倍ほども光っている。前髪のカールと付け睫《まつげ》とダイヤのピアスと、局内に誰か、水穂を止める人間はいないのか。 「東京のソーシャルワーカー殺害犯人と思われていた、尾崎喬夫容疑者が溺死した件について、警察は新たな情報を入手した模様です。尾崎容疑者の足取りを追っていた捜査本部は、同容疑者が使用したと思われるレンタカーを発見、現在走行経路、河口湖での目撃者の発見に全力をあげております」  都内某所のレンタカー会社が、青梅街道の〔帝都レンタカー〕であることは、もう分かっている。レンタカーの可能性を警察に通報したのも水穂で、借り主が牧瀬杳子である可能性も、同時に伝えてある。  ゆすっていたビールの缶を、テレビの画面を見つめたまま、杳子が口へ運ぶ。それはもうオマジナイではなく、ただの癖なのだろう。 「記者のくせに、この女、派手すぎるわ」 「視聴者の感想として、伝えておく」 「あら」  画面の右下には〔報道部・山口記者〕とテロップがある。杳子が画面とぼくの顔を見くらべる。 「姉貴なんだ」 「そうなの」 「本当はクルマを借りた人間も分かってる。高速道路の料金所には監視カメラがあって、クルマのナンバーはすべて記録される。今ごろは君が借りたレンタカーのナンバーと、料金所の記録とを警察が照合している」  マイクを握った水穂の声が厳しくなり、目が露骨に見得を切る。 「レンタカーには同乗者があったと見られ、当初は自殺と思われていた事件が、新たな方向に向かうのは必至の模様です。第三の人物が浮上したことによって、ソーシャルワーカー殺人事件も新たな展開が予想されます。この事件からは、当分目が離せません。関東テレビの独占スクープとして、報道部の山口水穂がお伝えしました」  警察の捜査だって大詰めで、もう犯人も特定されている。それを報道できない水穂の無念さが、鼻息にきっぱりとあらわれている。 「山口くん」 「うん?」 「タバコ、持っている?」 「吸わないんだ」 「タバコも吸わないで、暇をもて余して、あなたも迷惑な人ね」 「尾崎が河口湖へ行くと言いだしたのは、別荘が理由だろう。河口湖には女房方の別荘がある。四日もこの部屋に隠れていれば、尾崎だって息がつまる。だから尾崎は別荘で、のんびり酒が飲みたくなった。今の季節に、別荘が使われないことは分かっていた。たとえ警察に発見されたところで怖くはない。自分は犯人ではないし、どうせ人生も投げている。尾崎はそれでいいとして……」  ニュースが終わり、水穂の圧迫から解放されて、ぼくはほっと息をつく。そういえばビデオのセットを忘れたなと、ぼくは頭の片隅で考える。 「尾崎はそれでいいとして、問題は君のほうだ。最初から尾崎を殺すつもりで機会を狙っていたのか、それとも尾崎に、君が千秋殺しの犯人と気づかれたからか。どちらにしても尾崎が捕まれば、自分が危ない。尾崎にウィスキーを飲ませたり、睡眠薬を飲ませたり、昏睡させて河口湖へ放り込んだり、そんなことは、簡単だったろう」 「………」 「人間を殺すことぐらい、やってみれば、簡単なんだろうな」 「山口くん、そのウーロン茶、飲まないの?」 「咽が渇かないんだ」 「臆病なやつ」  吐き気を感じ、窓枠から背中を離して、糊のなかを泳ぐように、ぼくは腰をあげる。 「君に訂正がなければ、帰る」  テレビでは合コンゲームのような番組が始まって、人生がいかに気楽であるか、知らないタレントが作り笑いを押しつける。西荻窪のこんなアパートの、こんな部屋のこんな立場の女にも、テレビは平等に、人生は気楽であると語りかける。 「山口くん」  キッチンの境まで歩いて、足を止め、杳子をふり返る。杳子は立てた膝に両腕を巻きつけ、ビールの缶を口の前に構えている。 「私が逃げたら、どうするつもり?」 「君の勝手さ」 「逃げないと思うの」 「逃げたければ、逃げればいいさ。自殺してもいいし、自首してもいい。疲れていれば、警察が来るまで寝ていてもいい」  踵を返しかけ、迷って、ぼくは柱にもたれる。 「君、千秋に対して、いつから殺意をもっていた?」 「決まってるわ」 「尾崎を奪われたとき、か」 「私にも我慢の限度があった」 「君は我慢強い性格に見えるけどな」 「あなたには分からない」 「事実を知りたいだけさ」 「暇人の相手はご免よ」 「千秋の殺され方が気になる」 「勝手に気にすれば?」 「睡眠薬で眠らせて、生きたまま焼き殺す……あれは、思いつきの殺意ではないだろう」 「あの女には相応しかったじゃない」 「分からないことはまだある」 「私が千秋を殺した。それをあなたが証明した。もう気は済んだでしょう」 「君と千秋は偶然同じ職場になったのか」 「あの女が私に付きまとったのよ。いつもそうやって、私を苦しめていたの。千秋を殺さないかぎり、いつかは私が破滅した。あの女は執念深い性格だった。あの女にとって、私は快感を提供する玩具だったの」 「それならなぜ隠しつづけた。中学時代の同級生であることを、君が病院に隠す必要はない。千秋から逃れたければ就職の邪魔もできたはずだ。君は就職の妨害もせず、ずっと気の合う同僚を装っていた」 「………」 「君の千秋に対する殺意は、尾崎がきっかけではない。君の殺意はもっと以前からのものだった」  一度つぶしたタバコを、灰皿からつまみ上げ、目を細めて、杳子が火をつける。 「君は心の深い部分で千秋を憎みつづけていた。尾崎のことなんか、ただ利用したにすぎなかった」 「あなたが何を言おうと、私は尾崎さんを愛していた」 「証拠がない」 「愛に証拠は要らない。愛する人を奪われた私の気持ちが、あなたに分かる? 私は、被害者よ。千秋に人生をもてあそばれた、悲しい女なの」 「芝居は警察ですればいい」 「警察も裁判所もマスコミも、弱い人間の味方だわ」 「いい世の中で、よかった」  口のなかで、ぼくは唾液と、自分の冷酷さを混ぜ合わせる。 「だけどもし、尾崎の死が自殺で処理されていたら、どうなっていた?」  杳子が目を細めたまま、強くタバコを吸う。窓の外で、風がざわりと音をたてる。 「不倫に狂った中年男が錯乱して、相手の女を殺し、仕事も家庭も失って自殺をした。下らないストーリーではあるけど、単純なだけ説得力があった」 「………」 「千秋を焼き殺して尾崎を犯人に仕立てあげる。尾崎の殺害は千秋の事件に気づかれたからではなく、君の、初めからの計画だった。君は計画通りに実行し、すべては順調に運んだ。もし就職浪人の未練男が登場しなければ、君のストーリーは完璧だった」  杳子がタバコをつぶし、灰皿から別の吸止《すいさし》をつまみ上げる。指先はふるえているが、目は笑っている。 「そんなこと、あなたの妄想よ」 「そうだろうな」 「証拠がないわ」 「証拠もないし、証明するつもりもない」 「それなら、なぜ?」 「なぜ?」 「なぜ私を苛めるの?」 「なぜかな……たぶんおれは、偉い人間が嫌いなんだろう」  突然ぼくに向かって、ビールの缶が飛ぶ。缶は後ろの壁に当たり、床をころがって、カーペットにビールの染みを残す。杳子の目には血管が走って眼球がむき出され、口が耳の下まで裂ける。こめかみには青筋が浮き、ミミズのように痙攣する。顔は土気色に変わり、口臭が、ざらりとぼくに押し寄せる。  一瞬の幻覚が去って、ぼくはテーブルの上に、ビールの缶を確認する。カーペットにも染みはなく、ただ白いだけの杳子の顔が、無表情にぼくの顔を見あげている。 「ただ暇だというだけで、あなた、迷惑な人ね」 「たぶん、な」 「でもあなたの妄想には欠陥がある」 「そうかな」  肩でひとつ息をつき、ぼくは目のなかの残像をふり払う。 「正直に言うけど、私、二人を殺してやったわ」 「うん」 「二人とも簡単に死んでくれた。あの無神経な女は私に憎まれていることなんて、考えてもいなかった。私が持っていったハルシオン入りのアップルパイを、二個も平らげた。千秋はそういう意地汚い性格だった。尾崎を眠らせることなんか、もっと簡単だった。あいつは私を裏切ったくせに、平気で部屋に来た。お酒を飲みながら、平気で私を抱いて、私とやり直そうとか、そんなバカなことも言っていた」 「………」 「私が二人を殺したことは認める。でもあなたが言うように、昔からの計画だったなんて、誰にも証明はできない。私は善意の被害者なの。子供のときから千秋に苛められて、高校生のときは好きな男の子を殺された。それでも千秋に尽くして、社会人になったら、また千秋に裏切られた。こんな私を誰が非難するの。世間はみんな私に同情する。私は逃げも隠れもしない。警察の取り調べにも素直に応じる。裁判だって、きっと情状酌量がつく。あなたは悔しいでしょうけど、刑務所なんか十年で出られるわ」  不愉快な疲労が、ひたひたとぼくを襲い、議論の気力もなく、ぼくは沓脱へ歩く。杳子もどうせ、こんな田舎芝居は、もう終わらせたいと思っている。  靴に足を入れ、ドアを開けて、もう一度ぼくは杳子をふり返る。  上気した顔を、杳子が黙って上向ける。 「千秋を殺したのは、やっぱり尾崎だ。君は尾崎に同情して自殺を手伝っただけ……このストーリーなら、ほとんど君のオリジナルだ」 「………」 「証拠もないし、証拠を探すつもりもない。君のストーリーのほうが、おれのストーリーよりは健全だ」 「慈悲は要らないわ」 「分かってるさ」 「同情も要らない」 「君には慈悲も同情も、必要ない」 「それなら……」  顔をそむけて、杳子がぼくのウーロン茶に手をのばす。 「それなら、放っておいてよ。あなたのお節介も、あなたの存在も、すべてが迷惑だわ」  ウーロン茶を一口飲んで、杳子がちらっと、ぼくに皮肉な目を向ける。 「眠りたいだけよ。五錠ぐらいのハルシオンで、誰が死ぬもんですか」  ぼくがそのウーロン茶を飲んだとして、杳子はぼくに、何をするつもりだったのか。もし水穂がテレビで事件の報告をしなかったら、杳子は、ぼくの言葉を信じたか。 「千秋は君を憎んでいなかった。君に憎まれていることすら知らなかった。他人に心を開かない千秋は、君のことを親友だと思っていたかも知れない。そんな君に、死んでからも憎まれたら、千秋が可哀そうだ」  ウーロン茶を飲みほし、片頬に笑窪をつくって、杳子がぼくに嘲笑の視線を向ける。杳子の嘲笑は、粘っこく、悲しい力でぼくを圧迫する。ぼくは肩で杳子の視線をさえぎり、外へ出てドアを閉める。空気には雨粒が混じっていて、アパートの外階段にも横からいやな風が吹きつける。まだ電車はあるだろうかと、ぼくは時計も見ずに考える。  階段をおりて路地をバス通りのほうへ歩きながら、ぼくは感慨もなく杳子の視線を思い出す。杳子は最後に、何を嘲笑したのか。人間の不可解さと杳子を憎みきれなかった無力感が、鬱々とぼくの足を急がせる。雨が降って夜中をすぎて、しかしぼくには、帰る家がある。  赤トンボか……とぼくは街灯の雨粒に目を凝らす。住宅街の暗い街灯が埃っぽい色に氾濫し、感傷のなかで米沢の赤トンボが乱舞する。 「仕方ないことは、仕方ないよな」  声に出して一人ごとを言い、上着を頭にかぶって、ぼくは雨のなかを走り出す。明日になったら水穂から金一封をふんだくって、みかんを旅行に連れ出そう。ちゃんと神様のいる神社があって、海があって山があって温泉があって、ヒマワリが咲いてサクランボが実って油揚げが名物の観光地なんて、さて、どこにあるものか。  バス通りのほうから学生風の女の子が、傘をささずに駆けてくる。ぼくは足を止めて走り去る女の子をふり返る。女の子は奇麗なふくらはぎを颯爽と交差させ、踵の低い靴で軽々と駆けていく。位置の高い腰に尖り気味の肩、髪はやわらかくゆれ、脇の下には大きいバッグを生まじめに抱えている。ぼくの目に千秋の横顔が走りすぎる。走っていく千秋の背中を、銀色の赤トンボが嬉々として追いかける。  ぼくは千秋が闇に消えてから、上着を頭から肩へ戻し、雨に向かってゆっくりと歩きはじめる。 〈お断り〉 本作品を「文春ウェブ文庫」に収録するにあたり、一部の漢字が簡略体で表記されている場合があります。 また、差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。 単行本 二〇〇一年四月 文藝春秋刊